第43話 王宮の報告、学園の噂
その報告書が王宮へ届いたのは、午前の執務がひと区切りついた頃だった。
王都ギルドからの正式報告は、通常なら担当官の確認を経て、必要があれば王宮内の実務部署へ回される。冒険者の昇格や地方街での討伐報告など、珍しくはあっても、王が直接目を通すものばかりではない。
だが、今回は違った。
封の上には王都ギルドの印だけでなく、ハルヴェイン支部からの添書、周辺各街の被害確認、昇格査定に関する追加記録まで揃えられていた。文官が机へ置いた時、紙束は思いのほか厚かった。
王はそれを見て、すぐには手を伸ばさなかった。
窓の外では、王都の午前がいつも通りに動いている。兵の交代の足音。遠くの鐘。馬車の車輪が石畳を越える音。王宮の執務室には、その気配が薄く届く。
表面は何も変わらない。
けれど、机の上の紙束だけが妙に重い。
「ナタリア・ヴォルディアの件か」
王が言うと、文官は一礼した。
「はい。王都ギルドより、特例昇格に関する報告でございます」
「特例」
王はその言葉を繰り返した。
わずかに苦く響く。
特例という言葉は便利だ。扱いに困るもの、前例に収まりきらないもの、だが無視もできないもの。そういったものを一時的に受け止めるために使われる。
ナタリア・ヴォルディアという名は、もともと王家にとって軽いものではなかった。
第二王子エドワードの婚約者として置かれていた侯爵令嬢。学院で断罪の場に立たされ、模擬戦でエドワードを三度退け、王城では学院側の越権と王家側の補償の中で、自分の進路を静かに切った娘。
あの日の会議室で、彼女は泣かなかった。
縋りもしなかった。
婚約が実質的に壊れたことも、学院判断が制度上差し戻されたことも、自分の今後にどれほど影響するかも、まるで全部机の上に並べて見ているような顔をしていた。
このまま家に戻っても、行かず後家になりますので。
冒険者になろうと考えております。
その言葉は、今でも王の耳に残っている。
王はようやく報告書を開いた。
第一王子はすでに呼ばれていた。
執務机の向かい、少し控えた位置に立っている。父王が最初の数枚に目を通すあいだ、彼は黙って待っていた。
紙をめくる音だけが、部屋に残る。
王の指が、ある箇所で止まった。
ナタリア・ヴォルディア。
冒険者ランク、CよりAへ昇格。
その下に、理由が並ぶ。
ハルヴェインにおける中規模スタンピード対応。
周辺各街への伝令進言。
防衛線構築。
現地指揮。
A相当ミノタウロス討伐。
戦後処理。
討伐素材の現地復興および負傷者対応への提供。
王はしばらく黙って読んだ。
強敵を討った。
それだけなら、武功として分かりやすい。王宮の人間にも扱いやすい。名を上げた冒険者、勇敢な侯爵令嬢、そういう物語にしてしまえる。
だが紙面に並んでいるのは、討伐だけではなかった。
伝令を出した。
防衛線を持たせた。
周辺街にも対応を取らせた。
戦ったあと、素材を現地へ残した。
そこまで書かれている。
王は別紙を取り上げた。
同行者レオナ、DよりBへ昇格。
正式パーティ登録。
構成員、ナタリア・ヴォルディア、レオナ、従魔ポンタ。
パーティ名。
王はそこで、ほんの少しだけ眉を動かした。
「淑女の噛み癖」
声に出して読むと、部屋にいた文官が一瞬だけ目を伏せた。
笑いを堪えたわけではない。どう反応していいか分からなかったのだろう。
第一王子は、わずかに目を細めただけだった。
「本人が名付けたのでしょうか」
「そうでなければ、周囲もなかなか通すまい」
王は紙を置いた。
「冒険者になったとは聞いていた」
そこで一度、報告書の上へ視線を戻す。
「だが、ここまで早く形にするか」
第一王子は、すぐには答えなかった。
父王がどこを重く見ているのか、彼にも分かっていた。
これは、婚約を失った侯爵令嬢が、居場所をなくして冒険者になった話ではない。
自分で次の置き場を選び、その場所で結果を出し、他者と並び、別の評価軸で価値を固め始めた者の報告だった。
「食い詰めて冒険者になったのではありません」
第一王子は静かに言った。
「自分で選んだ道で、実績を積んでいます」
「そうだな」
「しかも、王家の外で価値を固めています」
王は椅子に背を預けた。
王宮の空気が、少しだけ沈む。
制度上、ナタリアとエドワードの婚約解消は一度差し戻された。だが、あれは学院が持たない裁定権を振るったことを正しただけだ。壊れた関係そのものを、元に戻したわけではない。
王城を出た後、ナタリアは学院を卒業扱いで去った。
王家へ戻るでもなく、エドワードの隣へ戻るでもなく、冒険者ギルドへ向かった。
そして今、こうして報告書の中で戻ってきている。
王家の枠ではなく、王家の外の実績として。
「学院を去った時点で、あれはもう戻る気がなかったな」
「はい」
第一王子は迷わず答えた。
「少なくとも、エドワードの隣へ戻るためには動いていません」
王は、報告書のハルヴェイン支部推薦状に目を移す。
そこには感情的な賛辞はなかった。
助けられた、救われた、という言葉よりも、何をしたかが淡々と並ぶ。
初動判断。
伝令。
配置。
防衛。
核討伐。
復旧。
地方のギルドマスターが、相当慎重に文面を整えたのが分かる。浮かれた褒め言葉ではなく、王都側が後から見ても筋が通るように、事実を順番に置いている。
「これはもう、王家の都合だけで扱える娘ではないな」
王は低く言った。
第一王子は、ハルヴェインの推薦状写しを手に取った。
目が止まったのは、討伐そのものではない。
討伐までの流れだった。
「ただ強いだけではありません」
彼は言う。
「伝令、配置、防衛、戦後処理。報告書に並んでいるのは、戦功よりも運用です」
「気になるか」
王の問いは短い。
第一王子は少し沈黙した。
言葉を選ぶための間だった。
「気になります」
否定はしなかった。
「弟の婚約者だったからではありません」
王がわずかに目を細める。
「王家の外へ出たあと、これほど早く自分の置き場を作る者は多くありません」
第一王子は続ける。
「まして、ただ名を上げただけではない。現地で街を持たせ、周辺の被害も抑えています」
「女としてか」
王の声は軽く聞こえた。
だが、試す響きがある。
第一王子は目を逸らさない。
「今は、人材としてです」
「今は、か」
王はその言葉を拾った。
第一王子は否定しなかった。否定するには、自分でもまだ言葉になっていない興味があった。
王城で彼女が「冒険者になる」と言った時、彼は少し面白いと思った。
泣きもせず、誰かを責めもせず、自分の次の置き場を切った。
ただし、そこで終わるなら、少し変わった令嬢で済んだ。
次を口にするだけなら誰でもできる。
今は違う。
報告書には、次へ進んだ後の結果が記されている。
「少なくとも、軽く扱うべき相手ではありません」
第一王子はそう言った。
王は机上の紙束を見下ろす。
ナタリア・ヴォルディア。
その名は、王家の記録の中で、すでにいくつもの肩書を持っている。
元第二王子婚約者。
ヴォルディア侯爵令嬢。
学院を去った者。
冒険者。
だが今、そのどれもが以前とは違う響きを帯び始めている。
「一度、今の彼女を見てみたいですね」
第一王子が静かに言った。
「学院にいた頃の姿では足りんか」
「足りません」
即答だった。
「報告書の中の彼女は、もう学院の令嬢ではありません」
王は小さく息を吐いた。
「エドワードは、これをどう読むかな」
その声に、父としての重さと、王としての冷静さが混じる。
第一王子は少しだけ視線を伏せた。
弟の顔が浮かんだ。
負けを負けとして受け止めきれず、ナタリアに教えられたことの意味も、すぐには飲み込めなかった弟。
彼はまだ、ナタリアを自分の物差しの上に置きたがるのではないか。
「おそらく、冒険者としての評価だと切り分けるでしょう」
「王家には関係ない、と?」
「そこまで愚かではないと思いたいですが」
第一王子は一拍置く。
「王子妃としての価値とは別だ、とは言うかもしれません」
王は笑った。
愉快だからではない。
あまりにあり得る反応だったからだ。
「まだ、王子妃の物差しで測るか」
「測りたいのでしょう」
「もう、測られる場所におらんのにな」
その言葉で、部屋は静かになった。
文官は黙ったまま、目を伏せている。
机の上の紙束だけが、同じ重さでそこに残っていた。
同じ頃、王立学院では、その名前がもっと軽い音で廊下を流れ始めていた。
最初に噂を持ってきたのは、男爵家の四女だった。
図書室の隅で、彼女は厚い本を二冊抱えたまま、いつもより少し早い足取りで友人たちのところへ寄ってきた。
走ってはいない。
学院の廊下で令嬢が走るものではないと、彼女も知っている。
だが、息は少し弾んでいた。
「聞きました?」
「何をですの」
「ナタリアお姉様が、Aランクにおなりになったそうです」
その一言で、近くの席にいた少女たちが一斉に顔を上げた。
声は小さい。
けれど、反応は早かった。
ナタリアお姉様。
その呼び方は、ナタリアが学院を去ったあとも、下位貴族の少女たちの間でひそかに残っていた。
本人が聞けば、そんな大げさな呼び方は必要ないと言うかもしれない。
けれど彼女たちにとって、その呼び方はもう、ただの憧れではなかった。
学園の外縁で、ナタリアが仕事をしている姿を見た。
侍女や下男へ短く指示し、荷道の土を見て、林道の小さな乱れを拾っていた姿。
喋る従魔を足元に置き、剣を帯び、中へ戻るのではなく、外で仕事を終えて去っていった姿。
あの時、ナタリアはもう学院の中の人ではなかった。
けれど、遠くなっただけでもなかった。
外で立っている姿を、一度きちんと見せていった。
だから今回の噂は、ただの武勇伝には聞こえなかった。
あの時、本当に外で立っていた人が、さらに先へ進んだ。
そんな実感があった。
「Aランクとは、そんなにすごいのですか?」
礼法の授業でいつも視線の置き場に迷っていた子が、不安そうに聞いた。
男爵家の四女は、すぐには答えなかった。
本を抱え直し、少しだけ声を落とす。
「王都ギルドでも、かなり上の方だそうです」
「どこで聞きましたの?」
誰かがそう尋ねると、彼女は一瞬だけ言葉を止めた。
「家の方で、少し」
それだけ言って、詳しくは続けなかった。
その間を、誰も深くは追わない。
下位貴族の家には、それぞれ小さな伝手がある。商家と繋がる家もあれば、騎士団や役所に縁のある家もある。表に出すほどではない話が、食卓や廊下の端で少しだけ漏れることもある。
彼女がそれを拾ってきたのだと、皆はそう受け取った。
「ハルヴェインという街で、スタンピードを止められたとか」
「スタンピード……?」
「魔物が押し寄せる、あれでしょう?」
「そんなものを、ナタリアお姉様が?」
「はい」
男爵家の四女は小さく頷いた。
「それに、ミノタウロスを討たれたそうです」
その場の空気が、また変わった。
ミノタウロス。
学園の授業で聞く魔物の名と、実際に討ったという話では、響きがまるで違う。
学園の模擬戦で強いのとは別の話だった。
安全な訓練場の剣ではなく、街を守るための剣。
講義で聞く防衛論ではなく、実際に伝令を出し、防衛線を持たせ、原因になった魔物を討つこと。
それは彼女たちの知っている令嬢の世界からは、かなり遠い。
けれど、その遠さの中にナタリアがいることは、不思議と不自然ではなかった。
「やっぱり、お姉様は本当に外で立っておられたのですね」
小柄な令嬢が、ぽつりと言った。
皆が黙る。
その声には、少しの誇らしさと、少しの寂しさが混じっていた。
男爵家の四女は、抱えていた本の角を指先で撫でた。
「それから」
そこで一度だけ、彼女は視線を落とす。
「レオナ様、という方も……Bランクに上がられたそうです」
「レオナ様?」
「どなたですの」
「王都ギルドの方だと聞きました」
「お姉様と一緒に?」
「はい」
「正式に、パーティを組まれたそうです」
「パーティ……」
「お姉様が、どなたかと正式に?」
「ええ」
「そのレオナ様という方は、どんな方なのです?」
「そこまでは」
男爵家の四女は首を横に振った。
「ただ、背が高くて、とてもお綺麗な方だと」
「剣もお強いのでしょう?」
「Bランクですものね」
「お姉様の隣に立てる方、ということでしょう?」
少女たちの声には、憧れがあった。
好奇心もあった。
そして、ほんの少しだけ、胸の奥に引っかかるものもあった。
レオナ。
知らない名前だった。
学院の名簿にはない。
茶会で聞いたこともない。
少なくとも、彼女たちの知る範囲で、ナタリアの隣に立っていた人物ではない。
小柄な令嬢が、抱えていた本を少しだけ胸に寄せる。
「お姉様の隣に、私たちの知らない方がいるのですね」
その一言で、場は静かになった。
責める言葉ではない。
嫉妬と呼ぶには幼すぎる。
ただ、自分たちが見送った人が、自分たちの知らない場所で新しい並びを作っていることへの、少し置いていかれるような感覚。
けれど、それは悪いものではなかった。
ナタリアは外で立っている。
なら、その隣に誰かがいるのも当然なのだろう。
「……淑女の噛み癖」
誰かが、急に小さく笑った。
「その名前、本当なのでしょうか」
「本当らしいですわ」
「お姉様が?」
「お姉様が」
それで、少女たちの間に小さな笑いが広がった。
想像できるようで、できない。
けれど、まったく似合わないわけでもない。
ナタリアはたしかに、甘く慰める人ではなかった。
言葉で噛むことはある。
痛いところを逃さず、けれど必要以上には傷つけない。
「お姉様らしい、のでしょうか」
「たぶん」
「少し怖い名前ですけれど」
「でも、覚えやすいですわ」
軽い噂だった。
けれどその軽さの中に、以前とは違う芯が混じっていた。
ナタリアはもう、学院の廊下に立つ人ではない。
けれど彼女たちの中で、その名はまだ消えていない。
消えるどころか、外から戻ってくるたびに、少しずつ違う重さを持ち始めていた。
学院長室では、同じ報告がもう少し重い顔で読まれていた。
学院長、剣術教師レイモンド・フェルン、魔術教師クラウス・エッベル、そして記録責任者の書記官。
机の上に置かれた写しは、王宮へ届いたものより簡略化されている。
それでも内容は十分だった。
学院長は読み終えてから、しばらく目を閉じた。
かつて王城から戻る馬車の中で共有した沈黙が、ふと室内に戻ったようだった。
学院が整理と裁定を混同したこと。
王家の婚姻へ口を出す権限などなかったこと。
ナタリアが、学院の枠の外へ出ていったこと。
あれから時間は過ぎた。
だが、問題が完全に過ぎたわけではない。
「Aランク、か」
学院長の声は重かった。
レイモンドは腕を組んだまま、窓の外へ視線を向けている。
「やはり、あの娘は学院の型に収まる人間ではなかったな」
学院長は静かに頷いた。
「我々は、それを見誤った」
クラウスが眉を寄せる。
「しかし、冒険者としての評価と学院教育の評価は別では」
その声には、まだ抵抗が残っていた。
ナタリアの戦い方は実戦的すぎる。
貴族令嬢としての教育から見れば、危うい部分もある。
そう言いたいのだろう。
レイモンドはゆっくりとクラウスの方を向いた。
「別だ」
短い返答だった。
クラウスが少しだけ息を詰める。
レイモンドは続けた。
「だからこそ、学院の評価だけで彼女を測ったことが間違いだった」
クラウスは反論できなかった。
冒険者としての評価と学院教育の評価は別。
それは事実だ。
だからこそ、学院の物差しだけで彼女の価値を決めたことが誤りだった。
学院長は机上の報告写しへ視線を落とした。
「学園外縁の依頼を受けた時、あの娘は中へ入らなかった」
ぽつりと言う。
「外で片づける仕事なら、外で片づければいい、と言ったそうだ」
レイモンドが少しだけ目を伏せる。
「らしいな」
「そして今も、外で結果を出している」
学院長の声には疲れがあった。
後悔だけではない。
認めざるを得ないものを認める時の、苦い疲れだった。
書記官は膝の上で手を握っていた。
あの会議の記録を取った者として、その名が報告書の中で別の重さを持って戻ってきたことを、誰より嫌な形で理解しているのかもしれない。
クラウスは何か言いかけ、結局黙った。
その沈黙もまた、一つの答えだった。
中庭に近い回廊では、もう少し柔らかく、そしてもっと歪んだ形で同じ噂が語られていた。
昼の講義前、少しだけ人が溜まる時間。
エドワードは取り巻きの数人と共に立っていた。
隣にはセラフィナがいる。
セラフィナはいつものように柔らかな雰囲気をまとっていたが、どこか落ち着かなかった。噂の中にナタリアの名が出るたび、まつ毛がわずかに揺れる。
ナタリアの名が口にされた瞬間、場の空気が不自然になった。
誰も真正面からエドワードの顔を見ない。
だが全員が、彼の反応を気にしている。
「Aランク、か」
エドワードが低く言った。
声は平静を装っている。
だが少し硬い。
「冒険者としての評価だろう」
誰もすぐには応じなかった。
エドワードは続ける。
「王族の隣に立つ資質とは別だ」
その言葉は、一見すると筋が通っているように聞こえた。
冒険者の強さと王子妃の適性は違う。
学院教育と戦場の働きは違う。
そう言えば、切り分けたように見える。
だが、その切り分けはもう遅かった。
ナタリアはもう、王族の隣に立つために動いていない。
その場所へ戻るために実績を積んでいるわけでもない。
エドワードだけが、まだどこかで彼女を自分の物差しに乗せてしまっている。
それが分かるほど、場にいた全員が賢かったわけではない。
けれど、何かがずれていることだけは、誰もが薄く感じていた。
セラフィナが、そっと両手を胸の前で重ねる。
「ナタリア様は、きっと無理をなさっているのです」
優しい声だった。
「危ない場所へ行かなくても、もっと穏やかな道もあるはずですのに」
取り巻きたちが、ほっとしたようにその言葉へ乗る。
「そうですわね」
「令嬢が冒険者など」
「しかも、淑女の噛み癖とは……」
「少々、品位に欠けるのでは」
誰かが小さく笑う。
けれど、その笑いは長く続かなかった。
回廊の端にいた下位貴族の少女たちが、わずかに視線を伏せたからだ。
以前なら、そこで黙って縮こまるだけだったかもしれない。
だが今は、少し違う。
小柄な令嬢が、小さく唇を動かした。
「でも……」
隣の少女が、そっと彼女の袖を引く。
止めるためではない。
落ち着いて、と伝えるための仕草だった。
小柄な令嬢は声を大きくしなかった。
けれど、隣にいる者たちには聞こえる程度に言った。
「街を助けたのですよね」
別の少女が続ける。
「王都ギルドが認めたのですよね」
さらにもう一人。
「それは、恥ずかしいことなのでしょうか」
大きな反論ではない。
場をひっくり返すほどの声でもない。
だが、確かにそこに違和感が置かれた。
セラフィナがわずかにそちらを見る。
責める目ではない。
ただ、なぜそこで引っかかるのか分からないような顔だった。
エドワードは眉を寄せた。
ナタリアの名が、自分の知らない場所で重くなっている。
しかも、それを下位貴族の少女たちまでもが、以前より少し強く受け止めている。
不愉快だった。
だが、その不愉快さの正体を、エドワードはまだうまく掴めない。
「危険なことを称えるべきではない」
彼はそう言った。
「貴族には貴族の役割がある」
それも間違いではない。
けれど、誰かが思った。
では、街を持たせることは役割ではないのか。
人を助けることは、貴族の役割と無関係なのか。
その問いは声にはならなかった。
だが、学園の空気の中に小さく残った。
ナタリアがいなくなってから、学院は以前より静かになった。
誰も大きく崩れてはいない。
けれど、小さな綻びが拾われないまま残るようになっている。
そして今、彼女の名だけが外から戻ってきた。
噂として。
報告として。
知らない女性の名を伴って。
レオナ。
その名もまた、少女たちの間で静かに広がっていく。
ナタリアお姉様の隣に立つ人。
学園の外で共に戦った人。
自分たちの知らない、けれど確かにそこにいる人。
学院は、ナタリアを失ったあとも、自分たちの内側に彼女を閉じ込めたがっていたのかもしれない。
だが、彼女はもう外にいた。
そして外で、別の誰かと並んでいた。
ヴォルディア侯爵家へも、同じ報告は届いていた。
王都屋敷の執務室は、王宮ほど華やかではない。
厚い机。
壁にかかった古い地図。
使い込まれた剣架。
書棚に並ぶ軍務記録と領地台帳。
飾りより実用が先に立つ部屋だった。
グレゴール・ヴォルディアは机の前に座り、近習から報告を受けていた。
近習は整えた声で読み上げる。
「ナタリア様、CランクよりAランクへ昇格」
「ハルヴェインにて、中規模スタンピード対応」
「周辺各街への伝令進言」
「防衛線構築」
「現地指揮」
「A相当ミノタウロス討伐」
「討伐素材の大半を現地復興および負傷者対応へ提供」
「同行者レオナ、DランクよりBランクへ昇格」
「正式パーティ結成」
近習はそこで、ほんの少しだけ間を置いた。
「名は、淑女の噛み癖、とのことです」
部屋に短い沈黙が落ちた。
グレゴールは大きく反応しなかった。
報告書を見下ろしたまま、低く言う。
「討ったか」
「はい」
近習はすぐに答える。
「ミノタウロスでございます」
「A相当だな」
「そのように記載されております」
近習の声には、ほんの少しだけ誇らしさが混じっていた。
侯爵家の娘がA相当の魔物を討った。
それだけで十分、大きな武功である。普通なら、そこをまず褒めるだろう。
だが、グレゴールは眉ひとつ動かさなかった。
報告書の次の行へ視線を移す。
「伝令が先だな」
グレゴールが言った。
近習は思わず顔を上げる。
「討伐ではなく、でございますか」
「討つだけなら武功だ」
グレゴールは報告書から目を離さない。
「先に知らせ、街を持たせ、周辺の崩れを防いだなら、それは指揮だ」
近習は息を呑んだ。
軍閥貴族の当主が見る場所は、やはりそこだった。
どの魔物を倒したか。
どれほど強かったか。
もちろんそれも見る。
だが、戦場を知る者にとって、討伐は一部分でしかない。
崩れをどこで止めたか。
誰へ先に知らせたか。
どの線を持たせたか。
終わったあと、どう戻したか。
そこを見ずに武功だけを褒める者は、戦を知らない。
「強いだけではないな」
グレゴールが言った。
近習は慎重に問い返す。
「討伐のことでございますか」
「違う」
グレゴールは短く切る。
「街を持たせたことだ」
その言葉で、近習は深く頭を下げた。
グレゴールはさらに報告を追う。
「素材を置いてきたか」
「はい」
「現地復興と負傷者対応へ」
「そのように」
「悪くない」
それは、グレゴールの口から出る評価としては十分に重かった。
その時、執務室の横扉が静かに開いた。
入ってきたのは、マーガレット・ヴォルディアだった。
ナタリアの母。
かつてフォルティウスを使っていた女。
華やかさより、芯の通った静けさが先に立つ人だった。年齢を重ねても姿勢が崩れず、歩く時に無駄な音を立てない。軍閥家の妻として長く家を支えてきた女であり、かつては自ら剣を取った者でもある。
マーガレットは部屋へ入り、机上の報告書を見た。
「ナタリアの報告?」
「ああ」
グレゴールが短く答える。
「上がった」
「Aに?」
「Aだ」
マーガレットは少しだけ目を細めた。
驚きより先に、納得の色があった。
「早いわね」
「早い」
グレゴールもそこは認めた。
マーガレットは報告書の一節へ視線を落とす。
ミノタウロス討伐。
フォルティウスに風と強化を纏わせ、全身強化を重ね、首を切断。
討伐証明として首部を持ち帰り、のちに素材を現地復興へ回す。
彼女はその箇所をゆっくり読んだ。
指先が、ほんの少しだけ止まる。
フォルティウス。
若い頃、自分の手にあった剣の重みが、手の内に戻ってくるようだった。細身だが軽すぎず、魔力を通すと刃の奥が薄く鳴る。礼装のためではなく、実際に斬るために作られた剣。
蔵に収められていたあの剣を、娘へ持たせるように言ったのは自分だ。
だが、持たせた剣が本当に娘のものになるかどうかは、娘自身の手で決まる。
「使ったのね、あの子」
近習が少しだけ顔を上げる。
「フォルティウスを、でございますか」
「ええ」
マーガレットは静かに答えた。
「飾らずに、きちんと使った」
グレゴールが報告書へ視線を落としたまま言う。
「首を飛ばしたそうだ」
マーガレットはほんの少し笑った。
「なら、剣も喜んだでしょう」
その声に、咎める響きはない。
むしろ懐かしむような、誇らしむような響きがあった。
「私の時より、ずいぶん荒い使い方をする子ね」
「実戦なら、それでいい」
「ええ」
マーガレットは頷く。
「あれは飾るための剣ではないもの」
フォルティウスは美しい剣だ。
だが美しいだけではない。
火、水、雷、風を通し、纏わせ、飛ばすこともできる。
細身でありながら厚みがあり、突きにも斬撃にも耐える。
守られるための令嬢が腰へ飾る剣ではない。
使う者が使えば、人を斬り、魔物を断ち、戦場で役に立つ。
マーガレットは、そのことを誰より知っている。
「街も持たせた」
グレゴールが言った。
マーガレットは視線を報告書から夫へ移す。
「なら、剣だけではないのね」
「そうだ」
グレゴールはそこで初めて、少しだけ背を椅子へ預けた。
「斬る者はいる」
「持たせる者は少ない」
マーガレットは静かに聞いている。
「斬ったあとに戻し方まで見る者は、さらに少ない」
「あなたらしい見方ね」
「戦場では、そこを見なければ死ぬ」
「ええ」
マーガレットは柔らかく頷く。
「でも、母としても悪くない報告だわ」
グレゴールはそれには答えなかった。
答えないが、否定もしない。
マーガレットはパーティ登録の控えへ視線を落とす。
「淑女の噛み癖、ですって」
声に少しだけ笑みが混じる。
「名前の付け方は、私に似たのかしら」
「噛むなら、噛み切れ」
グレゴールが低く言う。
マーガレットは、今度こそはっきり笑った。
「あなたらしい言い方ね」
「半端に噛む方が悪い」
「ええ。そこは同感よ」
近習は、二人の会話を聞きながら、顔を動かさなかった。
動かさないようにしていた。
この夫婦は、娘のパーティ名にすら軍務の言葉を重ねる。
だが、そこに冷たさはなかった。
ただ、ヴォルディア家の血筋らしい評価があるだけだ。
マーガレットは、報告書のフォルティウスに関する箇所へ指先を置いた。
「あの子はもう、借り物の剣としては振っていないわ」
グレゴールが妻を見る。
「分かるか」
「分かるわ」
マーガレットは静かに言った。
「あれは、もうナタリアの剣よ」
グレゴールは報告書を閉じた。
「見せろと言った」
低い声だった。
王都の倉庫街で、娘が荷の流れを切っていた姿を、彼は覚えている。
路地の水の溜まりを見つけ、翌朝に残る面倒を先に潰し、報告書を机に揃えてからようやく顔を上げた姿も。
あの時、半端なら連れ戻すつもりだった。
だが、そこにあったのは逃げ場ではなかった。
剣を持たない時間でさえ、あの娘は現場を見ていた。
荷を通し、人を動かし、終わった後の乱れまで拾っていた。
だから、フォルティウスを渡した。
そして今、その剣は山裾で振るわれ、ミノタウロスの首を落とし、街を持たせた報告と共に名を戻してきている。
「まだ見せ続けているなら、それでいい」
グレゴールはそう言った。
マーガレットは窓の外を見た。
王都の空は穏やかだった。
けれど娘は、その空の下で穏やかな場所だけを歩いているわけではない。
「次は、どこまで行くのかしらね」
「半端に止まらなければいい」
「あなたは本当にそればかり」
「それで足りる」
マーガレットは小さく笑い、もう一度だけ報告書へ視線を落とした。
そこには娘の名がある。
王宮でも、学園でも、同じ名が読まれているのだろう。
だがこの部屋でその名は、ただの令嬢の名でも、誰かの元婚約者の名でもなかった。
戦場へ出た者の名として読まれていた。
ナタリア・ヴォルディア。
フォルティウスの今の使い手。
そして、ヴォルディアの者として、まだ見せ続けている娘。
マーガレットはその名をしばらく見つめてから、静かに報告書を閉じた。




