第42話 淑女の噛み癖、初仕事
石樽亭の朝は、少しだけ形が変わっていた。
部屋の中に荷物が増えたからだ。
昨日までなら、ナタリアの荷物は壁際の一角に収まっていた。替えの服、手入れ道具、武具の油、洗った布、買い足した小物。どれも必要なものだけで、余分なものは少なかった。
そこへレオナの荷物が入った。
小さな鏡箱、髪をまとめる紐、手袋の替え、服を包んだ布袋、香りの薄い油。どれも過剰ではないが、置かれるだけで部屋の印象が変わる。人が一人増えるというのは、単に寝台の数や荷物の量だけではないらしい。
朝、ナタリアが目を覚ますと、向かいの寝台でレオナが横向きに眠っていた。寝乱れているというほどではないが、片腕が毛布から出ていて、長い髪が肩にかかっている。
床ではポンタが窓際を占領していた。
昨夜、自分の位置はそこだと勝手に決め、そのまま丸くなって眠ったのだ。
実際、誰も止めなかった。
ナタリアは上体を起こし、少しだけ部屋を見回した。
昨日より、生活の気配が濃い。
それが嫌ではなかった。
レオナが薄く目を開ける。
「……起きたの?」
「ええ」
「早いわね」
「いつも通りよ」
「その、いつも通りが早いのよ」
レオナは毛布の中で小さく伸びをした。
その動きだけで、寝台が少し軋む。
ポンタも耳を動かした。
「朝から人が多いの」
「あなたも含めてね」
「妾は元からおる」
「窓際を勝手に取ったでしょう」
「良い場所は取れる時に取るものじゃ」
レオナが半分眠そうな顔のまま笑った。
「ポンタちゃん、そこ気に入ったのね」
「見張りにも良い」
「寝てたじゃない」
「寝ながら見張っておった」
「便利ね」
朝の支度は、思ったより早く整った。
二人分になっても、互いの動線がぶつからない。レオナは見た目の軽さに反して、支度が速い。髪をまとめ、服を整え、装備を確認する手つきに迷いがなかった。
ナタリアもフォルティウスを腰へ佩き、短剣と小物を確認する。
指輪も違和感なく収まっている。
階下へ降りると、女将は二人と一頭を見て、何でもない顔で鍋をかき混ぜていた。
「増えたね」
「昨日からよ」
「分かってるよ」
女将は鼻で笑った。
「朝飯も増やしといた」
レオナが軽く頭を下げる。
「助かります」
「食える時に食っときな」
そう言って、女将はスープを置く。
具が多い。
石樽亭は、こういうところで余計なことを言わない。
女将の孫娘は、椅子の陰から顔を出して、レオナをじっと見ていた。
「おねーたん、ふえた」
「増えたわね」
ナタリアが答えると、子どもは少し考えた顔をしてから、レオナへ視線を向けた。
「こっちも、おねーたん?」
レオナが笑う。
「そうね。おねーたんでいいわ」
「じゃあ、おねーたん、ふたり」
「そうなるわね」
子どもはそれが気に入ったらしく、満足そうに椅子の陰へ戻った。
朝食を終えると、三人は石樽亭を出た。
まだ完全に昼の熱はない。王都の通りには、パン屋の匂いと荷車の音が混ざっている。昨日までと同じ王都の朝だが、歩く形は少し違っていた。
ナタリアとレオナが並び、その少し前をポンタが歩く。
ただの同行ではない。
ギルドに登録された、正式なパーティとしての朝だった。
ギルドへ入ると、視線が集まった。
もう昨日ほどの驚きではない。
だが、見られているのは分かる。
Aになったナタリア。Bになったレオナ。喋る従魔のポンタ。
そして、昨日登録されたばかりの妙な名のパーティ。
ミリアは窓口にいて、こちらを見るなり少しだけ笑った。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはようございます」
ナタリアとレオナが返すと、ミリアは手元の紙束を一枚持ち上げた。
「さっそくですが」
レオナが目を細める。
「もう何か来てるの?」
「はい」
ミリアは少しだけ楽しそうに言った。
「正式パーティとしての初依頼です」
「淑女の噛み癖宛てに」
その名前が窓口で読み上げられた瞬間、近くにいた冒険者の一人が飲んでいた水にむせた。
ガレスが壁際で肩を震わせている。
バルドは奥の机で書類を見ていたが、わずかに口元を曲げた。
レオナは顔をそらして笑いをこらえる。
「やっぱり声に出されるとすごいわね」
「自分で言った名前でしょう」
「言ったのはあなたよ」
「採用したのは全員よ」
ポンタが胸を張った。
「妾は誇りを持って噛むと言った」
「そこは誰も疑ってないわ」
ミリアは真面目な顔へ戻り、依頼票を差し出した。
「内容は、王都北西の旧荷道の安全確認です」
ナタリアは依頼票を受け取る。
旧荷道。
王都と近郊の倉庫地区、さらに農村を結ぶ細い道。普段は主要街道ほど使われていないが、荷の混雑時や急ぎの小口運搬では今でも利用されている。
ハルヴェイン方面の異変に連動して、周辺の小型魔物が流れ込んだ可能性あり。
商人組合は通行再開を希望。
ただし、正式再開前に安全確認が必要。
討伐数ではなく、通行可否判断を含む依頼。
ナタリアは読み終えてから、ミリアを見る。
「確認依頼ね」
「はい」
「討伐が必要なら討伐。ただし本筋は、荷道を通していいかどうかの判断です」
ガレスが壁際から声を投げる。
「お前らに欲しいのは、倒す力より見る目だ」
バルドも奥から続けた。
「商人は通したがってる」
「だが、通してから荷車が食われたじゃ遅い」
「派手な依頼じゃねえが、雑にやると揉める」
ナタリアはもう一度依頼票へ視線を落とした。
「護衛対象は?」
「今日はありません」
ミリアが答える。
「確認のみです」
「ただ、明日以降に通す予定の商隊がありますので、条件を切っていただけると助かります」
「条件?」
「全面再開か、日中のみか、護衛付きか、二台以上か、夜間禁止か」
「そのあたりです」
レオナが感心したように言う。
「初仕事にしては、地味だけど面倒ね」
「良い依頼よ」
ナタリアが言うと、レオナは少し笑った。
「そう言うと思った」
「受けるわ」
ミリアがうなずき、依頼受理の印を押す。
「では、淑女の噛み癖として受理します」
また近くで誰かが小さく噴き出した。
ポンタはまったく気にしていない。
「良い響きじゃ」
「本当に?」
「少なくとも忘れられぬ」
そこは間違いなかった。
旧荷道は王都からそう遠くない場所にあった。
主要街道から一本外れ、古い倉庫地区の裏を抜け、低い林の間へ入る道だ。馬車二台が並ぶには狭いが、一台なら十分に通れる。路面は荒れすぎていない。長く使われている道特有の固さが残っていた。
ただ、使われなくなった日が続いたせいか、草が伸び始めている。
道の端に落ち葉が溜まり、ところどころ車輪跡に小さな水が残っていた。
レオナが周囲を見ながら言う。
「静かね」
「静かすぎるほどではないわ」
ナタリアは足を止めずに答えた。
林の奥から鳥の声がする。小動物の気配もある。
ハルヴェインの山裾のような圧はない。
ただ、違和感はあった。
ポンタが鼻をひくつかせる。
「少しおるの」
「どの程度?」
「弱い」
「だが、道の近くに居座り始めておる」
ナタリアはしゃがみ、道端の泥を指先で払った。
細い爪痕。
小型魔物の足跡。
数は多くない。だが、道を横切っただけではない。何度か同じ場所を行き来している。
「通り道じゃなくて、場所にし始めてるわね」
レオナが隣に屈む。
「住み着きかけ?」
「たぶん」
ナタリアは立ち上がり、道の先へ目を向けた。
「早いうちでよかったわ」
「増える前ね」
「ええ」
少し進むと、古い荷置き場が見えた。
荷車が一時的に止まるための広めの窪地だ。今は使われていない木箱の残骸がいくつか端へ寄せられている。
ポンタがぴたりと止まった。
「そこじゃ」
ナタリアも同時に気づいていた。
箱の下。
板の隙間。
そして荷置き場の奥、崩れた石垣の陰。
何かがいる。
レオナが剣へ手を置く。
「数は?」
「五か六」
「小さい」
ポンタが言う。
「匂いが混ざっておる」
「鼠だけではないの」
ナタリアはゆっくりと荷置き場へ入った。
足音を消しすぎない。
相手に逃げ道を選ばせるためだ。
木箱の下から、小さな影が一つ飛び出した。
ジャイアントラット。
通常より少し大きい。
毛並みは汚れ、目が血走っている。
続けて二匹。
レオナが左へ回る。
ナタリアは正面へ出ず、逃げ筋を見る。
「逃がさないで」
「ここで癖をつけると、また荷道に戻るわ」
「了解」
レオナの返事と同時に、左へ抜けようとした一匹が斬られる。
ナタリアはフォルティウスを抜き、正面から来た一匹を軽く落とした。
深く斬る必要はない。
首筋へ一線。
それだけで十分だった。
残りが石垣の方へ逃げる。
そこで、石垣の裏から別のものが飛び出した。
小柄で、手足が長い。
灰色の皮膚。
大きな耳。
尖った歯。
グレムリン系の小型魔物だった。荷車の下や道具置き場に住み着き、革紐や荷縄を噛み切る厄介者だ。
強くはない。
だが、荷道には最悪に近い。
レオナが眉を寄せる。
「なるほど、面倒なやつ」
「荷道に住み着かれると困るわね」
グレムリンは二体。
一体は箱の裏へ、もう一体は道の端へ走る。
ポンタがすぐに吠えた。
「そっちは穴じゃ!」
ナタリアは石垣の下を見る。
小さな穴。
すでに掘りかけてある。
そこへ逃げ込まれると、引きずり出す手間が増える。
「レオナ、穴を塞いで」
「はいはい」
レオナが足元の板を蹴り、穴の前へ滑らせる。
逃げ込もうとしたグレムリンが止まる。
その一瞬で、ナタリアが風を飛ばした。
刃ではない。
短く押すだけの風。
グレムリンの体が浮き、板の上へ転がる。
そこへポンタが飛びかかった。
「噛む!」
「殺しすぎないで」
「分かっておる」
分かっていると言いながら、十分強く噛んでいる。
ただ、急所は外していた。
ポンタなりに加減はしているらしい。
もう一体はレオナが柄で叩き伏せた。
斬らない。
素材価値は低いが、被害確認のためには状態が残っている方がいい。
荷置き場が静かになる。
ナタリアは周囲を見回した。
ラット三。
グレムリン二。
それから、箱の奥にもう一つ。
小さな羽音。
「蜂?」
レオナが顔を上げる。
箱の隙間から、針羽蜂が一匹だけ出てきた。
群れではない。
迷い込んだか、追われてここに入ったものだろう。
一匹なら脅威ではないが、荷道で放置すると後が悪い。
ナタリアは指先に小さく風を集めた。
「落とすわ」
細い風が走り、針羽蜂は地面へ落ちる。
ポンタが前脚で押さえた。
「これで全部じゃ」
「本当に?」
「この場はの」
「この場は、ね」
ナタリアは荷置き場の周囲を確認した。
車輪跡。
荷縄を噛んだ跡。
石垣の穴。
木箱の下に溜め込まれた革片と布切れ。
住み着き始めていたのは間違いない。
だが、まだ群れにはなっていない。
今日潰せたなら、荷道は戻せる。
レオナが剣を拭きながら言う。
「初仕事としては、ずいぶん地味ね」
「いい仕事よ」
「またそれ?」
「地味に終わる仕事は、いい仕事よ」
レオナは少しだけ目を細め、それから笑った。
「あなたらしいわね」
荷置き場をさらに調べると、問題は一つだけ残っていた。
石垣の穴は浅いが、その奥に小さな空洞がある。
グレムリンが完全に巣にする前だったのだろう。中には齧られた革紐、古い釘、荷札の破片が詰まっていた。
ナタリアはそれを引き出して確認する。
「商隊が通る前でよかったわ」
「通ってたら?」
「荷縄を切られて、荷崩れ」
「慌てたところをラットが荒らす」
「夜ならもっと面倒ね」
レオナが肩をすくめる。
「小さいくせに嫌な流れ」
「小さいから入り込むのよ」
ポンタが穴を覗き込む。
「埋めるのか」
「ええ」
「なら、妾が土を掘る」
「掘ったら広がるでしょ」
「む」
ナタリアは周囲の石と板を使って穴を塞いだ。
完全な補修ではない。
だが、今日明日で再び入り込まれる程度の隙間は消せる。
あとは商人組合か街道管理の仕事だ。
その後、荷道をもう少し先まで確認した。
大きな異常はない。
小さな足跡は数か所あるが、どれも通過痕。
居着いた形跡は荷置き場だけだった。
ナタリアは道の端に立ち、通行を想定する。
荷車一台。
護衛二名。
昼。
晴天。
道幅は足りる。
だが、夜はまだ避けるべきだ。
荷置き場の処理が完全に終わるまでは、休憩地としては使わせない方がいい。
レオナが聞く。
「どう判断する?」
「全面再開はまだ」
「慎重ね」
「倒したことと、通していいことは別よ」
ナタリアは道の先を見る。
「日中のみ通行可」
「荷車は二台以上」
「護衛を最低二人」
「荷置き場での停車は禁止」
「二日間は見張りを増やす」
「夜間通行は不可」
レオナが軽く口笛を吹く。
「細かい」
「細かいところで事故るから」
「それもそうね」
ポンタが退屈そうにあくびをした。
「肉は出ぬ依頼じゃったの」
「グレムリンを食べたいの?」
「それは嫌じゃ」
「じゃあ文句言わない」
王都へ戻る頃には、昼を少し過ぎていた。
ギルドへ戻ると、ミリアが窓口で待っていた。
その横には、商人組合から来たらしい中年の男もいる。丸い腹にきちんとした上着。焦りと期待が半分ずつ顔に出ていた。
「どうでしたか」
ミリアが聞く。
ナタリアは依頼票を返しながら答えた。
「小型魔物が荷置き場に住み着きかけていたわ」
「ラット三、グレムリン二、針羽蜂一」
「処理済み」
「穴も応急で塞いだ」
商人がほっとした顔をする。
「では、通行は」
「日中のみ」
「荷車は二台以上」
「護衛は最低二人」
「荷置き場では停まらないこと」
「二日間は見張りを増やして」
「夜間はまだ駄目」
商人が少し目を丸くした。
「討伐済みなのでは?」
「討伐したことと、通していいことは別よ」
ナタリアは静かに言った。
「住み着きかけていたなら、匂いと餌の跡が残る」
「今日すぐ全面再開したら、また別の小型が寄る可能性があるわ」
「荷置き場の補修が終わって、二日間異常なしなら通常に戻していい」
商人は言葉に詰まり、それからミリアを見る。
ミリアは何も助け舟を出さず、ただ記録を書いている。
その沈黙で、商人もようやく納得したらしい。
「……分かりました」
「商人組合へ、その条件で通します」
「それがいいわ」
ミリアが完了印を押した。
「淑女の噛み癖、初依頼完了ですね」
またその名を声に出されて、レオナが笑う。
「初仕事にしては、本当に地味だったわ」
「いい仕事だったでしょう」
ナタリアが返すと、ミリアが少しだけ笑みを深めた。
「ええ」
「初依頼としては、とてもらしいと思います」
ガレスが横から言う。
「派手に暴れるだけのAよりよっぽど助かる」
「褒めてるの?」
レオナが聞く。
「現場ではな」
「それ、最近よく聞くわね」
ポンタが胸を張る。
「妾も噛んだぞ」
「記録に入れますか?」
ミリアが真顔で聞くと、ポンタは少し考えた。
「入れてもよい」
「入れなくていいわ」
ナタリアが即座に止める。
窓口の周囲に、少しだけ笑いが広がった。
依頼料は高くなかった。
AとBが動くには軽い額だ。
だが、初仕事としては悪くない。
新しい名前で受け、新しい形で処理し、きちんと終わった。
普通なら、そこで終わりでもよかった。
だが、ナタリアはミリアが整理している依頼票の端へ視線を落とした。
「午後、まだ回れるわね」
レオナが横で固まる。
「……初依頼、終わったばかりよ?」
「昼過ぎよ」
「そういう問題?」
「午後が空いてるじゃない」
ポンタが顔を上げる。
「肉の出るものはあるかの」
「そればっかりね」
ミリアは少しだけ迷った顔をしたが、すぐに窓口の下から別の小束を取り出した。
「実は、ナタリアさん指名のE、F依頼が残っています」
「昇格後なので、こちらで一度確認しようと思っていましたが」
「いつもの?」
「はい」
「倉庫裏のラット再発確認」
「排水路の詰まりと泥スライムの確認」
「新人F同行の荷置き場点検」
「全部、王都内か外縁近くです」
レオナがナタリアを見る。
「本当にやるの?」
「やるわ」
「Aになっても?」
「Aになっても、詰まりは詰まりよ」
ガレスが壁際で低く笑った。
「そういうとこだよな」
「何が?」
「上がっても、下の詰まりを見に行くところだ」
ナタリアは依頼票を受け取りながら言った。
「下が詰まれば、上も止まるでしょう」
ミリアは何か納得したように小さくうなずき、依頼受理の印を押した。
「では、三件まとめて処理で」
「ええ」
レオナは少しだけ息を吐いた。
「分かったわ」
「今日は付き合う」
「無理しなくていいわよ」
「見ておきたいのよ」
「あなたが、Aになっても何を見てるのか」
その言い方に、ナタリアは何も返さなかった。
ただ、依頼票を整えて腰の袋へ入れる。
一件目は、王都倉庫区の裏手だった。
背の高い石造りの倉庫が並び、狭い裏路地に木箱や空き樽が積まれている。
依頼主は穀物倉庫の管理人で、ジャイアントラットの再発確認。
前にも一度処理した場所だ。
管理人はナタリアを見るなり、ほっとした顔をした。
「来てくれましたか」
「再発?」
「ええ。昨日の夜、裏手で二匹見たと」
レオナが少し驚く。
「Aに直接頼む話?」
管理人は気まずそうに視線を逸らす。
ナタリアはそれを気にせず、倉庫裏へ回った。
「前に出た場所だからよ」
裏手は狭く、湿っていた。
壁際に穀物くずが落ちている。
麻袋の口紐が少しほつれている。
そして奥に小さな齧り跡。
ポンタが鼻を鳴らす。
「おるの」
「数は?」
「二。小さい。あと、餌が多い」
ナタリアは壁際の穀物くずを指した。
「これ、昨日じゃないわね」
管理人が慌てて近づく。
「え?」
「前から溜まってる」
「倒すだけならまた来るわ」
その時、木箱の裏からラットが飛び出した。
レオナが反射的に剣へ手を伸ばすが、ナタリアは手で制した。
「逃げ道を見るだけでいい」
ラットは右へ走る。
そこには穴がない。
次に左へ曲がる。
積まれた空き樽の下へ潜り込もうとしたところを、ポンタが前へ出た。
「噛む」
短い一声で、ラットは止まった。
止まったところを、ナタリアが短剣の柄で頭を落とす。
もう一匹も同じように、木箱の隙間から追い出して処理した。
レオナが目を細める。
「斬らないのね」
「血の匂いを残すと、ここでは面倒だから」
「なるほど」
ナタリアは管理人へ向き直った。
「廃棄物の場所を変えて」
「穀物くずは一日置かないこと」
「空き樽は壁から離す」
「ここに隙間を作ると、また住むわ」
管理人は何度もうなずいた。
「分かりました」
「すぐに直します」
「倒したことより、戻さないことが大事よ」
一件目はそれで終わった。
二件目は、職人街の裏にある排水路だった。
小さな石蓋を開けると、湿った臭いが上がってくる。
レオナがわずかに顔をしかめた。
「本当にこういうのもやるのね」
「詰まりは放っておくと、匂いと虫と魔物が来るわ」
「それは分かるけど」
「なら見る」
排水路の奥には、泥が固まったようなものが詰まっていた。
その表面が、ゆっくりと動く。
「泥喰いスライムね」
ナタリアが言う。
強い魔物ではない。
ただ、放置すると排水を止め、周囲の臭いと害虫を呼び、小型魔物の餌場を作る。
レオナは少しだけあきれた顔で剣を抜いた。
「これ、剣で斬るの嫌なんだけど」
「斬らなくていいわ」
ナタリアは指先に小さく火を灯した。
燃やすほどではない。
乾かして固める。
そこへポンタが鼻をひくつかせる。
「焦げた泥の匂いじゃ」
「我慢して」
スライム状の塊が乾いて硬くなったところで、レオナが柄で砕いた。
あとは排水路の水が押し流す。
詰まりが取れた音がして、水が少しずつ流れ始めた。
近くで見ていた職人が感心したように言う。
「これだけですか」
「これだけで済んだのよ」
ナタリアは石蓋を戻しながら答える。
「三日遅れていたら、壁を剥がすことになっていたわ」
レオナが小さく息を吐いた。
「小さいうちに潰す、ね」
「ええ」
「あなた、本当に下回りを見るのね」
「見えるところから見るだけよ」
三件目は、外縁の荷置き場だった。
新人Fの同行確認込みの依頼で、待っていたのは少年と少女の二人だった。
少年はノル。細身で槍を持っている。
少女はリナ。短弓を背負っている。
二人とも緊張で背中が固い。
ナタリアを見るなり、二人は慌てて頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
「そんなに固くならなくていいわ」
レオナが少し笑う。
「固くなるでしょ。AとBが来たんだから」
「それもそうね」
荷置き場は、王都外縁の小さな集積場だった。
魔物そのものより、荷の置き方や死角、夜間の見張り位置を確認する依頼だ。
ナタリアはまず二人へ言った。
「先にあなたたちが見て」
ノルとリナは顔を見合わせる。
「俺たちが、ですか」
「ええ」
「依頼は確認でしょう」
「なら、どこが危ないか言って」
二人はぎこちなく荷置き場を回った。
ノルは木箱の影を見て、リナは塀の上を見た。
悪くはない。
だが足元が抜けている。
ナタリアは指を差す。
「そこ」
二人が同時に振り返る。
「荷車の下」
「小型は上からだけじゃないわ」
ノルが慌てて覗き込む。
そこには古い縄と、齧られた布が引っかかっていた。
「見落としました」
「次は見ればいいわ」
レオナが横からノルの槍の持ち方を見て、軽く手を伸ばす。
「その持ち方だと、噛まれた時に腕ごと持っていかれるわよ」
「え」
「怖いなら下がっていい」
「でも下がる時に、仲間の進路を塞がない」
リナにも視線を向ける。
「弓を構えたまま固まるなら、一歩横」
「正面に立つ人の背中を撃ちたくないでしょ」
「はい」
ナタリアはそのやり取りを黙って聞いていた。
レオナはちゃんと見ている。
ただ戦えるだけではない。
人の体の使い方や、怖がり方の癖も見ている。
荷置き場の奥から、小さなラットが一匹だけ出た。
ノルが慌てて槍を構え、リナが弓を上げる。
レオナが言った通り、リナは一歩横へずれた。
ナタリアは手を出さなかった。
ノルの槍がラットの進路を塞ぐ。
リナの矢が逃げ道を切る。
最後はポンタが前へ出て、吠えただけでラットを止めた。
「今よ」
ナタリアが言う。
ノルの槍が落ちた。
少し浅い。
だが十分だった。
ノルとリナが息を荒げる。
「……できた」
「ええ」
ナタリアはうなずく。
「次は、最初から足元も見て」
「はい!」
三件目も、それで終わった。
夕方近く、ギルドへ戻ると、ミリアは依頼票三枚を見て少しだけ目を丸くした。
「本当に全部回ったんですね」
「午後なら回れると言ったでしょう」
「言いましたけど」
レオナが椅子へ腰を下ろしながら、少し疲れた顔で笑った。
「あなた、低ランク依頼をやってるんじゃなくて、王都の下回りを見てるのね」
ナタリアは報告票へ要点を書きながら答える。
「結果的にはそうなるわね」
「毎回は付き合わないわよ」
「それでいいわ」
レオナは少しだけ真面目な顔になった。
「でも、妙な依頼なら呼びなさい」
ナタリアは顔を上げる。
「呼ぶわ」
それだけで話は済んだ。
常に並ぶ必要はない。
必要な時に並べるなら、それでいい。
ポンタが机の下で不満そうに言う。
「今日は肉が少ない依頼ばかりじゃった」
「帰ったら食べればいいでしょう」
「多めがよい」
「はいはい」
石樽亭へ戻った頃には、王都は夕方の色に染まり始めていた。
レオナは部屋へ戻るなり寝台へ腰を下ろし、靴を脱ぎながら息を吐いた。
「初依頼の日に、荷道と倉庫と排水路と荷置き場」
「悪くないでしょう」
「悪くはないわ」
「ただ、すごくあなたらしい」
ナタリアは報告用の控えを整理しながら、午後に見たことを簡単に書き留める。
倉庫裏の廃棄場所。
排水路の詰まりやすい位置。
荷置き場の死角。
新人二人の癖。
レオナがそれを見て、少し呆れたように言う。
「本当に記録するのね」
「次に楽になるもの」
「それもあなたらしいわ」
ポンタは窓際へ戻り、丸くなりながら言った。
「妾は次、肉の出る依頼を希望する」
「希望だけ聞いておくわ」
「叶える気はあるのか」
「依頼次第ね」
下から女将の声がした。
「飯だよ!」
ポンタが一番に立ち上がる。
「肉じゃ」
「まだ分からないでしょう」
「匂いで分かる」
レオナが笑いながら立ち上がる。
ナタリアも書きかけの控えを閉じた。
淑女の噛み癖の初日は、派手な討伐では終わらなかった。
旧荷道、倉庫裏、排水路、荷置き場。
どれも小さく、地味で、放っておけば面倒になる場所ばかりだった。
だが、それでよかった。
街が壊れる前に拾えるものは、たいていそういう場所に落ちている。
ナタリアはそう思いながら、レオナとポンタと一緒に階段を下りていった。




