第41話 昇格の朝
翌朝、ナタリアが石樽亭で目を覚ました時、窓の外はもう白んでいた。
起きる時間そのものは普段と大きく変わらない。けれど、身体に残っている疲れの質が違った。泥を踏み、刃を振り、魔力を絞り、無理やり押し切ったあと特有の、芯の方が少しだけ重い感じだ。寝台の上で上体を起こし、肩を回す。筋肉のきしみはある。だが、起き上がれないほどではない。
床ではポンタが丸くなっていて、こちらが起きた気配に耳だけ動かした。
「……朝かの」
「ええ」
「まだ眠いの」
「あなた昨日まで散々大きくなってたじゃない」
「本調子でない時ほど反動が来るのじゃ」
よく分からない理屈だったが、ポンタがふてくされたように鼻を鳴らすのを見ると、本当にだるいのだろう。ナタリアは少しだけ口元を緩め、それから窓を開けた。王都の朝の空気が入ってくる。血と土の匂いは薄く、代わりにパンを焼く匂いと、人が日常へ戻っていく気配が混じっていた。
ハルヴェインの外で張り詰めていた時間は、いったん後ろへ引いている。
けれど、何もかも元に戻ったわけではない。
それは自分の中でも、はっきり分かった。
支度を整えて一階へ下りると、石樽亭の女将が鍋へ蓋をしているところだった。配膳の少女が皿を拭き、下働きの少年が桶を抱えて走り、女将の孫娘は椅子の陰からこちらを窺っている。
女将は顔を上げ、ナタリアを見るなり鼻で笑った。
「戻ってきた顔だね」
「帰ってきたわよ」
「そういうことを言ってるんじゃないよ」
鍋をかき混ぜながら、女将が続ける。
「ちゃんと戻ってきた顔をしてるって言ってんだ」
その一言が妙に沁みた。
ナタリアは肩をすくめて席へ着く。
女将の孫娘が、椅子の陰からのそのそ這い出てくる。
「おねーたん」
「何かしら」
「おっきいの、たおしたの?」
どこまで聞きつけているのか。
王都の噂の広がりは早い。いや、この宿に泊まっている冒険者たちの口が軽いだけかもしれない。
「ええ。倒したわ」
「ほんと?」
「ほんとよ」
それで満足したらしく、女の子はぱっと笑った。
「じゃあ、きょうはどろじゃない?」
「今日は泥じゃないわね」
「よかった」
その一言で、また少しだけ肩の力が抜ける。
朝食はいつもより少しだけ多かった。
女将は何も言わなかったが、スープの具が増えている。卵も一つ多い。
ポンタは足元で当然のように何かを待っていて、女将が肉の切れ端を落としてやると、少しだけ得意げだった。
「主らももう少し妾を見習うとよい」
「何をよ」
「可愛げじゃ」
ナタリアは匙を止め、珍しくわりと素直に笑った。
食事を終え、ギルドへ向かう。
王都の通りはいつも通りだ。荷車が通り、露店が火を入れ、衛兵が門前で欠伸を噛み殺している。
ただ、ギルドへ近づくにつれて、通りの端にいる冒険者らしい男や女がこちらを見る回数が増えた。
前までのように、若い女が一人で歩いているから目につく、という種類の視線ではない。
仕事の結果を知った上で向ける目だ。
「見られてるわね」
ポンタが小さく言う。
「あなたもでしょう」
「妾は常に見られる側じゃ」
「はいはい」
ギルドへ入った瞬間、空気が一度だけ揺れた。
誰かが小さく息を止める。
別の誰かが依頼票から顔を上げる。
壁際で腕を組んでいた男が、視線を向けたまま少しだけ眉を動かす。
王都のギルドらしい、騒がずにざわめく揺れ方だった。
窓口の向こうで、ミリアがこちらを見つけた。
ぱっと顔が明るくなる。だが、その明るさも一瞬のあとにはきちんと受付の顔へ戻っていた。
「おはようございます」
いつも通りの挨拶のあとに、少しだけ笑みが深くなる。
「改めて、おめでとうございます」
ナタリアは窓口の木枠へ手を置いた。
「もう広まってるのね」
「広まりますよ」
ミリアが少しだけ楽しそうに言う。
「予想はしていましたけど、実際にAの札になると、やっぱり違いますね」
「受付がそう言うの?」
「言います」
ミリアはきっぱり返した。
「そのために見てますから」
その言い方が、案外嫌ではなかった。
ただ笑って迎えるだけではなく、ちゃんと見ていた側の言葉だったからだろう。
ミリアはすぐに、窓口の下から新しい登録板と数枚の書類を取り出した。
「差し替えは済んでいます」
「依頼の振り分けも変わりますので、確認だけお願いします」
書類の上を視線で追う。
簡潔で、必要なことだけが並んでいる。
今までと扱いが変わったと分かるのは、こういう紙の方が早い。
「速いわね」
「推薦状まで入ってましたから」
ミリアが少し声を落とす。
「ハルヴェインのギルドマスターさん、かなりきっちり書かれていましたよ」
その時、横から低い声が入った。
「ほんとに上がりやがったか」
ガレスだった。
いつものように壁際へ立っていたらしい。
腕を組んだままこちらを見ている。嫌味ではない。呆れと納得が半々くらいの顔だ。
「不満?」
ナタリアが聞くと、ガレスはすぐに首を振った。
「あるか」
「むしろ据え置きの方が揉める」
ナタリアはそれに短くうなずく。
その返しは、妙にしっくりきた。
ガレスはさらに続けた。
「こっちはこっちで動いてたが、向こうの伝令は助かった」
「各街が先に構えてたから、余計な混乱が出なかった」
「そう」
「そうだ」
ガレスは鼻を鳴らす。
「ハルヴェイン一つだけなら、ここまで上がらねえ」
「周りごと回したから、こうなったんだ」
ナタリアは素直にうなずいた。
そこを分かっている相手との会話は早い。
奥からバルドが出てきたのは、ちょうどその時だった。
「朝からうるせえな」
低い声でそう言いながら、こちらへ歩いてくる。
だが、目はすでにナタリアの札を見ていた。
「来たか」
「ええ」
「札、重くなったな」
その一言には、祝いとも確認ともつかない重さがあった。
バルドは窓口の書類を一瞥してから、ナタリアへ視線を戻す。
「上がったのは強さだけじゃねえ」
「そこは忘れるな」
「忘れないわ」
「ならいい」
それだけで終わる。
だが、それで十分だった。
ミリアがそこで、少しだけ言いにくそうに口を開いた。
「それで――」
「今後の依頼なんですけど」
ナタリアが首を傾ける。
「何?」
「このままだと、組み方が少し中途半端になります」
「今までみたいに、たまたま一緒に動いている扱いだと処理しにくいんです」
「ですから、その」
そこへちょうど、後ろからレオナが入ってきた。
「何を処理しにくいの?」
ミリアが一瞬だけ目を丸くして、それからほっとしたように息をつく。
「あ、ちょうどよかったです」
レオナはいつもと変わらない顔でこちらへ歩いてきたが、周囲の視線はやはり少し違っていた。
Dの時の扱いではない。
ハルヴェインで横に立ち続けたBへの視線だ。
「おはよう」
「おはよう」
ナタリアが返す。
こうしてギルドで落ち合うのは、今まで通りと言えば今まで通りだ。
だが、昇格とあの一件のあとでは、さすがに“今まで通り”のままでは扱いにくいのだろう。
レオナがミリアを見る。
「で? 何の話?」
「正式に組んだ方がいいのでは、という話です」
ミリアがきっぱり言った。
「今後の依頼を考えると、その方が処理しやすいです」
「実質もう組んでいるようなものですし」
レオナはそこで少しだけ笑って、ナタリアを見る。
「どうする?」
ナタリアは少しだけ考えた。
考えるまでもないことではある。
ここまで一緒に動いて、遠征して、防衛して、核まで討って、まだ“たまたま一緒にいる”で済ませる方が不自然だ。
だが、その不自然をわざわざ言葉にして形へ変える瞬間には、やはり少しだけ間が必要だった。
ポンタが足元で尻尾を揺らす。
「組むのではないのか」
「あなたは黙ってて」
「妾も関係あるぞ」
「あるわね」
レオナが肩をすくめる。
「私は異論ないわよ」
その言い方に逃げはない。
軽く言っているようで、ちゃんと並ぶ気でいる目だった。
ナタリアはそれを見て、妙に納得する。
「私もないわ」
ナタリアが言うと、ミリアが目に見えて嬉しそうな顔になった。
「では、正式に登録を」
「名前が要るんでしょ」
レオナがすぐに言う。
ミリアがぴたりと頷く。
「はい」
そこで、少しだけ沈黙が落ちた。
ナタリアは別に、気の利いた名前をいくつも持っているわけではない。
大仰な旗印も、格好のいい二つ名も、あまり必要と思ったことがなかった。
けれど、今の三人を一言で括るなら、妙にしっくり来るものがひとつあった。
「そうね……」
わずかに口元を緩める。
「淑女の噛み癖、とでも名乗りましょうか」
ミリアの手が止まる。
ガレスが「は?」という顔をする。
レオナは一拍遅れて吹き出した。
「ずいぶん物騒な淑女ね」
「三人とも女でしょう?」
ナタリアが淡々と返す。
「一人は実際に噛むし」
「残り二人も、言葉ではそれなりに噛むわ」
ポンタが胸を張った。
「妾は誇りを持って噛む」
ガレスが顔をしかめる。
「なんだその名前」
「覚えやすいでしょ」
レオナがまだ笑いながら言う。
「私は嫌いじゃないわよ」
ミリアは一度だけ喉を鳴らしてから、真面目な顔に戻った。
「……分かりました」
「パーティ名、『淑女の噛み癖』で登録します」
バルドが腕を組んだまま低く言った。
「覚えやすいな」
それが、この男なりの了承なのだろう。
書類へ記入し、札の更新が進む。
ナタリアはその様子を見ながら、何となく不思議な感覚を覚えていた。
昇格そのものより、こうして名前がつき、並びが形になる方が、よほど今後の実感を連れてくる。
レオナが横で小さく言う。
「ほんとに組んだわね」
「そうね」
「今さらだけど」
「今さらだからじゃない?」
レオナはそこで笑った。
「たしかに」
ミリアが最後の印を押す。
「これで正式登録完了です」
さらりとした言い方だった。
だが、その一言で何かがはっきり変わった。
ガレスが壁から離れ、窓口へ近づいてきた。
「で、正式に組んだAとBは、今日どうする」
「いきなり仕事を振るの?」
レオナが半ば呆れて言う。
「振らねえよ」
「ただ、依頼棚の見え方はもう違うってだけだ」
それはその通りだった。
ミリアが窓口の横、今までとは少し違う位置にある掲示へ視線を向ける。
「今後はこちらが中心になります」
「A向け、B向け、それから混成の指揮込み依頼です」
ナタリアも視線を向ける。
前までの棚より、紙の質が違うわけではない。
だが、そこへ貼られている文面の重さが違う。
単純討伐だけではない。
護衛。
地方応援。
調査。
指揮補佐。
誰かの後ろへついて行くのではなく、自分で切ることが前提の仕事だ。
レオナが静かに言った。
「ほんとに変わったわね」
「ええ」
「どう?」
ナタリアは少しだけ考える。
「やること自体は同じよ」
「そう返すと思った」
バルドがそこで鼻を鳴らした。
「その返しでいられるなら問題ねえ」
「浮かれて足を滑らせるやつより、よっぽどましだ」
ポンタが机の下から言う。
「主は滑る時は別のところで滑るがの」
「うるさい」
ナタリアが即座に返すと、レオナがまた笑う。
ミリアもさすがに少しだけ肩を揺らした。
そのあと、依頼は取らなかった。
昇格の朝に無理に一つ受ける必要はないし、組んだばかりの形を一度ちゃんと落ち着かせる方がいい。
バルドもそこは何も言わない。
「明日からで十分だ」
それだけだった。
ギルドを出たあと、レオナが歩調を合わせてきた。
「で、宿はどうする?」
ナタリアは少しだけ眉を上げる。
「どうするって?」
「今まで別だったでしょ」
「でも正式に組んだなら、朝にわざわざ合流するのも手間じゃない」
「依頼ごとに宿を行ったり来たりするのも、今さらって感じだし」
ナタリアは一瞬だけ黙る。
たしかにその通りだった。
遠征や危機対応の時は気にならなくても、王都で毎回別宿から出て合流するのは、もう半端に見える。
「そうね」
素直にうなずく。
「その方が早いわ」
「でしょ」
レオナはそこで少し笑う。
「じゃあ、今日のうちに荷物移すわ」
「石樽亭でいいの?」
「だめなの?」
「だめじゃないけど」
「じゃあ決まり」
即断が早い。
だが、今のレオナにはそれが似合っていた。
石樽亭へ戻ると、女将は二人を一目見ただけでだいたい察したらしい顔をした。
「で?」
鍋の蓋をずらしながら、短く言う。
「部屋はどうする」
回りくどさがない。
そこがありがたい。
レオナが肩をすくめる。
「話が早いわね」
「遅い話をする歳じゃないんでね」
女将が鼻で笑う。
「一人増えるなら、一人増えるで動かすだけさ」
孫娘はその横で目を輝かせていた。
「おねーたん、いっしょ?」
「そうなるみたい」
レオナが答えると、女の子は飛び跳ねるように喜ぶ。
その反応に、女将だけが少しだけ呆れた顔をした。
「浮かれるのはいいが、部屋は増えないよ」
「どうするの?」
レオナがナタリアを見る。
ナタリアは少しだけ考えた。
別室が空いているかもしれない。
だが、同じ宿へ移るなら、結局行き来の手間が残る。
そして、その程度の距離は、もう今さらなのかもしれなかった。
「……とりあえず、同じ部屋でいいんじゃない?」
レオナは一拍だけ黙ってから、口元を上げた。
「そう言うと思った」
「実務的な判断よ」
「はいはい」
ポンタが足元で尻尾を振る。
「妾の位置は窓際がよい」
「勝手に決めないで」
「もう決まっておる」
女将がそれを見て、やっぱりそうなるかという顔で肩をすくめた。
「好きにしな」
「いいの?」
「どうせ止めてもそうなるだろう」
その言い方も、石樽亭らしかった。
レオナの荷物は多くなかった。
夕方までに一度自分の宿へ戻り、必要なものだけをまとめて石樽亭へ持ってきた。
鏡台代わりの小箱、着替え、手入れ道具、細々とした私物。
ナタリアの部屋にそれが少しずつ置かれていくと、不思議なくらい自然だった。
「ずいぶんすっきりしてるのね」
レオナが部屋を見回して言う。
「生活感がない」
「あるでしょう」
「必要最低限だけって意味よ」
「困らないもの」
「私はもう少しある方が落ち着くわ」
そう言いながら、レオナは自分の荷物を手際よく置いていく。
鏡の位置、布の畳み方、小箱の置き方。
部屋の空気が少しだけ変わる。
ナタリアはそれを見ながら、何となく面白かった。
戦場ではあれだけ迷わず動くのに、こういう日常の入り方は静かに進む。
レオナがふと振り返る。
「何?」
「別に」
「見てる」
「気にしないで」
「そういうの気になるのよね」
ナタリアは少しだけ口元を緩めた。
「慣れて」
「じゃあ、そうする」
夕方、王都の灯りが増え始める頃には、石樽亭の部屋はもう二人と一頭のものとして落ち着いていた。
女将が下から呼ぶ。
「飯にするよ」
レオナが扉へ向かいながら言う。
「とりあえず、お風呂の前に食べる?」
「そうね」
「そのあと?」
ナタリアは横目で見て、少しだけ間を置いた。
「……お腹は空いてるわ」
レオナが吹き出す。
「そう返すのね」
「変な聞き方するからでしょ」
「変じゃないわよ、たぶん」
ポンタが間へ割り込むように言った。
「妾は肉がよい」
レオナが笑ったまま頷く。
「はいはい、そっちもね」
石樽亭の階段を三人で下りる。
王都の喧騒は外にあり、ここには宿の温かい匂いと人の気配がある。
立ち位置は少し変わった。
札も、見られ方も、次に来る依頼も変わる。
けれど、その変化はもうどこか自然だった。
ナタリアは隣に並ぶレオナと、足元のポンタを見下ろす。
そしてそのまま、何でもない顔で食卓のある方へ歩いていった。




