第39話 山を下ろすもの
ハルヴェインの外は、まだ血と泥の匂いが残っていた。
街道正面の柵には折れた槍が立てかけられ、荷車を利用した障害の間には、押し返した魔物の死骸がまだ寄せ切れていない。夜を越えても片づけが追いつかなかったのではない。片づけるより先に、次を止める方が優先だっただけだ。
ナタリアはギルド前の石段で足を止め、街の外へ視線を向けた。
押し下ろしてくる核はまだ生きている。
それがある限り、街が持ち直しても、また押される。
昨日ここでどうにか保たせた線も、いずれ擦り切れる。
レオナが横に来る。
「行くのね」
「ああ」
返した声は、もう柔らかくはなかった。
低く、短い。
戦う前の藤堂の声だ。
ただ、それを鳴らしている喉だけが、若い令嬢のものだった。
ギルドの扉が開き、オズワルドとミレナ、それにダリオが出てくる。ダリオはまだ顔色が悪い。立っているが、街の前へ出し続ける体ではない。
「案内なら俺が」
開口一番、ダリオはそう言った。
ナタリアは首を振る。
「要らない」
短く切ってから、地図板へ視線を落とした。昨日までの目撃点、押し出しの方向、山裾へ流れた群れの軌跡、水場と獣道の繋がり。その全部が、一本の筋へまとまり始めている。
「探す必要はない」
「もう下りてきてる」
「通る場所で待てばいい」
ダリオが眉を寄せる。
「読めるのか」
「読める」
ナタリアは指で山裾の一点を示した。
「山から街へ圧を掛けるなら、あれだけ大きいのは歩きやすい筋を通る」
「しかも、押し出した群れが一番きれいに割れてるのはここだ」
「水を避けて、傾斜が緩く、木立が切れる。街へ出る前に一度開く場所がある」
「そこで受ける」
オズワルドは地図板を覗き込み、すぐにうなずいた。
「たしかに、荷車道の古い跡があります」
ミレナも続ける。
「昔、伐り出しに使っていた広場ですね」
「今は使っていませんが、道はまだ残っています」
「そこだ」
ナタリアは言った。
「街へ寄る前に落とす」
レオナが小さく息を吐く。
「分かりやすくていいわ」
「回り道はしない」
「もう時間をかける段階じゃない」
ダリオがまだ何か言いたそうにしていたが、結局、短く肩を落とした。
「……分かった」
「街で頭をやれ」
「戻った後に詰まる場所の方が多い」
「お前、ほんと容赦ねえな」
「立てるのと、山へ入れるのは違う」
ダリオは苦く笑った。
悔しさは消えていない。だが、ここで押し問答をしている余裕もないのだろう。自分が残る方が街のためだと分かっている顔だった。
ポンタが足元で尻尾を揺らす。
「置いていかれる方も、なかなか辛気くさいの」
「黙ってろ」
「図星じゃな」
レオナが口元だけで笑う。
「じゃあ、こっちは三人ね」
「ああ」
オズワルドが静かな声で言う。
「戻るまで、こちらは持たせます」
その言葉に、ナタリアは短くうなずくだけで返した。
この男は、できないことを言わない。だから「持たせる」と言ったなら、持たせる気でいる。
ミレナが布に包んだ小さな水筒と保存食を差し出した。
「途中で止まる時間があれば」
「無ければ、戻ってからで構いません」
「助かる」
受け取り、腰へ差す。
フォルティウスの重みを確かめる。
短剣。
指輪。
足場。
風。
雷。
全部使う。
今日は最初から遠慮は要らない。
「行くぞ」
その一言で、三人は街を出た。
山裾へ入るにつれ、空気は目に見えない重みを帯びていった。
朝の冷たさとは別の、息を浅くするような圧がある。
道は残っていた。
古い伐り出し道だろう。土が締まり、ところどころに荷車の轍が化石のように硬く刻まれている。だが、その上を新しい破壊が横切っていた。倒木。抉れた地面。石の割れ。木の幹に入った深い裂け目。
レオナが折れた幹に触れた。
「これ、角ね」
「ああ」
ナタリアは地面の痕を見た。
二足。
重い。
前へ突き出すような踏み方をしている。
ただ歩くだけではない。押しながら進む生き物の跡だ。
「ほんとに下りてきてるのね」
「昨日の時点でな」
レオナはそれ以上言わなかった。
ナタリアの声の硬さで、もう今日がいつもの延長ではないことが分かっている。
ポンタが鼻を上げる。
「濃いの」
「どっちだ」
「前」
「ずっと前」
「嫌なものが道を覚えておる」
その言い方は妙に生々しかった。
道を覚える。
確かにその通りだ。
ただ通ったのではない。
ここを自分の通り道として使い始めている。
ナタリアは足を止め、周囲を見た。
傾斜。
木立の切れ方。
風の抜け。
土の締まり。
その先、山裾が一度だけ広く開く場所がある。左右は浅い林。正面は少し上り。後ろは街へ続く。
「そこで受ける」
レオナも見た。
「いい場所ね」
「向こうにも、こっちにもな」
「それでいい」
待つ。
広めの場所へ着くと、三人は位置を分けた。
ナタリアは正面。
レオナは左寄り。横へ回れる位置。
ポンタは右。木陰と開けた場所の境に置く。
相手が入ってきた時、一瞬だけ視線を割れる場所だ。
待つ時間は長くなかった。
最初に変わったのは音だ。
山の静けさが、静かすぎる方へ寄る。鳥が鳴かない。小獣の気配が切れる。風だけが草の上を撫でる。
ポンタが低く言った。
「来るの」
その直後、地面が一度だけ鈍く震えた。
遠くない。
木立の向こうから、何か大きいものが歩いてくる振動だ。
枝が擦れる。
幹が軋む。
それだけで、まだ姿は見えない。
ナタリアは呼吸を一つ落とした。
視界が狭まる。
無駄なものが外へ落ちる。
「レオナ」
「いる」
「最初の三歩は正面見ろ」
「向きが変わったら、右膝を狙え」
「了解」
「ポンタ」
「分かっておる」
「踏み込みを割ればよいのじゃろう」
「ああ」
次の瞬間、木立を割ってそれが出てきた。
牛頭。
角は太く、根元から上へ捩れながら伸びている。
肩は鎧のように盛り上がり、胸から腕にかけての厚みが尋常ではない。二足で立ち、前へ出るたびに土が沈む。
毛皮には泥と乾いた血がこびりつき、背には古い傷痕が走っていた。
それがこちらを見た時、ただ大きいだけの獣ではないと分かる。
敵を認識している目だ。
レオナが低く言う。
「……ほんとにいた」
「見えてるだろ」
ナタリアは返した。
その言い方がもう、令嬢のものではない。
ミノタウロスが一歩、前へ出る。
それだけで地面が鳴る。
ナタリアは真正面から行かなかった。
わざと半歩ずらす。
最初に見るのは角ではない。肩だ。踏み込みの起点と、重心の乗る順番を見る。
「来るぞ」
言った瞬間、ミノタウロスが突っ込んだ。
速い。
巨体に似合わない速度で、一直線に間合いを潰す。
ナタリアは身体強化を薄く入れ、半身でかわす。
角を避けるのではなく、肩の抜ける側へ出る。
フォルティウスで脇腹の毛皮を浅く裂く。手応えは重い。深くは入らない。
「硬いわね!」
レオナが横から踏み込む。
剣が右脚へ走る。
だが、骨までは届かない。
それでも十分だ。削りは入る。
ミノタウロスが即座に向きを変える。
ただの突進型ではない。
痛みを受けた場所へすぐ意識を戻す。
「角を追うな!」
ナタリアの声が飛ぶ。
「肩を見ろ!」
レオナは返事をしない。
その代わり、もう視線が角から外れている。
通じている。
ポンタが右から唸る。
圧が走る。
ミノタウロスの意識が、ほんの一瞬だけ割れた。
ナタリアはその一拍で踏み込み、今度は風を刃へ薄く纏わせて肩口へ入れる。
深くはない。
だが、通る。
ミノタウロスが吠えた。
耳に痛いだけの咆哮ではない。腹に響く圧だ。
そのまま腕が振り下ろされる。
ナタリアは地面を蹴って後ろへ抜け、レオナは左へ転がる。
腕が落ちた場所の土が裂け、石が跳ねた。
「まともに受けるな」
「振り切った後だけ見る」
ナタリアの指示は短い。
迷いがない。
ミノタウロスが再び正面を向く。
その時、ポンタが木陰から飛び出した。
完全ではない。
それでも、フェンリルの本来へ近い体格と圧が、山の空気を裂く。
ポンタの咆哮が鳴り、ミノタウロスの首がほんの僅かにそちらへ振れる。
「右だ、レオナ!」
レオナが入る。
今度は深い。
右膝の外側へ剣を差し込み、捻るように抜く。
ミノタウロスの脚が初めて明確に沈んだ。
「いい」
ナタリアは即座に踏み込む。
雷を刃へ乗せる。
脇腹へ一線。
焦げた匂いと一緒に、血が飛ぶ。
だがまだ浅い。
まだ足りない。
ミノタウロスが後ろ足で地面を抉りながら向きを変える。
レオナへ角を向ける。
ナタリアはそこへ風を飛ばす。
顔ではなく、視界の端。
目を潰すほどではない。
だが、一瞬だけ軌道がずれる。
「レオナ、離れろ!」
レオナが半歩下がる。
角が空を切る。
その空振りを、ポンタが逃さない。
「遅いの!」
右前脚へ噛みつく。
食い破るほどの深さではない。
だが、巨体に対して体重の掛かる脚を噛まれれば、その一瞬だけでも嫌でも意識が割れる。
ミノタウロスがポンタを振り払おうと体を捻る。
そこだ。
「正面は俺が見る!」
ナタリアが前へ入る。
全身へ身体強化。
足、腰、肩、腕、首。
全部へ一気に魔力を流す。
さらにフォルティウスへ、風と強化を重ねる。刃の通りを最大まで上げるための、ほとんど乱暴に近い積み方だった。
美しくはない。
だが、いま必要なのは美しさではない。
ミノタウロスがポンタを振り払うために、首を下げる。
その一瞬、角の線が消える。
首筋が空く。
「レオナ、顔を上げさせるな!」
「任せて!」
レオナが左から入り、肩口へ斬り込む。
深手ではない。
だが十分だ。
嫌でも上体が開く。
ポンタが噛みついたまま咆哮する。
ミノタウロスの意識が、正面と左と右に引き裂かれる。
ナタリアは踏み込んだ。
一歩。
地面が沈む。
だが踏み抜かない。
強化した脚でそのまま前へ出る。
「落とす」
声は低かった。
若い女の声なのに、言い切りだけが中年男のものだった。
フォルティウスが走る。
風を纏った刃が、首筋へ入る。
さらに身体強化で押し切る。
骨へ当たる感触を、力でねじ伏せる。
雷は要らなかった。
通ると読んだ。
なら押し切るだけだ。
巨体はなお前へ出ようとした。
その首が宙へ飛んだのは、次の一歩へ重心を乗せた瞬間だった。
血が高く噴き、首のない胴が半歩だけ前へ出る。
それからようやく崩れた。
地面が鳴る。
倒木より重い音だった。
しばらく、誰も動かなかった。
ポンタが先に噛みつきを外し、毛を逆立てたまま息を吐く。
「やれやれ」
「重いの」
レオナが肩で息をしながら、倒れた巨体を見た。
「……首、本当に飛ばした」
「飛ばしたな」
ナタリアはそう答え、フォルティウスの血を払った。
まだ刃に残る風が、薄く赤を散らす。
「終わりだ」
短く、それだけ言う。
レオナが笑う。
疲れている。
だが、笑えるくらいには立っている。
「あなた、今ほんとに容赦なかったわね」
「A相手に容赦してどうする」
「それはそうなんだけど」
ポンタが周囲を一度見回したあと、耳を少しだけ緩めた。
「これで少しはましじゃ」
「押し下ろす核は落ちた」
ナタリアは山の空気を吸う。
さっきまでの圧が、一段薄い。
全部が戻るわけではない。
だが、山がこちらへ押しかけてくる重みは、確かに消え始めていた。
「戻るぞ」
ナタリアが言う。
レオナが巨体と首を見比べる。
「……本当に持って帰るのね」
「証拠が要る」
「まあ、そうでしょうね」
「それと」
ナタリアは首を見下ろす。
「もう動かないと街に見せる」
レオナは肩をすくめた。
「納得したわ」
首は重かった。
当然だ。
だが持てない重さではない。
太い角が邪魔なら、そこを持ち手にすればいい。
首の断面は見せるためにも隠しすぎない方がいい。
レオナが片側を持ち、ナタリアがもう片側を持つ。
ポンタは前へ出て警戒する。
「おかしな絵ね」
レオナがぼそりと言う。
「何が」
「長身美人二人で、牛頭の首を運んでるのよ」
「事実だろ」
「そうなんだけど」
ポンタが前で鼻を鳴らす。
「主らは本当に妙なものを持って帰るの」
「黙って歩け」
「偉そうじゃな」
帰り道は、行きより短かった。
山の圧が落ちたせいか、空気も少し軽い。
途中、隠れていた小獣が一度だけ木陰から顔を出し、すぐに逃げた。
それだけで、戻り始めているものがあると分かる。
ハルヴェインの柵が見えた時、見張りが最初に気づいた。
こちらへ向けた視線が、一度止まる。
それから大きく見開かれた。
「……おい」
声が裏返る。
「おい!」
もう一人が振り返る。
そして同じ顔になる。
女二人が戻ってくる。
しかも、その手には牛頭の首が下がっている。
誰がどう見ても、普通ではない。
「開けろ!」
見張りが叫んだ。
柵の内側で人が動く。
通りの奥でも足が止まる。
ナタリアたちが街へ入る頃には、もうギルド前まで人が集まり始めていた。
無駄口はない。
だが視線は全部こちらへ向く。
最初に「女二人寄越したのか」と言った空気は、もうどこにも残っていなかった。
オズワルドとミレナ、それにダリオがギルド前へ出てくる。
ダリオは首を見た瞬間、目を細めて息を吐いた。
「……本当に持って帰ってきやがった」
「証拠が要るって言ったでしょう」
レオナが言うと、ダリオは苦笑する。
「そこまで律儀とは思ってなかった」
「律儀じゃない」
「必要だっただけだ」
ナタリアがそう返し、首を地面へ下ろす。
重い音が、石畳へ鈍く落ちた。
オズワルドはその前に立ち、初めてはっきりと息を呑んだ。
ミレナも一瞬だけ言葉を失う。
だが、ほんの一瞬だ。
「記録を」
オズワルドが言う。
「討伐確認に入ります」
「頭からだな」
ダリオがしゃがみ込む。
角。
首。
蹄。
傷痕。
全部を見て、ようやく本当に終わったと理解した顔になる。
「A相当で間違いねえ」
その声が、街へじわりと広がる。
ミレナはもう紙を持っている。
「時刻、帰還確認」
「討伐証拠、首部あり」
「ミノタウロス、Aランク相当」
そこまで書いてから、彼女は一度だけナタリアを見る。
「……お見事でした」
飾らない言い方だった。
だからこそ重い。
ポンタが胸を張る。
「妾もおったぞ」
「ええ。そう見えます」
ミレナのその返しで、ようやく少しだけ笑いが漏れた。
ナタリアはフォルティウスを鞘へ収める。
やることはまだある。
後始末。確認。残りの流れの消え方。王都への報告。
だが一番重い核は、もうここに転がっている。
「これで少しは戻る」
ナタリアが言う。
オズワルドが短くうなずいた。
「ええ」
「街はここから、人の手で戻せます」
それが、討伐の終わりとしては十分だった。




