第37話 下りてくるもの
朝のハルヴェインは、昨日よりもさらに静かだった。
人が減ったわけではない。むしろ動いている人数そのものは増えている。柵を補強する者、荷車を寄せる者、井戸から水を運ぶ者、見張り台へ交代で上がる者。やることがある人間は増えているのに、街は妙に声を抑えていた。必要な言葉だけが交わされ、笑いは消えている。足音と荷車の軋みばかりが、冷えた朝の石畳へよく響いた。
ギルドへ入ると、机の上の紙束が一晩で増えていた。
オズワルドはもう席に着いていて、ミレナは窓口ではなく奥の机で伝令札を仕分けている。二人とも徹夜ではない。だが短くしか寝ていない顔だった。
「各街へは飛ばしました」
ミレナが顔を上げて言う。
「王都寄りの境目、一つ目の街、南の小集落、街道沿い二つ」
「返答は朝以降、順に戻るはずです」
「早いわね」
ナタリアが言うと、オズワルドが帳面を閉じた。
「早くしないと意味がありませんから」
内勤の人間らしい言い方だった。感情を乗せない。だが、そこに迷いもない。
「街内の配置も変えました」
「Fは伝令と搬送、補給に回しています。Eは第二線。Dは外縁と要点へ薄く」
「水場と荷場は切り分けました」
机の端に置かれた配置図を一目見る。
ナタリアが昨夜言った形に近い。街道正面は狭める。水場側は捨てずに薄く受ける。荷場裏は街内の防衛と接続できる線に引き直されていた。
「十分だわ」
「十分で終わらせるつもりはありません」
オズワルドはそう言って、もう一枚の紙を差し出す。
「夜明け前に戻った伝令が一つ」
「一つ目の街でも、小型の流入が増えています」
「まだ街を閉じるほどではないが、外縁確認を厚くしたそうです」
予想通りだった。
空振りにはならなかった。
喜べる種類の的中ではないが、判断としては正しい。
そこへ、奥の扉が開いた。
ダリオだった。
昨日より顔色は少しだけ戻っている。ナタリアが軽く治癒をかけたぶん、痛みは薄れたのだろう。だが、万全には程遠い。左肩の上がりきらなさと、脇腹をかばう癖はまだ残っていた。
「動けるのね」
ナタリアが言うと、ダリオは腕を回しながら鼻を鳴らした。
「昨日よりはな」
「楽にはなった」
「無理は効かないわよ」
「無理しないで済むならそうする」
返しは短いが、前よりも少し柔らかかった。
傷を治してもらった分だけ、こちらの言葉を受け取る余地が増えたのかもしれない。
レオナがその横へ立つ。
「出るんでしょう?」
「ええ」
ナタリアは答え、机の上の簡易地図へ目を落とした。
「山裾まで確認する」
「外縁でどこまで押し出されてるか」
「街の前で削る線を、現物を見て決めたい」
オズワルドが頷く。
「同行は」
「私とレオナ、それとポンタ」
「ダリオには道と前回の確認地点を聞きたい」
「それからDを二人。足の速いのを」
「セルジュとイリアをつけます」
ミレナが即答した。
名前だけですぐ動けるあたり、街の内側がよく噛んでいる。
「セルジュは前で受けられます。イリアは見張りと弓」
「どちらも口は重くないので、帰ったあとも話が早いかと」
「助かるわ」
ポンタが足元であくびをしながら言う。
「妾もおるぞ」
「知ってるわよ」
「主は時々、妾を当然すぎて数えぬ」
「いちばん頼りにしてる時ほど、数えなくて済むの」
「それはそれで雑じゃの」
短いやり取りで、部屋の張りが少しだけ緩む。
オズワルドもミレナもそれを止めなかった。止める必要のない空気を選べるのは、この街の良さだ。
準備を終えて街を出る頃には、陽はすでに低い雲の上へ出ていた。冷たさは残っているが、地面の湿りが少しずつ匂いを持ちはじめる時間だ。
先頭はダリオ。
ただし先走らせない。
その後ろにナタリア、横にレオナ。
少し開いてセルジュ、イリア。
ポンタは前へ出たり戻ったりを繰り返している。
「先に言っとく」
街を離れてすぐ、ナタリアは言った。
「今日は倒し切るのが目的じゃない」
「どこから来て、どこへ流れてるかを見る」
「削るべき時は削る。でも深追いはしない」
セルジュが眉を寄せる。
「街の外で潰せるなら、潰した方がいいんじゃねえのか」
「潰せる量ならそうするわ」
ナタリアは歩調を落とさず答える。
「でも、全部を外で受け切れる量かどうか、まだ見えてないでしょう」
「見えてないものに前のめりで入る方が危ない」
セルジュは一瞬だけ反論しかけたが、横のダリオが低く言った。
「言う通りだ」
それで黙る。
この街のDは、ちゃんとCを見て動いてきたらしい。
街道を少し外れた時点で、空気が変わった。
昨日も感じた嫌さが、今日はもっと具体的な形を持っている。
獣が少ない。
いや、少ないというより、居るべき場所にいない。
林の端に残る足跡は多いのに、そこから先の散り方が妙に揃っている。餌を追う動きではない。何かを避けて押し流された時の線だ。
ポンタが鼻先を上げた。
「逃げ方が揃いすぎておる」
イリアが弓を背負ったまま周囲を見る。
「昨日もそんな感じだったのか」
「昨日より濃いわ」
レオナが先に答える。
「弱いのが全部同じ方へ寄ってる」
ダリオが足を止め、林の入口に残る痕跡を指した。
「こっちもだ」
「昨日まではまだ散ってた」
「今日は流れになってる」
ナタリアは屈んで土を指先で払う。
細い足跡。
小型獣。
その上に重なる、やや大きい爪痕。
そしてさらに、地面を抉ったような荒れ。
「順番があるわね」
「順番?」
セルジュが聞く。
「弱いのが先」
「その後に、押し出す方が通ってる」
「でも本体じゃない。もっと手前のもの」
言いながら立ち上がる。
視界の先に、小さく揺れる草が見えた。風ではない。
ポンタが先に唸る。
「来るの」
その直後、林の端からジャイアントトードが一匹飛び出した。
続けて二匹。
その脇からコボルトが三。
後ろにまだ気配がある。
イリアが息を呑む。
「こんな混ざり方、ふつうは」
「しないわ」
ナタリアは短く言い切った。
「セルジュ、右」
「イリアは一歩下がって、奥を見て」
「レオナ、左を水場側へ流させないで」
「ダリオは中央。前に出すぎない」
言葉が落ちるより早く、体が動く。
レオナは左へ滑るように位置を変え、コボルトの逃げ筋を塞いだ。
セルジュは槍を低く構えて右のトードを受ける。
イリアは一本だけ矢をつがえ、すぐには撃たず、奥の動きを待つ。
ダリオは中央で半歩引いた位置を取る。
その判断の速さに、ナタリアは少しだけ安心した。
ジャイアントトードの一匹が大きく跳ねる。
ナタリアは踏み込まず、フォルティウスで喉の下だけを裂いた。
深く追わない。
倒す位置を決めて、そこで落とす。
左へ回ろうとしたコボルトをレオナが横から打ち、右へ流れたもう一体をセルジュが槍で押し返す。
「奥、まだいる」
イリアが言った瞬間、矢が飛んだ。
林の影から頭だけ覗かせたジャイアントラットが一匹、地面へ転がる。
ポンタが低く吠えるように言う。
「こっちは囮じゃ」
「奥にもう一群おる」
ナタリアはそこで深追いを切った。
「ここで止める」
「全部追わない」
ダリオが頷く。
「十分だ」
「こいつら、街道へ抜ける先だけ潰せばいい」
前哨の先端を削る。
街へ届く頭数を減らす。
それがいまの正解だ。
さらに二体出たコボルトを処理し、トードの一匹が水場側へ逃げようとするのをレオナが斬る。そこでいったん静かになった。
誰もすぐには喋らない。
奥の気配を測る。
ポンタが耳を倒した。
「まだおる」
「だが、いま前へ出す気配ではない」
「押しがあるのね」
レオナが小さく言う。
「ええ」
ナタリアは林の奥を見たまま答える。
「流れてきてるんじゃない」
「押されてる」
ダリオが地面へしゃがみ込み、残った荒れ跡を見た。
「昨日より下だ」
声が低くなる。
「昨日はもっと上だった」
「今日はもう、この線まで来てる」
その線は、街から見て無視できる距離ではなかった。
前へ進む。
山裾へ近づくにつれ、景色の乱れ方が濃くなった。
倒れた細木。
泥を抉った深い踏み跡。
獣道の崩れ。
それだけなら大きな魔物一体の通りでも説明はつく。
だが、その周囲に残る小さな足跡や逃げた群れの跡までが、一方向へ揃いすぎている。
ポンタが立ち止まり、唸るように息を吐いた。
「嫌じゃの」
ナタリアも歩を止める。
「強い?」
「近い」
「昨日より、嫌なものが近い」
セルジュが喉を鳴らす。
「本当に、何か大物がいるんだな」
「いる」
ダリオが短く言った。
「見た」
それだけで、場が少し締まる。
山裾の開けた地点に出た時、向こうの地形が見えた。
低い斜面。
その上に、崩れた木立。
さらに奥は見えない。
だが、見えないままでも分かる圧がある。
イリアが矢をつがえたまま小さく言う。
「何か来る」
次の瞬間、斜面の草を割って群れが下りてきた。
先頭はコボルト。
その左右にジャイアントラット。
少し遅れてトード。
さらに後ろ、木立の間で別の影が動く。数は多くない。だが、まとまり方が嫌だった。波の頭だけを切り出したような来方をしている。
「受ける」
ナタリアが言う。
「ここで止める」
「レオナ、左」
「ダリオは中央の少し後ろ」
「セルジュ右、イリアは後列を抜かせない」
「ポンタ、奥を見る」
今度は前より速い。
前哨戦と言っても、先ほどの林際より密度がある。
コボルトが一気に散ろうとする。
ナタリアは全部を追わない。
先頭三つだけを切る。
残りはレオナが受ける形へ流す。
「左は抜かせない」
レオナが低く言って、肩から入る。
剣筋は広くない。だが、逃げる線にぴたりと置かれる。そこへ飛び込んだコボルトが自分から削れる。
右ではセルジュが一匹のトードを止めた。
だがその脇から回ったラットが、斜面下へ滑るように抜ける。
イリアの矢がそれを落とした。
「奥、まだ来る!」
ポンタの声。
木立の影から今度はまとめて三体。
ダリオが一歩前へ出た。
「そこは俺が」
位置としては正しい。
だが、その瞬間に斜面の上から別の圧が落ちた。
大きい。
トードでもコボルトでもない。
木立の間を突っ切ってきた中位個体が、ダリオの立つ中央へ一直線に走った。
「ダリオ!」
レオナが叫ぶより先に、ナタリアは動いていた。
フォルティウスを抜く。
真正面から受けない。
踏み込みの角度を半歩ずらし、突進線を外へ逃がすように刃を入れる。
完全には殺せない。
だが、ダリオへ直撃する線だけは消せる。
ぶつかりきる前に、衝撃が斜めへ流れた。
それでもダリオは避けきれず、肩から地面へ転がる。
脇腹も打った。
音で分かる。
ナタリアがその個体へ二撃目を入れる。
レオナが横から入り、セルジュが右を締め、イリアが奥の頭を落とした。
静かになるまで、そう時間はかからなかった。
だが、十分に嫌な数秒だった。
ナタリアはすぐダリオのそばへ寄る。
「動ける?」
ダリオは顔をしかめながら起き上がろうとして、途中で止まった。
「……最悪じゃねえ」
「最悪一歩手前でしょう」
「まだ歩ける」
「前には出せないわね」
ダリオが何か言い返しかける。
だが、左肩と脇腹の両方がそれを許さなかったらしい。短く息を吐いて、結局言葉を飲み込んだ。
「くそ」
「生きてるだけで十分よ」
ナタリアは短く魔力を流し、打ち身の痛みと息の詰まりだけを軽く散らす。昨日よりさらに応急寄りだ。完全に戻す気はない。戻せる傷でもない。
「立てる?」
「立てる」
ゆっくりだが立ち上がる。
その顔に、もう自分が街の前で蓋をやる位置には戻れないと出ていた。
「……悪い」
ダリオが低く言った。
「正しい位置だったわ」
ナタリアはそう返した。
「正しく入って、想定より押しが強かっただけ」
「だから次は、もうその前提で組む」
セルジュがあたりを見回しながら言う。
「これ、街前で受けるしかねえのか」
「ええ」
ナタリアは地面の荒れ方と斜面の奥を見た。
「もう外縁だけでは止まらない」
「街の前で、受ける線を作る」
レオナが頷く。
「全部は受けない」
「ええ」
「街道正面は狭める」
「水場側は薄く」
「荷場裏はEへ」
「Fは搬送と伝令を切らさない」
口に出しながら、配置が形になる。
戦う前に切る順番がある。
そこで迷うと、あとで人が死ぬ。
ポンタが斜面の上を見たまま言う。
「来るかもしれぬ、ではないの」
ナタリアも同じ方を見た。
「ええ」
「もう下りてきておる」
その言葉に、誰も反論しなかった。
見えてはいない。
だが痕跡はもう十分だった。
倒木の折れ方。
抉れた地面。
深すぎる蹄痕。
圧の残り方。
大きく、重く、しかもただ通ったのではなく、縄張りを広げるように下りてきている。
「戻るわよ」
ナタリアが言う。
「ここでこれ以上削っても意味がない」
「街を持たせる方が先」
イリアが矢を収める。
「追わなくていいのか」
「いま追っても、街前の手が減るだけ」
「本体を叩くのは、その後」
言い切った時点で、レオナが一瞬だけこちらを見る。
ナタリアも分かっている。
本体と戦う話が、その先にある。
だが今ではない。
ハルヴェインへ戻る道は、行きより短く感じた。
街が見えた時、入口の柵はさらに増えていた。荷車が一台、障害物として横付けされている。見張り台の上にも人が増え、井戸端には水桶が並べられていた。
街がもう、待つ姿勢へ入っている。
オズワルドはギルドの前まで出ていた。
ミレナもいた。
ダリオの様子を見た時点で、二人とも表情が少しだけ固くなる。だが崩れない。
「来るのですね」
オズワルドが言った。
「ええ」
ナタリアは答える。
「今日中に、受ける形を作って」
「分かりました」
言葉は短い。
それで十分だった。
ミレナはすでに手元の板へ新しい配置を書き込んでいる。
「ダリオは街内待機へ回します」
「Dの主導は誰に振りますか」
「セルジュを街道正面」
「イリアを見張り台寄り」
「水場側は薄く受けるから、Eを少し厚く」
「荷場裏は二線と繋げて」
「Fはもう一段、搬送に寄せて」
「了解しました」
紙ではなく、口頭で回し始めても詰まらない。
この二人はそこが強い。
ダリオはギルドの壁へ少し寄りかかり、短く息を吐いた。
「最悪の手前だな」
「ええ」
ナタリアは答える。
「でも、まだ崩れてない」
「だから持たせるのか」
「そうよ」
ダリオはそこで、初めてほんの少しだけ笑った。
「いい返し方する」
「そうかしら」
「少なくとも、いま欲しい言い方ではある」
ポンタが足元で鼻を鳴らす。
「主はそういう時だけ、妙に腹が据わっておる」
「いつも据わってるわよ」
「そうでもない時も見たぞ」
レオナがそれを聞いて肩を揺らした。
「昨夜とか?」
「黙りなさい」
その一瞬だけ、場の空気がわずかに緩む。
だが、本当に一瞬だ。
すぐにまた、街全体が張り直した綱の上へ戻る。
柵。
火。
荷車障害。
水。
伝令。
搬送。
負傷者の戻し先。
第二線。
見張りの交代。
全部が動き始める。
異変を疑う段階は、もう終わっていた。
あとは、どこで受けて、どこまで持たせるかだけだった。




