第36話 ハルヴェイン
ハルヴェインの街へ足を踏み入れた瞬間、ナタリアは空気の張りを肌で感じた。
人はいる。荷車も通っている。店の戸も開いているし、道端の露店も火を落としてはいない。だから崩れているわけではない。だが、崩れていないことに安堵できる空気でもなかった。
街の入口には、本来なら必要のないはずの簡易柵が追加されていた。荷車一台ぶんは通せる程度の開きだけ残し、その両脇に粗い木杭が打ち込まれている。見張りも二人。片方は槍、片方は弓。どちらも寝不足気味の顔をしていたが、気の抜けた立ち方はしていなかった。
柵の前を通る時、見張りの視線がまずレオナへ向いた。背の高さと落ち着きの方が先に目に入ったのだろう。次にナタリアを見る。そこで一瞬だけ目の動きが止まる。若い顔立ちだ。だが、見ている場所が違う。服でも髪でもなく、柵の組み方、周囲の人の流れ、見張りの疲れ方、武器の手入れ具合。そういうものを先に拾っていく目だった。
最後に、二人の足元を歩く獣へ視線が落ちる。
見張りの片方が、声を潜めもせずに言った。
「……女二人寄越したのか」
その言い方には露骨な侮りというより、拍子抜けに近い色があった。王都へ「目端の利くやつを貸してくれ」と頼んだ結果、まず目に入ったのが長身の女二人だったのだから無理もない。
だがその直後、もう一人の見張りが低く返した。
「いや」
短い一言のあと、視線を二人から外さずに続ける。
「見た目ほど軽くねえぞ」
レオナがそれを聞いて小さく鼻を鳴らした。
ナタリアは何も言わない。
その沈黙のまま通り過ぎようとした時、ポンタが当然のように口を開いた。
「そんなに見るでない」
二人の見張りが同時に固まった。
「……今、喋ったか?」
「犬が?」
ポンタが胸を張る。
「犬ではない」
ナタリアは足を止めずに言った。
「そういうことらしいわ」
見張りは完全に言葉を失った顔でポンタを見つめた。
さっきまでの「女二人寄越したのか」という空気が、そこで綺麗に吹き飛ぶ。驚くべき順番が少しずれている。けれど、この街はいまそれどころではない。見張りも追及より先に職務を思い出したらしく、慌てて身を引いた。
「……王都からの応援、でいいんだな」
「ええ」
レオナが答えると、見張りはぎこちなく頷く。
「ギルドはまっすぐだ」
「助かるわ」
そこから先は、通りの人間たちの反応が続いた。
視線は嫌でも集まる。二人とも目立つ。長身で、顔立ちは整っていて、胸元の厚みまで含めて否応なく前へ出る。だが近づくほど、艶っぽさより先に、前へ立つ側の圧が見える。柔らかく眺めるには、二人とも立ち方が戦い寄りすぎた。
その上、足元の獣が時々普通に喋る。
荷袋を抱えた女が思わず足を止め、子どもを連れた男が二度見し、通りの端で店を開いていた婆が口を半開きにしたまま固まる。そのどれも大きな騒ぎにはならないが、街へ入った応援が普通ではないことだけは、かなり速く広がっていった。
レオナが歩きながら小さく言った。
「目立ってるわね」
「あなたもよ」
「そっちも」
ポンタが間に割って入るように歩く。
「主らは無駄に目立つの」
「無駄ではないでしょう」
ナタリアが返すと、ポンタは鼻を鳴らした。
「街に入るだけで視線を集めるのは、少なくとも得ではない」
「損とも限らないわ」
「どうかしら」
「見られてるうちは、誰がどこを気にしてるかも見えるもの」
レオナが少しだけ口元を上げた。
「そういう返し方するわよね、あなた」
ギルドは街の中央よりやや街道寄りにあった。王都のものよりひと回りもふた回りも小さい。だが、狭いだけで雑ではない。入口脇の掲示板には依頼票がきちんと整列している。扉の蝶番には油が入っている。窓口の前の床も、踏み荒らされたままにはなっていない。
回してきた場所の顔だ、とナタリアは思った。
扉を開けると、紙と乾いた木の匂いが迎えた。王都ギルドのような圧のある喧騒はない。その代わり、机の上で止まっていない仕事の量が見える。紙束、伝令札、走り書き、仮留めされた配置表。放っておかれているものがない。
受付にいた女が、こちらを見るなり立ち上がった。
「王都からの」
「ナタリア・ヴォルディアよ」
「こちらはレオナ」
「ミレナ・フォードです」
三十前後だろう。疲れは見える。だが目が死んでいない。書類と人を同時に見て処理してきた目だった。黒髪をきっちりまとめ、袖を少しだけまくっている。机の上には束ねた記録票と、未整理の走り書きが二種類。どちらも雑には置かれていない。
「お待ちしていました」
そこでミレナの視線が、二人の足元へ落ちた。
ポンタがじっと見返す。
「……」
「何じゃ」
ミレナの目が少しだけ見開いた。
「喋るのですね」
驚きは抑えていたが、抑えているだけで驚いていないわけではない。
レオナが肩をすくめる。
「ええ。いま知った顔ね」
「ええ、いま知りました」
その返し方で、ナタリアはこの女も使えると分かった。
驚く。だが止まらない。
それがいちばん大事だ。
「ギルドマスターをお呼びします」
「それと、ダリオも」
ミレナが奥へ声をかける。
「オズワルドさん、来ました」
奥の部屋から出てきたのは、五十前後の男だった。体格は大きくない。武人のような隙のなさではなく、机へ向かう時間の方が長い人間の姿勢をしている。だが、線は細くない。ここまで街を回してきた人間の顔だ。
「オズワルド・ケインです」
声音は低いが、威圧ではない。言葉をきちんと置いていく話し方だった。
「来ていただけて助かります」
そう言ってから、こちらを一度見比べる。まずレオナを見て、次にナタリアへ視線を置き、最後にポンタへ落とす。その順番が妙に正確だった。見た目ではなく、役割を測っている。
「強い方が欲しかったのではありません」
「見るのが早い方が欲しかった」
レオナが少しだけ眉を上げる。
「ずいぶん切実な歓迎ね」
「必要なものを必要な形で言っているだけです」
オズワルドはそう返した。
「この街には、強さも要ります。ですがそれだけでは遅い段階へ入り始めています」
その時、奥から重い足音がひとつした。
「呼んだか」
声と一緒に現れた男を見て、ナタリアはすぐに理解した。この街のCだ。
ダリオ・ヴァルツ。
背は高すぎない。だが肩と腰の厚みが実戦のものだ。無駄な筋肉ではない。顔には疲労が見え、左肩の動きが少しだけ硬い。上衣の下、脇腹にも補強布が覗いていた。浅くない傷を抱えている。それでも立ち方が崩れていない。現場を持たせてきた人間の体だった。
ダリオはまずレオナを見る。次にナタリア。そこで一瞬だけ視線が止まる。若い顔立ちのはずなのに、値踏みの速度と置き方が違う。そこに引っかかったのだろう。
「王都の」
「ナタリアよ」
「レオナ」
ダリオは短く頷いた。
「ダリオだ」
それ以上の挨拶はない。
だが、それで足りた。
互いに一目で、無能ではないと分かる瞬間がある。言葉より速く入る種類の認識だ。今のこれはまさにそれだった。
「座ってください」
オズワルドが机を示す。
大きな会議机ではない。普段は帳票整理に使っているのだろう長机を、今日は片づけて開けてある。ミレナがすでに紙束と板記録を並べ始めていた。
ナタリアは椅子へ腰を下ろし、レオナもその横へ座る。ポンタは机の下を一度くぐり、椅子の脇で座った。
「報告自体は、一か月前からありました」
ミレナが最初の束を開きながら言う。
紙に書かれた文字は小さいが整っている。急いで書いた報告票もある。見張り台からの走り書きもある。それらが日付ごとに束ねられていた。
「最初は、山頂より奥。湖近くに魔力溜まりあり、という報告です」
ナタリアはその文を追う。
簡素だ。だが必要なものは入っている。
「それ以降、消失報告はありません」
「むしろ、少しずつ大きくなっているようだという報告が続いています」
ミレナが次の数枚を開く。
光の揺らぎ。
夜間に水面が明るい。
周辺で中型魔物の死骸。
湖寄りの獣道が崩れている。
山中腹で普段見ない足跡。
水場沿いに弱い魔物の流入増加。
レオナが低く言う。
「かなり前からじゃない」
「ええ」
オズワルドが答えた。
「報告自体は拾っていました」
「ただ、山頂よりさらに奥、湖近くです」
「こちらの人手では、確認頻度を上げきれませんでした」
その言い方は言い訳ではなかった。事実だけを置く内勤の口調だ。
「記録は繋がっていました」
「ですが、押さえ切れてはいません」
ダリオがそこで口を開く。
「一度二度なら見に入れた」
「だが、外縁を回しながらじゃ、あそこを定期で押さえ続けるには足りねえ」
ナタリアは記録を読みながら、ダリオの肩の動きの鈍さを横目で見た。左が上がり切っていない。脇腹もまだ引きつっている。無理をしている。
「ここ一週間で一気に増えたのは?」
ナタリアが問うと、ミレナが別の束を差し出した。
「外縁、水場、街道脇、荷置き場です」
「種は揃っていません」
「ですが、向きが似ています」
似ている、という言い方がいい。
断定していない。だが、見ていた人間の違和感がそのまま残っている。
ナタリアは一枚ずつ目を通した。
ジャイアントトード。
ジャイアントラット。
コボルト。
キラービー。
弱い魔物の流れ。
林の静けさ。
見張り位置の目撃点低下。
全部がひとつの文では繋がっていない。
だが、線にすると揃う。
「押し出されているだけじゃない」
ナタリアは机の上へ紙を置きながら言った。
オズワルドとミレナが同時に顔を上げる。
ダリオも視線を寄越した。
レオナは黙っている。
「原因そのものが、少しずつ下りてきてる」
静かな声だった。
だが、言葉は重く机へ落ちた。
ダリオが眉を寄せる。
「それはどういう意味だ」
「ただ魔物が増えてるなら、もっと散るわ」
「種も向きも、ここまで素直には揃わない」
「これは押し出されている」
「でも押し出している核が、山の奥で固定されたままなら、前線はそんなに下がらない」
ナタリアは一枚の記録票を指先で叩く。
「目撃位置が下がってる」
「一週間前は山裾より上」
「三日前には中腹寄り」
「昨日の報告では、さらに下」
レオナが低く続けた。
「押し出しの原因が、少しずつ近づいてるってことね」
「ええ」
オズワルドがそこで問う。
「では、何がいると見ますか」
質問の仕方が良かった。
騒がず、結論だけを求める。
内勤の人間らしい切り方だ。
ナタリアはすぐ断定しなかった。
断定できる材料ではない。
だが、見積もりは出せる。
「ただの群れの増加ではないわ」
「Aランク相当の個体が山奥にいる可能性が高い」
「山の主級が座っていて、それが動いていると見た方がいい」
ミレナのペン先が止まる。
ダリオは少しだけ目を細めた。
「山で見た影は、普通じゃなかった」
その言い方は、自分の見たものを盛っていない。
「大きさだけじゃない」
「立ってるだけで、周りの獣が消えてた」
「何回見たの?」
ナタリアが聞く。
「まともに見たのは一度だ」
ダリオはそう答えた。
「二度目は、遠くで気配だけだ」
「だが二度目の方が下だった」
それで十分だった。
ポンタが机の下から低く言う。
「嫌な流れじゃ」
全員の視線が一瞬だけ下へ落ちる。
「遠くても嫌なものは嫌じゃ」
「山の奥で座っておったものが、いまはもう座り直しに来ておる」
オズワルドが、その言葉を否定しなかった。
ミレナはメモへ何かを短く書きつける。
内勤の人間は、たとえ獣の言葉でも、使える情報なら捨てない。
「戦力は」
ナタリアが訊いた。
ミレナが即答する。
「C一、D十二、E三十二、F二十九です」
迷いのない返答だった。人数が頭に入っている人間の言い方だ。
「街外れへ普段から出せるのは?」
「Dを四つ割ると薄いです」
「Eは補助と街内を回しながらなら出せますが、厚くはできません」
「Fは搬送、伝令、雑務、避難誘導へ回す想定です」
ナタリアは頷いた。
想定は悪くない。むしろ現実的だ。
この二人は回すことには慣れている。
「この街だけで閉じる話じゃないわ」
ナタリアはそこで言った。
オズワルドが視線を上げる。
ミレナも手を止めた。
ダリオは黙って聞いている。
「伝令を出して」
一拍置いてから、さらに続ける。
「各街には、スタンピード想定で動くように伝えて」
「外縁確認を増やすこと」
「水場、荷道、街道脇の見回りを厚くすること」
「柵、火、荷車障害の準備」
「Fは伝令と搬送へ回して、Eは街内防衛を優先」
「単独で山裾を深く追わないこと」
オズワルドはそこで一瞬だけ止まった。
驚きではない。測っているのだ。
文面をどこまで強めるか、空振りだった時の摩擦と、遅れた時の損失を一瞬で秤にかけている顔だった。
ナタリアが押す。
「空振りなら笑い話で済むわよ」
オズワルドの目が少しだけ細くなる。
「でも、遅れたら済まないでしょう」
静かな声のまま、その場が一段だけ締まった。
ミレナが最初に動く。
「街道沿い、水場、荷場、外縁確認増し」
「避難準備はどの段階まで入れますか」
「表には出しすぎない方がいいわ」
「でも荷車を逃がす順と、子どもと年寄りの集め先は先に決めて」
「分かりました」
オズワルドも短く頷いた。
「文面は強めます」
それから、紙束へ手を伸ばしながら言う。
「空振りの責任は後で取れます」
「遅れの責任は、その場でしか取れません」
ナタリアはその返しに、少しだけ口元を緩めた。
「ええ」
レオナが横で小さく息を吐く。
「話が早い街ね」
「回してきたのでしょう」
ナタリアがそう返すと、オズワルドは視線だけで肯定した。
ダリオが椅子から体を起こす。
その時、左肩がわずかに上がり切らず、脇腹もかすかに庇った。
「明日、俺がもう一度山裾を見る」
「無理してるわね」
ナタリアが言うと、ダリオは鼻で笑った。
「無理しなきゃ回らねえ街なんだ」
その答えは、嫌いではなかった。
格好をつけているのでも、意地を張っているのでもない。そういう計算でここまで持たせてきた男の声だった。
だが、それでも削れすぎている。
「見せて」
ナタリアが手を伸ばすと、ダリオは少しだけ眉を寄せた。
「何をだ」
「傷」
「大したことはない」
「大したことがない人間は、肩をそう上げないわ」
レオナが横で小さく笑う。
ダリオは一瞬だけ黙り、それから観念したように上衣の留めを少しずらした。左肩口の打撲と裂傷、脇腹には浅くない切り込みの痕。応急処置はされている。だが、動きの邪魔は残っている。
「普通じゃないわね」
「だからそう言った」
ダリオの返しは短い。
ナタリアはそれに答えず、指先へ魔力を集めた。強くはない。傷を塞ぎ切るほどでもない。痛みを散らし、動きを少しだけ戻す応急の治癒だ。
薄い光が肩と脇腹へ流れる。
ダリオの表情がそこでわずかに変わる。
痛みが引く時の顔だ。
レオナがそこで口を挟んだ。
「あなた、治癒もできたのね」
ナタリアは視線を傷へ置いたまま答える。
「一通り、それなりにはね」
「専門じゃないのね」
「本職には敵わないわ」
「でも、応急程度なら困らない」
ダリオが肩を回してみる。
さっきよりは上がる。
脇腹の引きつりも少し薄れたらしい。
「……楽になった」
「完全には塞がらないわ」
「でも今よりは動ける」
「それで十分だ」
ダリオは短く言った。
感謝を大げさに口へ出す男ではない。だが、それで足りる。
ナタリアもそれ以上は求めなかった。
ポンタが下から覗き込むように言う。
「無理をしておる顔じゃの」
「してるさ」
ダリオは今度は素直に返した。
「だが、やらなきゃもっと面倒になる」
「そこは主と似ておるの」
「嬉しくない類似ね」
ナタリアが言うと、レオナがまた肩を揺らした。
オズワルドはその間に、すでに伝令の文面へ入っていた。
言われる前から書式を整えていたのだろう。紙の出し方に迷いがない。
ミレナも別の机で、配置表を書き換えている。Fの欄に伝令、搬送、補給の矢印。Eの欄に街内防衛の再配置。Dは外縁と要点へ薄く散らし、Cは機動のままにする。戦えない人間の手ではない。戦力を持たない代わりに、戦力の流れを読む手だ。
「今夜のうちに各街へ飛ばします」
ミレナが言う。
「一つ目の街、王都寄りの境目、南の小集落、それと街道沿い二つ」
「荷車便では遅いので、Fから足の速い者を選びます」
「同じ文面でいい?」
オズワルドが問う。
「いいえ」
ナタリアはすぐ答えた。
「王都寄りは状況報告を厚く」
「南は外縁警戒を強めるだけでいい」
「街道沿いは荷車を止める判断を早くさせて」
オズワルドは頷き、書き分けに入る。
レオナが横で小さく言う。
「本当に、こういう時のあなたは速いわね」
「遅いと死ぬもの」
「そういう言い方すると思った」
ナタリアは返さなかった。
その代わり、机の上の記録票をもう一度順に見た。
一か月前からの魔力溜まり。
その後の増大。
押し出された弱い魔物。
下がってくる目撃点。
削れた現地C。
張りつめた街。
全部が一本の線へ繋がり始めている。
「明日、外縁を見に出るわ」
ナタリアが言う。
「街の周りで持たせる場所を決める」
「山裾のどこまでがもう危ないかも見る」
「俺も出る」
ダリオが言う。
ナタリアは即座に首を振らない。
完全に寝かせる気はない。だが使い方は選ぶ必要がある。
「出るのはいい」
「ただし、一人で先に深く入らないで」
「分かってる」
「本当に?」
「……今はな」
「ならいいわ」
レオナがそこで口を挟む。
「私も行く」
「当然じゃろ」
ポンタが言う。
「主だけ行かせる気か」
「行かせないわよ」
レオナは椅子の背に寄りかかる。
「王都から来て、ここで帳面だけ見て帰るつもりはないもの」
「助かるわ」
「そのくらいは言うのね」
「そのくらいはね」
外では、いつの間にか夕方の色が濃くなっていた。ギルドの窓から差し込む光が細くなる。通りの音も少し変わる。昼の働く音から、夜支度の音へ移っていく。
だがギルドの中は止まらない。
伝令が呼ばれ、紙が渡され、配置表が更新される。
誰かが水桶を運び、別の誰かが火の番を確かめる。
崩れてはいない。
だが、持たせるために綱を張る時間へ、街全体が入っていく。
オズワルドが最後の文面へ印を置き、顔を上げた。
「空振りで終わるなら、それで構いません」
「ええ」
ナタリアが答える。
「笑い話で済むなら、それが一番いいわ」
「ただ」
オズワルドは静かに続けた。
「済まない時の方へ、先に手を打ちます」
「それでいい」
ミレナが立ち上がり、伝令札の束を持つ。
「今夜のうちに出します」
その横顔に迷いはなかった。
ナタリアはようやく椅子の背へ少しだけ体重を預けた。
戦う前にやることが多い。
だが、それをやらないまま剣を抜く方が、あとで高くつく。
ポンタが足元で丸まり直しながら、ぼそりと言う。
「やっと街が知った顔をしたの」
「最初から知ってはいたのよ」
ナタリアが返す。
「ただ、手が足りなかっただけ」
「それを埋めに来たのが主らじゃの」
「そういうことになるわね」
レオナが隣で肩を回した。
「明日から忙しくなるわよ」
「もう始まってるわ」
「たしかに」
窓の外では、最後の明るさが細く残っていた。
異変は、もう外から来るものではなかった。
山で起きていたことが、順番に、街の方へ下りてきているだけだった。




