第35話 境目の向こう
王都の朝は、今日も早かった。
石樽亭の一階へ下りる前に、ナタリアは机の上へ並べた荷をもう一度見た。遠出といっても、大仰な旅ではない。二つ先の街。王都から見ればそこまで遠くはないが、日帰りで気軽に往復する距離でもない。数日張る可能性があるなら、持っていくものは自然と変わる。
フォルティウス。
短剣。
手入れ布。
長靴用の小さな油壺。
指輪はすでに指にはまっている。
着替えは必要最小限。
紙と筆記具も入れた。
無駄はない。
だが削りすぎてもいない。
こういう線引きは、前より少し速くなった気がしていた。
足元ではポンタが、荷の横で丸くなっていた。
丸くなっているだけに見えて、耳だけはずっと動いている。
「主」
「何」
「遠いのかの」
「少しね」
「遠くはないが、近くもない、みたいな顔をしておる」
「そのままよ」
ポンタが鼻を鳴らす。
「面倒な距離じゃの」
「ええ。だから行くの」
そう返してから、ナタリアは荷をまとめて部屋を出た。
石樽亭の朝は相変わらず湯気が立っていた。鍋の匂い、焼いた黒パン、床を踏む靴音。女将はすでに鍋をかき混ぜていて、配膳の少女が器を並べている。孫娘はまだ少し眠そうで、椅子の陰からこっちを見ていた。
「今日は早いね」
女将が言う。
「少し遠くまで」
「そういう顔だね」
ナタリアは席に着きながら答えた。
「二つ先の街よ」
「そりゃまた、中途半端に遠い」
「ええ」
女将はそれ以上は詳しく聞かなかった。聞けば答えるが、聞かなくていいことまで聞きはしない。そこがありがたい。
スープが置かれる。
パンが置かれる。
孫娘が椅子の脚に掴まりながら、ナタリアの荷を見る。
「どこいくの」
「少し向こう」
「ぽんたも?」
「当然じゃ」
ポンタが胸を張るように言うと、孫娘は少しだけ笑った。
「ぽんた、がんばってね」
「主が頑張るのじゃ」
「貴方もよ」
朝食を終え、荷を肩へかけて外へ出る。
王都の空気はもう動き始めていた。露店を開く音、荷車の軋み、店先の水撒き。そういう日常の流れの中を、ナタリアはギルドへ向かう。
今日は単純な遠征ではない。
二つ先の街のギルドから、王都へ要請が来ている。
目端の利くやつを貸してくれ。
その言い方が、妙に引っかかった。
強いのを寄越せ、でもなければ、数を貸せでもない。
見る。拾う。切る。まとめる。そういう人間が要るという言い方だった。
ギルドへ入ると、いつも通りのざわめきの中に、どこか落ち着いた忙しさがあった。朝の依頼票前は混んでいる。だが、今日はそこへ寄る必要はない。まっすぐ奥へ視線を向けると、バルドがこちらを見た。
その横にレオナもいた。
もう来ていたらしい。
目が合うと、軽く顎を引いて見せる。
「早いわね」
「あなたも」
レオナの返しも短い。
余計なことを足さなくていい相手になってきている。
バルドは手元の紙を机に置いたまま言う。
「二つ先の街からだ」
それだけで十分通る。
ナタリアとレオナが机の前へ寄ると、バルドは紙を指で叩いた。
「普段は回ってる街だ」
「だが、ここ数日、外縁の報告が妙に多い」
「一件一件はでかくねえ」
「だが嫌な増え方してる」
そこで一拍置き、続ける。
「向こうの最高ランクはCが一人」
「で、来た」
紙をひっくり返す。
そこに短い文があった。
目端の利くやつを貸してくれ。
レオナが目を細める。
「ずいぶん率直ね」
「向こうも切羽詰まってるんでしょうね」
ナタリアが言うと、バルドは肩を鳴らした。
「切羽詰まってるってほどじゃねえ」
「だからAやBまで引っ張る話じゃねえ」
「上は上で、別のもん見てる」
その一言で、王都ギルドの上層がちらりと見える。
普段前に出てこないだけで、上はいる。
だが今日はそこまでではない、ということだ。
「お前ら行ってこい」
バルドが言った。
レオナがすぐ聞く。
「王都側は?」
「ここはガレスにやらしとく」
バルドは机の上の別の票を指で払った。
「何とかなる」
その言い方が、妙に自然だった。
大丈夫だ、ではない。
何とかなる。
雑だが、信頼は入っている。
ナタリアもそれで納得した。
ガレスなら、王都近郊の面倒は拾える。拾って、流して、必要なところだけ締める。あの男はそういう仕事をする。
足元でポンタが鼻を鳴らした。
「あやつは何だかんだ雑に強いの」
「褒めてるの、それ」
レオナが少し笑う。
ポンタは真顔だった。
「褒めておる」
バルドが荷票の束をもう一つ出す。
「一泊二泊で済むならそうしろ」
「済まねえなら、向こうでしばらく張れ」
「見る方が先だ」
ナタリアは短く頷いた。
「分かったわ」
「向こうのギルドには話を通してある」
そこでミリアが横から帳面を差し出した。
「街の宿についても、ひとまず一つ目の街までは押さえてあります」
「そこから先は状況次第で」
「ありがとう」
「お気をつけて」
ギルドを出る時、レオナが横に並んだ。
「初めてね」
「何が?」
「王都近郊じゃなくて、ちゃんと外へ出るの」
「そうね」
「少し楽しみ?」
その問いに、ナタリアは少し考えた。
「楽しみというより、気になる方が強いわ」
「そういう返しだと思った」
ポンタが二人の間を歩く。
「主はいつもそうじゃ」
王都を出ると、景色はすぐに変わった。
石が減り、土が増える。
店の匂いが消え、草と馬と水の匂いになる。
街道を行き交う荷車の音は残るが、王都の中のように音が重なりすぎることはない。
だが、ナタリアは少しして違和感を覚えた。
静か、というほどではない。
人もいる。荷も通る。
けれど、流れがわずかに細い。
それを先に言ったのはレオナだった。
「少し静かじゃない?」
ナタリアは前方を見たまま答える。
「静かというより、流れが細いわね」
「同じことを言ってるつもりだったけど」
「少し違うわ」
ポンタがそこで耳を立てる。
「主」
「何」
「好きな流れではないの」
「まだ何かある?」
「まだ分からぬ」
「だが、落ち着かぬ」
断定ではない。
それが逆に嫌だった。
ポンタは強い。感覚も鋭い。だが、曖昧なまま嫌がる時の方が、はっきりとした危険より面倒なことが多い。
街道脇の林を一度見る。
鳥はいる。
草も揺れる。
だが、林そのものが少しだけ息をひそめているように見える。
道中で追い抜いた荷車の御者は、普段より口数が少なかった。逆方向から来る人間は、王都へ向かう足が少しだけ急いている。誰も「危ない」とは言わない。ただ、向きを変える理由をそれぞれ持っているような顔をしていた。
一つ目の街へ着く頃には、日も傾き始めていた。
街の規模は中くらいだ。
王都ほどではない。
だが、ただの村でもない。
宿もあり、馬屋もあり、小さなギルド支部も見える。人もちゃんといる。表向きは普通だ。普通に見える。
宿へ入ると、主人は帳面を見て顔を上げた。
「王都からのお二人ですね」
「ええ」
ナタリアが答えると、主人は少しだけ困った顔をした。
「申し訳ない」
「部屋は一つしか空いておりません」
そこで一拍置く。
「少し値は張りますが、広い部屋で……その、大きい寝台が一つ」
レオナとナタリアの間に、短い沈黙が落ちた。
ポンタが先に口を開く。
「妾の場所はどこじゃ」
主人は一瞬だけ目を見開き、それからあまり驚かないよう努める顔になった。どうやら事前に話は伝わっていたらしい。
「椅子と敷布はご用意できます」
「よろしい」
ポンタが勝手に頷いている。
レオナが先に言った。
「背に腹は代えられないわね」
ナタリアも頷く。
「休めない方が困るわ」
「では、お二人で」
通された部屋は、たしかに広かった。
机があり、椅子が二つあり、窓も大きい。
そして寝台も大きかった。
一人用の狭いものではない。二人が寝ても足りるくらいに、ちゃんと広い。
それが逆に逃げ場をなくす。
レオナが部屋を見回す。
「思ったよりちゃんとしてる」
「値段は張るって言ってたもの」
「寝台も」
「そうね」
ポンタが部屋の真ん中へ歩いていき、寝台を見上げた。
「無駄に広いの」
「助かるわね」
「主ら、端へ寄る気満々じゃの」
「黙ってなさい」
最初にやることは決まっていた。
窓と扉の確認。
武器の置き場。
水差し。
灯り。
実務を片づければ、少しは落ち着く。
レオナはそういうところも自然だった。扉の蝶番を見て、窓の留め具を確かめ、剣を寝台脇の手が届くところへ置く。ナタリアも同じようにフォルティウスと短剣を置いた。
「先に使う?」
レオナが水桶を指す。
「どっちでも」
「じゃあ私から」
「ええ」
そう言って、レオナは本当に何でもない顔で上着を脱いだ。
留め具を外し、髪をほどき、寝支度へ入る。遠征先の宿で休む。そのための動作として自然すぎるくらい自然だった。
そこに妙な意味を乗せているわけではない。
だからこそ、ナタリアの中の藤堂だけが少し戸惑う。
いや、待て。
普通に脱ぐのか。
同じ部屋で。
同じ寝台で寝るのに。
いや、そういうものなのか。
そういうものなのだろうが。
レオナは桶のところで肩越しに振り返った。
「そんなに困る?」
ナタリアは視線の置き場を少しだけ探してから答える。
「困るというより、慣れてないの」
「そう」
レオナはあまり気にした様子もない。
「別に食べたりしないわよ」
「……食べるなら別にいいけど」
口に出してから、ナタリアは自分で一瞬止まった。
何を返したのかと、言った本人が一番分かっていない。
レオナが今度こそはっきり振り返る。
「それは許可なの?」
「違うわよ」
少し早口になる。
「いまのは、その……」
「その?」
「冗談に冗談で返しただけ」
レオナは数秒だけ黙って、それから吹き出すのをこらえるように肩を揺らした。
「変な返し方するのね」
「自分でもそう思うわ」
「安心した」
「何に」
「あなたでもそういうの、少し崩れるのねって」
「崩れてないわよ」
「崩れてるわよ」
そこまで言ってから、レオナはそれ以上引っ張らなかった。
着替えを終え、そのまま寝支度を整える。
ナタリアも観念して外套を脱いだ。
上着を外し、留め具を解き、髪をほどく。
藤堂の感覚が妙に邪魔をする。見たいわけではない。だが見ないようにする意識が先に立つ時点で、もう平然ではない。
それでも着替えは終わる。
遠征先の宿で、一晩休む。
やることはそれだけだ。
レオナが一瞬だけナタリアを見て、ぽつりと言った。
「……脱いでも、すごいのね」
ナタリアは少しだけ目を逸らしてから返す。
「あなたもよ」
それで十分だった。
そこから先を引っ張る必要はない。
レオナが肩をすくめる。
「まぁいいわ、寝ましょ」
「そうね」
灯りを少し落とす。
ポンタは椅子に敷かれた布の上へ飛び乗り、丸くなった。
「妾はここでよい」
「落ちないでね」
「落ちぬ」
二人は大きい寝台へ入る。
広い。
だから端と端へ寄る余地もある。
だが同じ寝台であること自体は変わらない。呼吸も体温も、別の寝台よりずっと近い。
しばらく、誰も喋らなかった。
外からは、一つ目の街の夜の音が聞こえる。遅い荷車、宿の下で笑う声、犬の鳴き声。普通の町の夜だ。けれど、その普通さの中にほんの少しだけ張りがある。見張りの人数が増えているのか、通りの足音がいつもより慎重だ。
レオナが暗がりの中で言った。
「気のせいだと思う?」
何をとは言わない。
だが、言う必要もなかった。
ナタリアは天井を見たまま答える。
「気のせいで片づけるには、同じ向きが多いわね」
「私もそう思う」
「荷車の数も少し変」
「戻る人が多かった」
「ええ」
椅子の上から、ポンタの声が低く落ちる。
「嫌な寄り方じゃ」
二人とも、その言葉にはすぐ返さなかった。
嫌な寄り方。
その表現が、今日見てきた細い違和感すべてにいちばん近かった。
まだ押してはいない。
だが、何かが寄り始めている。
そんな感じだった。
「寝ましょ」
レオナが言う。
「ええ」
それで会話は終わった。
だがナタリアはすぐには眠れなかった。
他人の呼吸が思ったより近い。
同じ部屋ではなく、同じ寝台で、同格の他人と休む距離感にだけ、中の藤堂が妙に慣れていなかった。
横を向けばレオナがいる。
見ない。
見る理由もない。
なのに、意識だけは隣へ寄る。
眠りに落ちたのは、レオナの呼吸がすっかり深くなってからだった。
朝は早かった。
一つ目の街を出る頃には、空気はもう昨日より明るい。だが気配は軽くなっていない。宿の主人は送り際に、小さな声で言った。
「向こう、見張りが増えてます」
「二つ先の街?」
「ええ」
「大事になる前に済むといいんですが」
その言い方が、ひどく現実的だった。
大事になっていないから、まだこうして言える。
そして、済まない気配も少しある。
街を出てしばらくすると、昨日より違和感ははっきりした。
まず、弱い魔物の痕跡が変だった。
街道脇の草むらに、小さな獣の足跡がいくつもある。だが向きが揃っている。餌場へ向かう散り方ではない。何かから距離を取る時の流れ方に近い。
ポンタが鼻先を上げる。
「嫌じゃの」
「強くなった?」
レオナが聞く。
「流れが悪い」
「昨日より近い」
ナタリアも同じことを感じ始めていた。
林の奥に、普段なら散っているはずの小さい気配が、どこか同じ方向へ押されているような感じがある。
まだ波ではない。
だが、ばらけ方が不自然だ。
見張り小屋に寄ると、それはさらに形を持った。
小屋番の男は疲れた顔をしていた。
記録板を見せられる。
そこにはここ数日の報告が並んでいた。
水場沿いでトード増。
林縁でコボルト移動。
街道脇で蜂の巣増。
小獣の流れ、東へ。
弱い魔物の流れ、東へ。
東。
全部が同じ向きだ。
「これ、全部こっちへ?」
レオナが言うと、小屋番はうなずいた。
「大群ってほどじゃない」
「ただ、向きが嫌なんだ」
ナタリアは板を見たまま言う。
「普段は、同じ時期にこう重ならない?」
「重ならねえ」
「少なくとも、俺は見たことがない」
ポンタが低く唸る。
「まだ押してはおらぬ」
その言い方に、小屋番が眉をひそめた。
「何だって?」
「まだ波ではない」
「だが、押す前の寄り方に似ておる」
それを聞いても、小屋番には意味が半分も分からなかっただろう。
だが、ナタリアとレオナには十分だった。
断定はしない。
まだできない。
それでも、嫌な線はほぼ同じ場所を指し始めている。
見張り小屋を出て、二つ目の街への最後の道へ入る。
ここから先は道そのものが少し痩せていた。草が踏まれている。荷車の轍が深い。行き来が慎重な時の削れ方だ。
馬車が一台、向こうから戻ってくる。
御者がこちらを見るなり、少しだけ速度を落とした。
「街へ行くのか?」
「ええ」
ナタリアが答える。
御者は一瞬だけ言い淀んでから、短く言った。
「気をつけろ」
「まだ閉じちゃいねえが、空気が良くねえ」
それだけ残して、去っていく。
レオナが小さく息を吐く。
「みんな同じこと言うわね」
「同じものを見てるんでしょう」
やがて、二つ目の街が見えてきた。
大きくはない。
だが、ただの村でもない。
街道沿いの柵が見え、見張り台もある。荷車の出入りをさばくだけの余力も、普段ならちゃんとあるのだろう。
だが今日は、その入口に簡易柵が一つ増えていた。
見張りが二人。
いつもより多い。
しかも立ち方が堅い。
街へ入る手前で、ポンタがはっきりと鼻を鳴らした。
「嫌じゃの」
ナタリアが視線を前へ据えたまま聞く。
「まだ来てない?」
「まだ来てはおらぬ」
ポンタは低く言う。
「だが、寄る前の匂いがする」
レオナがそれを聞いて、黙って街の方を見る。
ナタリアも何も言わない。
街はまだ崩れていない。
人も動いている。
荷車も入っている。
ギルドの看板も見える。
だが、崩れないために張っている力が、もう通りと柵と見張りの肩に出ていた。
ナタリアは荷を少し持ち直した。
「行きましょう」
「ええ」
レオナが答える。
その声は静かだったが、もう軽くはない。
二人と一頭は、そのまま二つ目の街へ足を踏み入れた。




