第33話 手入れの日
その朝の石樽亭は、いつもより少しだけ静かだった。
静かといっても、店が止まっているわけではない。女将はもう鍋を火にかけているし、下働きの少年は裏口から桶を運び込み、配膳の少女は眠そうな顔でパン籠の布を替えていた。ただ、朝いちばんの冒険者たちがまだ降りてきていないぶん、皿と足音の数が少ないだけだ。石の壁に反射する物音も、それだけやわらかく聞こえる。
ナタリアは二階の小部屋で目を覚ましてから、しばらく寝台の上に座っていた。
起きる時間そのものは、依頼へ出る日と変わらない。身体がその時刻で目を開くようになっている。けれど、目覚めた瞬間に今日の仕事を頭の中へ並べ始める感じは、今日は薄い。
今日は依頼を詰め込まないと決めていた。
だが、何もしないつもりでもない。
窓を少し開ける。朝の空気は冷たく、石と水の匂いが薄く入ってくる。遠くで荷車の軋む音がした。市場へ向かう気配もある。街はもう動いている。けれど今日のナタリアは、そこへすぐには混ざらない。
寝台脇へ置いた装備へ目をやる。
フォルティウス。
日常使いに寄せた短剣。
長靴。
いつも使う手袋。
指輪。
どれも昨日まで普通に使っていたものだ。戦いを越え、雨と泥を踏み、血を浴び、拭われ、乾かされ、それでもまた次の日に持ち出される道具。こういうものは、何も起きていない日の方がよく見える。使っている最中は、使えるかどうかしか見ない。止まった時に初めて、傷み方や癖が分かる。
今日はそこを見る日だと、昨夜のうちに決めていた。
髪をほどき、指先で軽く梳く。顔を洗い、布で水気を取り、磨き板へ映った自分の顔を見る。疲れはある。だが抜けない種類ではない。休めば落ちる。そういう見立てが前より速くなった。無理をして進める日、少し落とす日、丸ごと止める日。その切り分けが甘いと、あとで大きく崩れる。
磨き板から視線を外し、フォルティウスを手に取る。
鞘ごしでも伝わる重みは変わらない。けれど、柄の革に少し乾きが出ていた。目立つほどではない。だが放っておけばいずれ手に返る。長靴の側面にも、乾いた泥が薄く残っている。短剣は研ぎそのものより、柄の収まりを少し見てもらった方がいい気がした。
指輪は、指へ通したまま一度だけ魔力を流してみる。
強くなる感じはない。
ただ、無駄に散らない。
相変わらず地味だ。だが、こういうものほど長く効く。
下へ降りると、女将が鍋をかき混ぜたままこっちを見た。
「今日は泥の日じゃないんだね」
「依頼は入れないつもり」
そう答えると、女将は眉を少し上げた。
「つもり、かい」
「顔は出すわ」
「休む気なのに?」
「来ないで面倒が溜まる方が嫌なの」
女将は鼻で笑った。
「そういう休み方かい」
「そういう休み方なの」
「不器用だね」
「便利とも言えるわ」
それを聞いていた配膳の少女が、目をぱちぱちさせる。たぶん便利の意味を考えているのだろう。だが口を挟まないあたり、最近は少し慣れてきたのかもしれない。
席に着くと、椅子の脚の間から小さな影がのそのそと這い出してきた。女将の孫娘だ。眠そうな顔のままナタリアの膝へ頭を軽くぶつける。
「おねーたん」
「何かしら」
「きょう、どろ?」
「今日は泥じゃないわ」
「じゃあ、ぽんたもきれー?」
その問いに、足元で丸くなっていたポンタが鼻を鳴らした。
「妾はいつも綺麗じゃ」
「うそ」
「うそではない」
「昨日ぬれてたもん」
「それは濡れておっただけじゃ」
孫娘は納得したような、していないような顔で引き下がり、代わりにナタリアの手元を見た。
「きょう、どこいくの?」
「少し見てもらいに行くの」
「おいしゃさん?」
「それに近いところもあるわね」
女将がスープ椀を置く。
「湯ももう少ししたら使えるよ」
「今日は装備も見る日なんだろう?」
「そこまで顔に出てるのね」
「顔というより、机の上の並べ方だね」
「昨夜、だいぶ整然と置いてたじゃないか」
よく見ている。
石樽亭の女将は必要以上に踏み込まない代わり、見ているところはきっちり見ている。
朝食を終え、軽く湯を使って身体を流し、装備の泥と汗を大まかに落とす。フォルティウスは油を薄く引き直し、短剣は一度布で拭ってから鞘へ収める。長靴も縫い目の泥だけは落としておく。そうしてからギルドへ向かった。
依頼を取るつもりはなくても、急ぎの指名が来ていないか、妙な飛び込みがないか、そのくらいは見ておいた方が落ち着く。切っていいものと、切らない方があとで楽なものがある。全部を閉じるほど、まだ自分は贅沢ではない。
ギルドの扉を押すと、朝の空気がそのまま続いていた。
依頼票の前には人がいる。
窓口ではミリアが帳面を捌いている。
奥にはバルド。
見慣れた騒がしさだった。
今日は票を取らないつもりで、ナタリアは掲示板の前を流し見るだけにとどめる。C、D、E、F。紙の列は変わらない。だが、自分がそこへ向ける視線の高さは変わった。前なら飛びついていた軽い討伐票を、いまは「戻りが早い」「後処理が少ない」といった別の角度で読んでいる。変わったのは紙ではなく、自分の方だ。
「休む気なのに来たの?」
その声に振り向くと、レオナがいた。
今日は戦装束ほど張り詰めていない。普段の冒険者姿ではあるが、肩の力が少し抜けている。掲示板の前で票を眺めていたらしい。
「来ないで面倒が溜まる方が嫌なの」
「休み方が不器用ね」
「そういう休み方なのよ」
レオナは笑った。
「私も似たようなものだけど」
「大きい依頼は?」
「今日は入れてない」
「軽く顔を出して、なければ自分のものを見に行こうと思ってた」
「装備?」
「そう。剣帯と手袋、それと留め具の具合」
「あなたもそういう顔してるわね」
「鍛冶屋と雑貨屋」
「ちょうどいいじゃない」
ちょうどいい。
その言い方が、すでに一緒に回る前提の温度だった。以前なら一度考えたかもしれない。だが、今日はそのまま受けても違和感がない。
「そうね」
ナタリアが答えると、レオナは少しだけ目を細めた。
「じゃあ、一緒に回る?」
「ええ」
「決まりね」
足元でポンタがあくびをした。
「休みでも街を引き回されるの」
「貴方はついてくるのでしょう」
「当然じゃ」
「そういうとこだけ当然なのね」
まず向かったのは鍛冶屋だった。
表通りから一本入った細い通りにある店は、以前と変わらず熱と鉄の匂いを外へ漏らしていた。扉の前には金具と刃物の研ぎ具、脇にはまだ冷え切っていない鋼材。看板は地味だが、仕事の手は丁寧だと分かる。
中へ入ると、炉の熱がまだ残っていた。昼前の時間帯で、今日は大物の打ち込みをひと段落させたところらしい。奥から親父が顔を出す。焼けた前掛けに煤、太い腕。相変わらず、店と同じ顔をしている。
「いらっしゃい」
そう言いながら、まずナタリアの全身を見た。
次にレオナ。
最後にポンタ。
そこで少しだけ眉が動く。
「今日は連れ付きか」
「たまたま一緒になったの」
「へえ」
親父はそれ以上は聞かない。
ただ、目の端でレオナの腰回りと立ち方を見た。武器を使う人間かどうか、そのくらいは一瞬で分かるのだろう。
ナタリアは前に買った短剣を取り出してカウンターへ置いた。
「見てほしいのはこれと」
続けて長靴も軽く持ち上げる。
「こっち」
親父は短剣を手に取り、鞘から抜いて刃を見る。
目の動きが少し変わった。
「ちゃんと使ってる傷だな」
刃先を角度で確かめ、柄の収まりを指で押す。
「雑に殺してねえ」
「殺すためだけに使うことの方が少ないもの」
「そういう使い方してる顔だ」
短剣を返される。
次に長靴。
親父は縫い目と底を一通り見て、踵の減り方を親指でなぞった。
「これはまだいける」
「ただ、ここが少し乾いてる」
「分かってたわ」
「なら話が早い」
親父は店の隅から小さな油壺を持ってくる。
「今日の帰りに一度入れろ」
「濡れたあとすぐじゃなく、半日置いてからの方がいい」
「分かった」
「本当に分かってるやつは返事が軽いな」
「長くされても困るの」
その返しに、親父は鼻で笑った。
前よりだいぶ会話が速い。前に短剣と長靴を選んだ時より、互いに何を求めているかが分かるからだろう。客と店というより、使い手と直す側に近い。
そこで親父の目が、ナタリアの腰の剣へ移った。
「で」
短く言う。
「そっちの本命は何だ」
ナタリアは一瞬だけ黙った。
レオナが横で気配を立てずに見ている。
親父の声に冗談はなかった。
フォルティウスを外し、鞘ごとカウンターへ置く。
親父はそれを見た瞬間、少しだけ口数が減った。
まず柄。
次に鍔。
それから鞘の長さ。
手を伸ばす前に、視線だけで分かることを先に読んでいる。
「抜くぞ」
「ええ」
親父がゆっくり抜いた瞬間、店の空気が変わった。
細い。
だが細いだけではない。
約三センチ幅の刃は、レイピア寄りの形をしているのに、ただの突き剣では終わらない厚みがある。軽すぎない。重すぎない。地金の詰まり方が違う。
親父はそこで一度、刃を立てて光へかざした。
「……これ、誰の仕事だ」
低い声だった。
半ば独り言に近い。
だが次の瞬間には自分で首を振る。
「いや、違うな」
刃の中心を指の腹で確かめる。
重心を小さく動かし、柄の収まりを見る。
そして、家紋へ視線が止まる。
「誰が持ってた」
「母が若い頃に使っていたものよ」
ナタリアがそう言うと、親父の目が一度だけこちらへ戻る。
そこで初めて、剣と持ち手を同じ線の上へ置いたように見えた。
「そうか」
それだけ言って、また剣へ視線を落とす。
口数は減ったままだ。
レオナも黙って見ていた。
彼女がフォルティウスを見たことはある。だが、こうして鍛冶屋の目で見られるのを横で見るのは初めてだった。良い剣だという以上の空気が、そこにはたしかにあった。
親父はしばらく何も言わず、鞘へ納め、ようやく口を開いた。
「下手にいじらん方がいい」
「そうでしょうね」
「そう思って来たのか」
「手を入れるとしたら、私の方だと思ったの」
親父はそこで、ようやく少しだけ口の端を上げた。
「話が早いな」
フォルティウスを返しながら、続ける。
「刃そのものに触る話じゃねえ」
「鞘の内側の湿り」
「柄の乾き」
「血や泥を入れたままにしない」
「そういう日々の方だ」
「刃が良いほど、そこを雑にすると死ぬ」
「分かってるわ」
「分かってる顔だな」
親父は少しだけ目を細めた。
「嬢ちゃん」
「何」
「その剣、持ってるだけじゃねえな」
「使ってるわよ」
「見りゃ分かる」
そこで、今度はレオナの方を見る。
「そっちは?」
レオナが自分の剣へ手をかける。
「今日は見せるほどじゃないわ」
「でも留め具を少し見てもらいたい」
「見せろ」
レオナの剣はフォルティウスほど異質ではない。だが、実戦の癖が素直に出ていた。真っすぐで、無駄がなく、前に立つ人間の削れ方をしている。親父はそちらも一通り見てから、柄巻きの締めと剣帯の重心だけ手を入れるよう勧めた。
「こっちは素直だな」
「流し方も真っすぐだ」
「そういう癖が出る?」
「出る」
レオナは少し驚いたような顔をしたが、否定はしなかった。
足元でポンタが、今度は鍛冶屋の床のど真ん中で胸を張っている。
親父がそれに気づいて眉を寄せた。
「犬まで来るのか」
「犬ではない」
ポンタが即座に言い返す。
親父が目を剥いた。
「喋った」
「主の従魔じゃ」
「……今日はずいぶん面白え客が揃ってるな」
「面白いのは貴方の顔よ」
ナタリアが言うと、親父は今度こそ大きく笑った。
店を出ると、昼の光が一段明るく感じた。
レオナが歩きながら横目で言う。
「あなた、こういう店でも空気を変えるのね」
「剣が変えたのよ」
「持ってる人込みででしょう」
「どうかしら」
「たぶんそう」
レオナの言い方は軽かった。
だが冗談だけでもない。鍛冶屋の親父が剣だけを見ていたわけではないのは、横で見ていても分かった。
次に向かったのは、前に指輪を買った雑貨屋だった。
表から見れば普通の店だ。紐、針、瓶、香草、保存袋、簡易な護符。だが、奥の棚には魔力を帯びた小物が静かに混じっている。
鈴付きの扉を鳴らして入ると、奥から細い声がした。
「いらっしゃい」
出てきたのは小柄な老婆。相変わらず腰は少し曲がっているのに、目だけはまっすぐだった。
「ああ」
ナタリアの手元を一目見て、すぐに口元を緩める。
「使ってるね」
「ええ」
言われる前に、ナタリアは指輪へ軽く触れた。
ばーさんは最初からそこしか見ていなかったらしい。
「どうだい」
「強くはならない」
「でも無駄に減らない」
「そういうもんだ」
「地味だけど、長く動くと違うわ」
ばーさんは満足そうに頷いた。
「派手に助けないものほど、ちゃんと分かるやつが持った方がいい」
「流し方も前より少しまとまってる」
ナタリアはそこで少しだけ目を細めた。
「分かるの?」
「分かるとも」
ばーさんは当然のように言う。
「最初に来た時より、切り方が少し素直になった」
「散るのを嫌って、締めるだけじゃなく、残し方も覚えかけてる」
ナタリアは返事をしなかった。
言われていることの意味が分からないわけではない。だが、そこへすぐ言葉を乗せる気にもならなかった。
「今日は何か買うのかい」
「今日は確認だけのつもり」
「ならちょうどいい」
ばーさんの視線が、今度はレオナへ向く。
「そっちは連れかい」
「レオナよ」
「へえ。あんたは真っすぐだねえ」
初対面の第一声がそれらしい。
レオナが少しだけ首を傾げる。
「何が?」
「流し方さ」
「抑える方の小物より、逃がしすぎない留め具の方が合うかもしれないね」
レオナは驚きより、納得の方が先に来た顔をした。
「そういうのも見えるのね」
「見えるよ」
「剣を振る人間は、持ち物より先に立ち方で分かる」
それは鍛冶屋の親父と少し似ていた。見る場所は違うのに、どちらも“使う人間”を先に読む。
ばーさんは棚の下から小さな留め具をいくつか出してきた。
飾り気はない。だが手に取ると、どれも役目がはっきりしている。
「これは強めるんじゃない」
「抜けを減らす」
「真っすぐ流しすぎると、終わったあと空になるだろう?」
レオナがそれを指先で確かめる。
「……あるわね」
「そういう顔だ」
ナタリアが横で口元を緩めると、レオナが視線だけで返した。
「笑ってる?」
「少し」
「あなたも似たようなこと言われてたのに」
「私はもう一個買ってるもの」
「そういう理屈?」
「そういう理屈」
足元でポンタが、今度は雑貨屋の棚をいかにも自分のものみたいな顔で見ている。
ばーさんがそれに気づいて、少しだけ腰をかがめた。
「その子も変なのを連れてるねえ」
「犬ではない」
またポンタが即答する。
「犬じゃないのかい」
「高位獣じゃ」
ばーさんがくつくつ笑う。
「見た目はだいぶん下がったもんだ」
「いまは仕方ないの」
「口だけは元気だねえ」
「そこは落ちておらぬ」
「だろうねえ」
気を悪くするでもなく受け流すあたり、ばーさんもだいぶ図太い。
結局、ナタリアは指輪の調整について二、三言葉をもらい、レオナは留め具を一つ買うことにした。大きな買い物ではない。だが、使い方に対して手を入れるにはちょうどいい量だった。
店を出ると、日が少し傾き始めていた。
王都の通りは昼の騒がしさから夕方の忙しさへ移り始めている。二人と一頭で並んで歩くと、それなりに目立った。長身で、鍛えられていて、しかも二人とも胸元の厚みがある。視線を引かない方が難しい。だが、本人たちは装備と手入れの話ばかりしているので、妙な艶っぽさにはならない。それがかえって周囲には不思議に映るのかもしれなかった。
「さっきのばーさん」
レオナが歩きながら言う。
「好き勝手言ってたようで、外してなかったわね」
「そうね」
「鍛冶屋も」
「ええ」
「あなた、こういうところをちゃんと繋ぎ直すのね」
ナタリアは少し考えてから答える。
「道具って、買って終わりじゃないでしょう」
「そこはあなたらしいわ」
「褒めてる?」
「かなり」
通りの角を曲がると、小さな酒場が見えた。
夕方の一杯を早めに始める職人や荷運びがもう入っている。大騒ぎする店ではない。木の卓と薄い酒と、少しだけ脂のあるつまみ。休みの終わりに一息つくにはちょうどよかった。
「少し飲む?」
レオナが言う。
「休みの締めとしては悪くないわね」
「じゃあ決まり」
ポンタも当然のようについてくる。
「妾も」
「貴方は水よ」
「知っておる」
店の隅の卓へ腰を下ろす。
酒は軽いものを頼んだ。休みの日だからこそ、深く酔う必要はない。
最初の一口を飲んで、ようやく今日一日が少しだけ沈む。
戦闘帰りではない。
それでも、動いた日の終わりにはこういう区切りが要るらしい。
「親父、面白かったわね」
レオナが言う。
「フォルティウス見た瞬間に口が減った」
「減ったわね」
「あなた、ああいう時は得意そうにしないのね」
「得意になることでもないでしょう」
「でも嬉しくはあるんじゃない?」
そこでナタリアは少しだけグラスを見た。
「……あの剣が軽く扱われないのは、悪くないわ」
「そういう言い方するところがあなたね」
「他にどう言うの」
「もっと素直に喜べばいいのに」
「難しいの」
レオナはその返しに笑った。
「そういう難しさは分かる」
「本当に?」
「ええ」
「私だって、自分の剣を見て“良い”って言われるのは嬉しいもの」
「でも、その嬉しさをそのまま表に出すのは、少し違う気がする時がある」
「そういうこと」
そこへポンタが卓の下からぼそりと言う。
「主は嬉しい時ほど面倒な言い方をするの」
「黙りなさい」
「事実じゃ」
「今日は特に口が滑るわね」
「休みの日じゃからの」
「理屈になってないのよ」
酒場のざわめきは程よく周囲を埋めていた。
聞こえすぎず、閉じすぎない。
鍛冶屋の親父の手つき、ばーさんの目、レオナの留め具、指輪の具合。そんな話をゆるく回しながら飲んでいると、時間の進み方が少しだけ鈍くなる。
しばらくしてレオナがグラスを置いた。
「次も、噛み合う依頼なら一緒でいいんじゃない?」
言い方は軽い。
だが軽すぎもしない。
店の空気に乗せているぶん柔らかいが、内容はちゃんと仕事の話だ。
ナタリアは一拍だけ考えた。
この一か月ほどで、レオナと組むことは明らかに増えた。最初は偶然が続いているだけかと思っていた。だが、もうそれだけでもない。話が早い。視線の置き方が近い。自分が短く切ったものを、現場へ通る形へ整えるのも上手い。
「そうね」
ナタリアはうなずいた。
「無理に外す理由もないわ」
レオナが目を細める。
「じゃあ、次は見つけた方が声をかける」
「ええ。それでいいわ」
それで十分だった。
契約の形にするほど大げさではない。
だが、曖昧に流すほど軽くもない。
レオナがふっと笑う。
「休みのつもりだったのに、結局仕事の話ばかりね」
「私たち、たぶんそういう休み方なのよ」
「そうみたい」
ポンタが卓の下から鼻を鳴らした。
「主らしいの」
ナタリアは軽く足先でその背をつついた。
「貴方もずっとついてきてたでしょう」
「当然じゃ」
「では、主らしいのではなく、私たちらしいのではないか?」
レオナがそう言って笑う。
ナタリアは一瞬だけ口を閉じ、それから小さく息を吐いた。
「……そうかもしれないわね」
酒場を出る頃には、王都の空は完全に夕色を落としていた。
灯りのついた店が通りへ滲み始め、人の声も一段低くなる。
帰り道の分かれ目で、レオナが立ち止まる。
「じゃあ、次は本当に声をかけるわよ」
「私もそうする」
「忘れないでね」
「たぶん大丈夫」
「たぶん?」
「あなたもそうでしょう」
それにはレオナも否定しなかった。
「そうね」
少しだけ笑って、レオナは自分の帰る方へ歩いていく。
長い背が人混みへ少しずつ溶けていくのを見送り、ナタリアも石樽亭への道を取った。ポンタは当然のように足元についてくる。
「主よ」
「何」
「結局、休んだのかの」
ナタリアは少しだけ考えてから答える。
「休んだわよ」
「そうかの」
「依頼は取ってないもの」
「仕事の話はしておったぞ」
「そういう休み方なの」
石樽亭の灯りが見えてきた。
依頼は取らなかった。
それでも、剣も小物も、人との繋がりも、明日からまた持ち出せる形にはなった。
悪くない一日だった。
扉を押す前に、ナタリアは一度だけフォルティウスの柄へ触れた。
親父の手の重みが、まだ少しだけ残っている気がした。
そのまま石樽亭へ入り、いつもの夜の匂いの中へ戻っていった。




