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断罪された侯爵令嬢は、戦場で完成した。なお中身はおっさんである  作者: 月白ふゆ


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第32話 運ぶ仕事

 朝の石樽亭は、今日も変わらず湯気が立っていた。


 焼いた黒パンの匂い。薄い塩気のあるスープ。鍋の底を木杓子でさらう音。階下で女将が忙しなく動き、孫娘がその足元をうろつき、時々叱られては「はーい」とだけ元気よく返事をしている。窓の外では、まだ本格的に明るくなり切っていない王都の朝が、石畳の上へ白く伸びていた。


 ナタリアはいつもの席で椅子へ腰を下ろし、出されたパンを手に取った。

 Cに上がったからといって、朝食の内容まで変わるわけではない。宿代が急に上がるわけでも、女将が敬語になるわけでもない。変わるのは外で拾う仕事と、そこへ向ける目だけだ。


「今日はCらしい仕事かい」


 鍋から顔を上げずに、女将が訊いた。


「たぶん一つ」


 ナタリアはパンをちぎりながら答える。


「でも帰りに、いつもの指名も拾うかも」


 女将がそこでようやく振り返った。

 目元に少しだけ笑い皺が寄る。


「上がってもそこは変わらないんだね」


「切る理由がないもの」


 ナタリアがそう言うと、足元の椅子の脚の間で丸くなっていたポンタが、当然のように鼻を鳴らした。


「主は面倒を捨てぬ」


「捨ててないだけよ」


「似たようなもんじゃ」


「似てるようで違うの」


 孫娘がその言葉のやり取りに反応し、ぱたぱたと寄ってくる。


「ぽんた、きょうもおしごと?」


「そうじゃ」


「Cってすごいんでしょ!」


「何で知ってるの」


「おばあちゃんがいってた!」


 女将が鍋の前で肩をすくめる。


「聞かれたからね」

「でもあたしにしたら、上がったとか何とかより、あんたが相変わらず朝から難しい顔でパン食べてる方がよっぽどいつも通りだよ」


「難しい顔はしてないわ」


「してるよ」


 そこでスープ椀を置かれる。

 ナタリアは黙って受け取り、一口飲んだ。塩気は薄いが、朝に入れるにはちょうどいい熱さだった。


 女将は少しだけ声を低くした。


「昨日は、なんだかずいぶん疲れてたみたいだけど」


「昨日は重かったの」


「今日は?」


「今日は、重さの種類が違う気がする」


「なんだいそれは」


 ナタリアは一瞬だけ考え、答えた。


「たぶん、壊れないように動かす方」


 女将はそれ以上は突っ込まなかった。

 分かる必要のないことは、深く掘らない。そういう距離感が石樽亭のありがたいところだった。


 朝食を終えて立ち上がると、ポンタも当然のようについてくる。

 孫娘が入口まで見送りに来て、小さな手をぶんぶん振った。


「ぽんた、がんばってね!」


「主が頑張るのじゃ」


「貴方も働くのよ」


「必要な時にだけじゃ」


「便利な言い方ね」


 石樽亭を出たあとの王都は、すでに動き始めていた。

 露店の準備。水撒きの跡。朝いちばんの荷車。職人崩れの男たちの欠伸。昨夜の酒がまだ抜け切っていないような顔も混じっている。だが街の流れは整っていた。人は多い。物も多い。だから少しの乱れが、きちんと放っておけば大きくなる。ナタリアはそういう街の顔を見るのが嫌いではなかった。


 ギルドへ入ると、いつものざわめきが正面からぶつかってくる。

 依頼票の前は今朝も混んでいた。

 Cの札が見える位置は、FやEのころよりわずかに高い。紙の色に大差はないのに、集まっている人間の雰囲気だけが少し違う。肩を張っている者、腕を組んでいる者、依頼票ではなく周囲の顔を見ている者。

 力だけでは足りず、力だけで済ませる気もない人間が増えるのだろう。


 ナタリアは掲示板の前で立ち止まり、上から順に紙を見た。


 近郊巡回。

 護衛。

 林縁確認。

 中型単体。

 複数点確認。

 荷道管理。

 討伐そのものより、持たせる、止める、守る、そういう匂いのする票が増えている。


 そこへ、横から一枚の紙が差し出された。

 押しつけるほど雑ではないが、丁寧でもない。ちょうどその中間だ。


 ミリアだった。


「これ、いかがですか」


 ナタリアはその票を受け取り、読む。


 王都近郊、外れの集落まで。

 荷隊短距離護衛兼道中確認。

 林縁、小橋、湿地沿い通過。

 荷列三。護衛補助二。

 遅延回避優先。


 すぐに理解した。


「倒す仕事というより、通す仕事ね」


 ミリアが小さく頷く。


「はい。そういう依頼です」


「荷を遅らせないのが先」


「それも含めて護衛です」


 ナタリアは票をもう一度見た。

 距離は長くない。

 だが、嫌な区間が固まっている。

 途中で止まれば崩れる。止まらずに通した方が早い類の仕事だ。


「受けるわ」


「ありがとうございます」


 ミリアが帳面へ手を伸ばす。

 その時、少し離れたところからレオナの声がした。


「奇遇ね」


 振り向くと、レオナも一枚の票を手にしていた。

 長身が人の間から頭一つ抜ける。彼女の方もこちらに近づきながら票を軽く持ち上げた。


「私はただのDの護衛任務よ」

「一台付きの護衛。行き先が同じだっただけ」


 ナタリアは手元の紙を少し振って見せる。


「私は荷列全体」


「ちゃんと差がついてるのね」


「Cってそういうことなんでしょうね」


 レオナは口元だけで笑った。


「重そう?」


「重いというより、面倒」


「そっちの方があなたは嫌そうに言うわね」


「面倒の方が長引くもの」


 ミリアが二人のやり取りを聞きながら、事務的に補足する。


「レオナさんの対象は、同じ荷隊の二台目です」

「若旦那見習いが乗る荷車に付きます」


「若旦那見習い?」


「商家の若い方で、今回の荷を見に行くそうです」


「見に行く」


 ナタリアが繰り返すと、ミリアはわずかに苦笑した。


「そういう言い方しか聞いていません」


 嫌な予感がした。

 実際に運ぶ側より、自分が同行する理由をよく分かっていない若い人間は、たいてい余計なことをする。


 合流場所は、王都外縁の荷道入口だった。


 ギルドを出て向かう道すがら、ポンタが足元から言う。


「主の顔が少し嫌そうじゃの」


「若いのが“見に行く”って言い方が好きじゃないの」


「見に行くのではないのか」


「仕事を見に行く人間が、自分が荷列の一部だと分かってない時が面倒なの」


 レオナが横で肩を揺らした。


「もう揉める気でいるの?」


「揉める気はないわ」

「でも跳ねるなら締める」


「そういうの、あなた得意そうね」


「得意というより必要でしょう」


 合流場所には、荷車が三台並んでいた。

 御者が二人、荷持ちが三人、帳面を抱えた年嵩の男が一人。荷は布、乾物、薬材、金物、それに集落向けの日用品。大事だが大仰ではない。だが失えば困る。遅れればもっと困る。そういう種類の荷だった。


 そして、一台目と二台目のあいだに、ひとりだけ場に馴染んでいない男が立っていた。


 若い。二十に届くかどうか。

 背は高くない。細い。

 だが服は悪くないものを着ていて、汚れを嫌う動きがある。腰に短剣は提げているが、飾りに近い。目だけは妙に生きがよく、こちらを見る時に一度、値踏みが混じった。


「護衛の人たち?」


 その若い男が口を開いた。

 声に危機感がない。


 年嵩の帳面持ちがすぐに言う。


「若旦那、こちらが」


「分かってるよ」


 若い男は軽く手を振った。


「でも、女二人まで付くほどの距離か?」

「王都からこの先までだぞ」


 その場の空気が一瞬だけ冷えた。

 荷持ちのひとりが目を泳がせ、御者がわずかに顔をしかめる。


 ナタリアはその男を一度だけ見た。

 怒る必要はない。

 まだここでは締めない。

 まずは荷を見る。


 近くへ寄ると、護衛される側の空気が少し変わったのが分かった。


 最初は、女が二人増えた程度にしか思っていなかったのだろう。だが近くで荷車脇に立たれると、印象は違う。長身で、よく鍛えられ、しかも胸元の厚みまで含めて妙な迫力がある。華奢な護衛ではないのだと、立たれただけで分かる。

 依頼主の年嵩の男が、ほっとしたように一度だけ息を吐いたのも見えた。


「荷列を確認するわ」


 ナタリアが言うと、年嵩の男がすぐに頷いた。


「お願いします」


 ナタリアは一台目から順に見た。

 車輪。

 軸。

 積み荷の寄り。

 馬の癖。

 綱の結び。

 荷車同士の間隔。


 若い男が、少し怪訝そうに言う。


「護衛なのに、そこまで見るのか」


「止まる理由は敵だけじゃないでしょう」


 ナタリアはそう返し、車輪の泥詰まりを指先で弾いた。

 続けて馬の首の向き、綱の張り、御者の手元の硬さを順に見る。


 レオナはその横で、何も言わずに荷持ちや御者の立ち位置を見ていた。

 その視線が一度、二台目へ移る。若い男が乗る予定の車だろう。


「私は二台目付きでいいのね」


 レオナが年嵩の男へ聞くと、相手は慌てて頷く。


「はい。若旦那とその帳面、それと薬材箱を」


「分かったわ」


 その返事は穏やかだ。

 だが、そこで二台目の御者も少しだけ姿勢を正した。レオナは大声を出さない。けれど、一度目が合うと“ちゃんと見られている”と思わせる。そういうところがある。


 出発前に、ナタリアは全体へ向けて必要なことだけ言う。


「橋の上で止まらない」

「林縁で間を空けすぎない」

「湿地沿いは片輪を取られない位置で」

「止めるなら指示を待って」


 若い男が鼻で笑うように言う。


「そんなに細かくやるのか」


 今度もナタリアは怒らない。

 ただ目を向ける。


「荷列が止まれば困るのでしょう」


「まあ、そうだけど」


「なら細かくやるの」


 それで会話は切れた。

 だが若い男の顔には、まだ“分かっていない”が残っている。


 荷列はゆっくり動き出した。

 一台目、二台目、三台目。

 最初のうちは石が多い。やがて土道へ変わり、林が近づき、荷車の揺れが少し深くなる。


 ナタリアは先頭寄りを歩きながら、荷列全体の間隔と道を見た。

 戦う前に崩れる護衛は多い。

 狭いところで無駄に止まり、馬が怯え、荷が寄り、遅れが出る。その遅れを埋めようとしてさらに間が乱れ、ようやく敵が来た時にはすでに列が崩れている。そういう壊れ方は、前世でもよく見た。相手が怪物か工程かの違いでしかない。


 前方に小橋が見える。

 橋板は薄い。補修はされているが、荷車をまとめて通すには不安がある。


「橋の前で少し詰める」


 ナタリアが言う。


「一台ずつ、間を空けずに」


 レオナがすぐに二台目と三台目へ声を通す。


「一台目が渡り切るまで待機」

「橋の上では止まらないで」

「渡り切ってから息をついて」


 言い方が柔らかい。

 だが内容はそのままだ。

 ナタリアが切った線を、現場の人間が動ける形へ落としている。


 一台目が渡る。

 二台目。

 若い男が荷車の縁から少し身を乗り出して橋の下を見ようとした。


「持ち場を離れない」


 ナタリアの声がすぐ飛ぶ。


 若い男が顔をしかめた。


「ちょっと見ただけだろ」


「それで十分危ない」


「大げさだな」


 ナタリアは歩きながら振り返る。


「怒ってないわ」

「死なれると困るから止めてるだけ」


 その言葉に、若い男が一瞬だけ口をつぐんだ。

 だが反発は消えていない。


「そんなにまずい場所でもないだろ」


「あなた一人の勝手で、荷列全体が止まるの」

「止まれば寄せられる」

「次に同じことをしたら、足を止める前に首根っこを掴むわよ」


 言い方は静かだった。

 だから余計に逃げ場がない。


 レオナが横から一度だけ、その若い男へ目をやる。


「本当にそうなるわ」

「いまは大げさに見えても、外では一拍が命取りになるの」


 若い男は不満そうに鼻を鳴らしたが、それ以上は言わなかった。


 橋を抜け、道は林縁へ入る。

 右手に木々、左手に背の低い草原。その間を荷車が進む。止まれば襲われやすい、だが急げば片輪を取られる。嫌な道だ。


 ポンタが足を止めた。


「右の林、三つ」


 ナタリアはすぐに答える。


「止めないで進んで」

「左へ半輪寄せて」

「二台目、間を詰めて」


 レオナがすぐにその内容を御者へ通す。


「そのまま、速度は落とさないで」

「寄せすぎない、半輪ぶんだけ」

「二台目、前へ詰めて」


 荷列がぎこちなく動く。

 だが止まらない。


 林の奥で、小型狼系の影が二、三揺れた。

 匂いを嗅ぎ、寄るかどうかを見ている動きだ。出てきたら切る。だが出てこないなら、こちらも無駄に追わない。護衛は狩りではない。


「レオナ」


「見てる」


 レオナは二台目の少し外へ出て、抜ける筋だけを潰す位置へ立った。

 長身が横へ出るだけで、林からの視線の質が変わる。

 華奢ではない。

 前に出て止める側の体だ。

 その上で胸の厚みまで加わると、妙に目に入るのに、色っぽさより先に圧として働く。


 ナタリアも一台目寄りへ出る。

 同じだった。

 近くで立たれると、護衛される側は妙に安心する。細くて頼りない感じがない。肩も腰も、胸の存在感まで含めて“止める側”の体をしている。

 年嵩の帳面持ちが、それを見てほんの少し姿勢を戻したのが分かった。


 小型狼は結局、出てこなかった。

 寄せる前に荷列の間隔が整い、林へ抜ける角度も失われたからだろう。


 若い男が小声で言う。


「……あれで来ないのか」


 レオナが聞き返す。


「来た方が良かった?」


「いや」


「なら黙って見ておいて」


 柔らかい。

 だが拒否の余地がない言い方だ。


 湿地沿いへ入るあたりで、道はさらに悪くなる。

 片輪を取られれば面倒だ。しかも荷が薬材なら、湿気を吸わせたくもない。


「右を深くしないで」


 ナタリアが言う。


「三台目、少し左」

「そこで止まらない」


 またレオナがそれを通す。

 御者が返事をし、荷持ちが即座に荷の重心を支え、荷列はぎりぎりのところで崩れずに進む。


 若い男は、今度は何も言わなかった。

 代わりに、少しだけ前を見るようになっていた。

 口で分かったわけではない。道が悪い、橋が細い、小型が寄る、その全部を実際に見て、ようやく自分が“護衛される側”だと理解し始めた顔だった。


 集落は、昼を少し過ぎた頃に見えてきた。

 低い柵と、干された布と、小さな倉庫。荷を待っていた人間が、荷車の音を聞いて表へ出てくる。


 荷は無事。

 遅れも最小。

 馬もまだ崩れていない。


 年嵩の帳面持ちが、荷車が止まったあとで深く息を吐いた。


「助かりました」


「仕事でしょう」


 ナタリアがそう返すと、相手は苦笑する。


「戦って守るだけかと思っていました」


「通すまでが仕事でしょう」


 ナタリアは当然のように言う。

 レオナが横で肩をすくめた。


「今日は半分、道の仕事だったわね」


「半分どころじゃないわ」


「でも、私はこういうの嫌いじゃないわよ」


 そう言ってレオナが集落側の荷受け人へ注意を飛ばし、荷車の止め位置を少しだけ直す。誰に頼まれなくても、必要だと思えば動く。そういうところがある。


 若い男は最後まで少しばつの悪そうな顔をしていた。

 荷下ろしが始まる直前、ようやくナタリアの前へ来る。


「……さっきは、悪かった」


 声は小さい。

 だが、自分で言う気になったのなら十分だ。


「次からでいいわ」


 ナタリアはそれだけ返した。


「今日のところは、勝手に外れなかったから」


 若い男は一瞬だけ目を丸くし、それから小さく頷いた。

 そこで初めて、彼はきちんと護衛対象の顔をした。最初の、何となく外を舐めている若旦那見習いの顔ではなく。


 帰り道は荷が軽いぶん、行きより少しだけ気楽だった。

 だが、気楽だからといって仕事が消えるわけではない。


 ギルドへ戻ると、ミリアがちょうど窓口から顔を上げた。


「お帰りなさいませ」


「戻ったわ」


「荷隊は?」


「通した」


 ナタリアがそう言うと、ミリアはすぐに帳面へ印を付ける。

 そこで、別の紙を一枚引き抜いた。


「それと、指名が一件」


 ナタリアは受け取る前から分かっていたような気がした。

 倉庫裏、排水路脇、小型害獣確認。E。

 いつもの顔ぶれの、いつもの種類の仕事だった。


 ミリアが少しだけ言いにくそうにする。


「Cに上がったので、もうこういうのは受けないかと思いました」


「受けるわよ」


 ナタリアは票を受け取った。


「終わるなら」


 レオナが横で目を細める。


「本当に拾うのね」


「切る理由がないもの」


「そういうところは、上がっても変わらないのね」


「変える必要がないでしょう」


 レオナは呆れ半分、感心半分の顔をした。


「私は今日は戻るわ」

「あなたはそのEをやってから帰るんでしょう」


「ええ」


「じゃあ、また」


「また」


 レオナはそこで手を上げて、別の窓口の方へ歩いていった。

 去り際もきれいだった。

 前に立つ時だけではなく、引く時も静かだ。そういうところまで含めて、今日一日でだいぶ頼り方が分かってきた気がする。


 Eの指名は短かった。

 倉庫裏の排水路脇に、小型が一匹入り込んでいるだけ。だが、放っておけば荷袋を齧り、湿りを呼び、匂いを残す。そういう意味では、今日の護衛と地続きの仕事でもあった。


 ナタリアはそこで雑に切らない。

 短い仕事ほど、終わらせ方が荒いと後を引く。

 排水の流れを見て、足跡を確認し、潜り位置を先に切る。ポンタが一度鼻を鳴らし、右下だと告げた。あとは短く終わる。


 仕事が済んで、石樽亭へ戻る頃には夕方の色が濃くなっていた。

 灯りの漏れる扉を開けると、女将がすぐにこちらを見る。


「今日はCらしい仕事だったのかい」


「ええ」


 ナタリアは外套を脱ぎながら答える。


「でも最後はいつもの仕事も拾った」


 女将が笑う。


「上がっても変わらないね」


「変える理由がないもの」


 それは朝と同じ返答だった。

 でも今は、その言葉の重さが少しだけ増している。


 孫娘が椅子の横から顔を出した。


「ぽんた、きょうもしゃべった?」


「主より働いたの」


「嘘言わないの」


「事実を盛っただけじゃ」


「それを嘘って言うのよ」


 女将が笑いながら皿を置く。

 湯気の向こうで、ナタリアは小さく息を吐いた。


 今日の仕事は重くはなかった。

 だが、軽いからこそ見えたものがある。

 一人で強いだけでは足りない。

 止めずに通し、崩れを見て、必要なら人ごと締める。

 それでも最後には、いつもの指名を一つ拾って終わる。

 Cになったというのは、たぶんそういうことなのだろう。


 席に着くと、ポンタが足元でまた鼻を鳴らした。


「主よ」


「何」


「今日は少しだけ、上の顔じゃったの」


「どういう意味よ」


「見ておる場所が増えたということじゃ」


 ナタリアはそれにすぐ返せなかった。

 代わりにスープを一口飲む。

 熱い。

 でもちょうどよかった。


「……そうかもね」


 ようやくそう答えると、ポンタは満足そうに耳を動かした。


 石樽亭の夜は、いつもと同じように更けていく。

 だが、明日から拾う依頼は、少しずつ同じではなくなっていくのだろう。

 その違いを、ナタリアはまだ嫌ってはいなかった。

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