第30話 もうDに置いておく理由がない
王都へ戻る頃には、陽はもう西へ傾いていた。
山洞窟の湿り気と血の臭いは、歩いているうちにだいぶ風へ流れたはずなのに、鼻の奥にはまだ少し残っている。戦いが終わったあと特有の、身体の内側だけが妙に静かな感じも残っていた。疲れているのに、頭の芯だけはまだ仕事の続きをしている。誰がどこで何を止め、どこで切り直し、どの個体がどの穴へ逃げかけたか。そういうものが、まだ一つも崩れずに残っている。
三人で戻る道は、行きよりずっと静かだった。
ガレスは先頭に近い位置を歩いていたが、行きほど前へ出すぎてはいない。もう村までの道を切る必要はなく、いま必要なのは帰ることだけだと分かっている歩き方だった。レオナは肩の力を少しだけ抜いている。それでも視線はまだ低く、足場と周囲を見る癖が切れていない。ナタリア自身も似たようなものだった。歩きながら、頭の中ではもう報告の形を並べている。
ポンタだけが、少し遅れて足元を歩いていた。
いつもより静かだ。
「疲れたの」
そう訊くと、ポンタは一拍遅れて鼻を鳴らした。
「多少の」
「珍しいわね」
「妾とて、いつでも余裕ぶっておるわけではない」
「そう」
それだけ返して、ナタリアは少しだけ歩幅を落とした。抱き上げるつもりはない。こいつはそういうことをされるのを好まないし、こちらも変に甘やかすつもりはない。ただ、同じ歩幅で戻るくらいならできる。
しばらくして、レオナが振り返らないまま口を開いた。
「思っていたより、ちゃんと回ったわね」
その言い方に、ガレスが小さく鼻を鳴らす。
「思っていたより、って何だよ」
「即席編成だもの」
「もっと噛み合わないかと思ってた」
「最初は少しあったわよ」
ナタリアが言うと、レオナは肩越しにこちらを見た。
「ええ。でも、そのくらいで済んだ」
ガレスが足を止めずに言う。
「お前が途中で切り直したからだろ」
「切り直さないと散ったもの」
「分かってる」
短い返答だった。
認めるべきところは認める声音だった。
ナタリアはそれ以上は何も言わない。こういうものは、そこで余計に言葉を足すと崩れる。仕事帰りの会話は、終わった仕事の熱を残したまま短い方がいい。
王都の外縁が見え始めたところで、ポンタがぼそりと言った。
「主は、もう次の紙を考えておるの」
「ええ」
「戻る前からか」
「戻ってからだと遅い時があるの」
レオナがそこで小さく笑った。
「本当にそういうところ、変わらないのね」
「何が?」
「いまの戦いの話をしているのに、もう報告の順番を考えてるところ」
「順番が飛ぶと面倒でしょう」
そう返すと、今度はガレスまで呆れたような息を吐いた。
「お前、ほんとに戻って真っ先に書く気か」
「ええ」
「口で先に言やいいだろ」
「口の方が先だと、細部が散るの」
言ったあと、自分でも少しだけ可笑しかった。
この辺はもう完全に藤堂の癖なのだろう。戦いが終わったあとの頭が、疲れるより先に書類へ向く。前世の習慣というのは面倒なものだ。
ガレスは何か言い返そうとしたが、結局肩をすくめるだけで終わった。
「……まあ、そういうとこだよな」
それがどういう評価なのかは、たぶん本人もきっちり言葉にしていない。けれど悪い響きではなかった。
ギルドの建物が見えた時、ナタリアは無意識に背筋を伸ばしていた。
依頼は終わった。
だが仕事はまだ終わらない。報告し、閉じるところまで含めて依頼だ。そういう意識が、自分でももう完全に馴染んでいるのが分かる。
扉を開けた瞬間、いつものざわめきが少しだけ揺れた。
三人がまとめて戻ったからだろう。しかも顔を見れば、軽い仕事帰りではないことはすぐ分かる。レオナもガレスも多少は汚れているし、ナタリアの外套にも乾き切らない土と血が少し残っている。ポンタまでいるのだから、見ない方が無理だった。
ミリアが真っ先に顔を上げた。
「お帰りなさいませ」
「戻ったわ」
「どうでしたか」
「終わった」
ガレスが先に答える。
そこへナタリアはうなずくだけで、いつものようにそのまま記録机へ向かった。
レオナがその背を見て、ほんの少しだけ目を細める。
「……本当に先に書くのね」
「戻って真っ先にそこ行くのか」
ガレスも半ば呆れて言う。
ナタリアは椅子へ座り、ペンを取った。
「口頭の方が先だと、細部が散るの」
「待てるでしょう」
ミリアがわずかに口元を緩めた。
「はい。待てます」
紙の上に、言葉がかなり早く並んでいく。
近郊村山洞窟。ゴブリン群定着。外縁に斥候三。内部、雌一、小型あり。抜け道あり。掃討完了。村側危険当面なし。洞窟封鎖推奨。周辺獣道一部切断要。
文章は短い。だが、必要なことは落ちない。戦いの熱がまだ残っているうちだからこそ、順番がそのまま書ける。
ミリアが横からそれを見て、ほんの少しだけ感心したように息を吐いた。
「早いですね」
「忘れる前に」
「忘れるんですか?」
「順番はね」
「戦いそのものは残るけど、報告の順番は散る」
そう言いながら最後の一文を置き、紙をまとめる。
ここまで来てようやく、報告が“終わる形”になった。
バルドは奥の机から立ち上がっていた。
大股で近づいてきて、報告書を受け取り、一度ざっと目を通す。目の動きが速い。だが流してはいない。読むべきところだけを拾っている目だった。
「口で」
それだけ言う。
三人は自然にそちらへ寄った。
ポンタも当然のようについてくる。
バルドはまずガレスを見る。
「前はどうだった」
ガレスは短く答えた。
「洞窟の形はCで妥当だ」
「狭い。散る。奥が残る」
「前を押すだけじゃ終わらねえ」
「止めは?」
「できる」
「ただ、押しすぎると抜ける」
その言い方で、最初のズレを自分でも織り込んでいるのが分かる。言い訳ではない。整理だ。
次にバルドはレオナへ視線をやった。
「横は」
「穴が多かったです」
「でも、前が崩れなかったので間に合いました」
「途中でナタリアが全体を切り直したので、そのあとはこちらも動きやすかった」
レオナの言葉は、感情をあまり乗せない。だが、だからこそ余計な誇張がない。
バルドは最後にナタリアを見る。
「お前は」
ナタリアは少しだけ考え、無駄を削って言う。
「雌と小型を残すと終わらない形でした」
「前を削るより、抜けを切って戻らせた方が早い」
「洞窟だから、追うより閉じた方がいい」
「それで切りました」
バルドは報告書へもう一度目を落とす。
それから、ぽつりと聞いた。
「混ぜてどうだった」
誰へ向けた問いなのか、一瞬だけ曖昧な言い方だった。
だが最初に答えたのはガレスだった。
「先を見る」
「だが、見るだけじゃねえ」
「勝手に前へ出るんじゃなく、前を残したまま奥を締める」
その言い方に、ナタリアは少しだけ視線を動かした。
素直な評価ではない。だが正確だ。
レオナも続ける。
「独走しないわ」
「必要なところだけ取る」
「それに、言われてから分かることが多い」
「あの時点でもう答えを持ってたのね、と思う場面が何度かありました」
バルドはその二人の言葉を切らず、最後まで聞いた。
それからナタリアへ向けて、低く言う。
「お前はどう思う」
ナタリアは一拍だけ息を置く。
「前を任せられる人がいると、見る場所が増えるわね」
「それは良い意味か」
「ええ」
「一人で全部やるより早かった」
「だから混ぜた意味はあったと思う」
そこでやっと、バルドが椅子へ深く座り直した。
ギルドのざわめきは少し離れた場所で続いている。
近くの者は何となくこっちを見ているが、露骨には寄ってこない。空気が違うのは分かるのだろう。いまは軽口の場ではない。
バルドは報告書を机へ置いた。
手元で軽く紙を揃え、ようやく言う。
「今回で十分だ」
言葉が短い。
だが、その一言で何かが決まったのが分かった。
「ナタリア」
「はい」
「お前はCへ上げる」
ナタリアはそこで、ほんの少しだけ目を細めた。
驚きはない。
だが、何も動かないわけでもない。
胸の奥で、置かれる場所が一段だけずれた感覚がした。
「そう」
口から出たのは、それだけだった。
バルドは続ける。
「一人で強いだけなら、まだ様子を見る」
「だが今回は混ぜて壊れなかった」
「それどころか、要所を締めた」
「C案件を成立させた。それで十分だ」
言い方は乾いている。
祝福ではなく判断。
だが、だからこそ納得があった。
レオナが横で少しだけ笑う。
「おめでとう、でいいのかしら」
「たぶん、そうなのでしょうね」
ナタリアがそう返すと、レオナは肩をすくめた。
「相変わらず、あっさりしてるわ」
「いま急に踊ったら変でしょう」
「それはそうね」
ガレスが腕を組んだまま言う。
「まあ、妥当だろ」
ナタリアはそちらへ視線を向ける。
「あなたに妥当と言われると、少し腹が立つわね」
「何でだよ」
「何となく」
「理不尽だな」
そのやり取りで、ようやく空気が少し緩んだ。
周囲の冒険者たちも、完全に内容を聞き取ったわけではないだろうが、表情と呼吸で何かは察したらしい。ざわめきの質が少し変わる。
ミリアが口元を抑えながら言った。
「では、ランク更新の手続きをします」
「早いわね」
「こういうのは早いです」
「そうなの」
「待たせる理由がありませんので」
手続き自体はすぐだった。
登録札の確認。
帳面の書き換え。
窓口側の更新。
いつもの実務だ。だが、その一つ一つで今までの“D”が外れていく。
ポンタが足元から当然みたいに言う。
「主なら当然じゃ」
「貴方はそう言うでしょうね」
「遅いくらいじゃ」
ミリアがとうとう小さく笑った。
レオナも息を漏らし、ガレスが呆れたように眉をひそめる。
「その従魔、ほんと遠慮がねえな」
「主に遠慮してどうする」
「普通はちょっとはするだろ」
「しないわね」
ナタリアが即座に切ると、今度はバルドまで小さく鼻を鳴らした。
手続きが終わって、登録札が戻ってくる。
重さは変わらない。
見た目も大して変わらない。
だが、刻まれている位置は一段変わった。
それだけのことなのに、持った時の感触が少し違う気がした。
「これでCです」
ミリアが言う。
「ええ」
「何か一言くらいありませんか」
「そうね」
ナタリアは札を見てから言った。
「また少し、置かれる場所が変わるのね」
ミリアは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに小さく頷いた。
「たしかに、そうかもしれません」
ギルドの空気も少し変わっていた。
露骨な拍手や喝采はない。ここはそういう場所ではない。だが、近くの冒険者が「上がったのか」と小さく囁き、別の誰かが「やっぱりな」と返す。
あの報告書を書く女。
喋る従魔付き。
そんな見られ方が、少しずつ積もっていく。
バルドはそこへ追い打ちのようなことは言わない。
ただ一言だけ、いつもの調子で置いた。
「Cになったからって、急に偉くなるわけじゃねえ」
「分かってるわ」
「ならいい」
「仕事しろ」
「ええ」
それで十分だった。
報告も終わり、札も戻り、空気も一段落ついたところで、ガレスがふいに息を吐いた。
壁にもたれるのではなく、その場で立ったまま言う。
「……まあ、上がったんだ」
ナタリアとレオナが同時にそちらを見る。
ガレスはそれを少し鬱陶しそうに受けながら続けた。
「一杯くらい出してやる」
一瞬、ミリアまで動きを止めた。
それほど珍しいのだろう。
レオナが最初に笑った。
「珍しいわね」
「気まぐれ?」
ナタリアが訊くと、ガレスは肩をすくめる。
「人手不足で引っ張ったのはこっちだ」
「その上、上がったんだろ」
「一杯くらいで済むなら安い」
「そういう言い方するのね」
「そういう言い方しかできねえんだよ」
レオナが面白そうに言う。
「じゃあ、せっかくだし乗るわ」
「私も」
ナタリアが答えると、ポンタが当然みたいに足元から言った。
「妾も」
「お前は水だ」
「知っておる」
結局、そのままギルド併設の酒場へ流れた。
時間が少し早かったせいか、夜ほど混んではいない。
奥寄りの卓に四人分――いや、一人と二人と一頭分の場所を取る。自然と真ん中に座ったのはガレスだった。彼が先に椅子を引き、流れでそうなっただけだ。特に意識してのことではない。
右にナタリア。
左にレオナ。
足元にポンタ。
最初の乾杯は、驚くほど普通だった。
「C昇格に」
レオナが軽く杯を上げる。
「それから、今日の洞窟掃討に」
「ついでみたいな言い方ね」
「実際、今日は一緒の話でしょう」
ガレスがジョッキを軽く上げる。
「まあ、そうだな」
ナタリアもグラスを持つ。
「じゃあ、それで」
木の器が軽く触れ合う。
酒場のざわめきに混じるには静かすぎる音だったが、それくらいがちょうどいい。
一口飲んで、ようやく身体の中の緊張が少し解けた。
冷たい液体が喉を落ちるだけで、戦いの後だという実感が一段遅れて来る。
「洞窟、思ったより嫌だったわ」
レオナが言う。
「嫌じゃない洞窟なんてあるの?」
「ないわね」
「でも、あれは特に嫌」
「村が近すぎたのよ」
「それもある」
「それに、あの雌」
そこまで言って、レオナは少しだけ眉を寄せた。
「小さいのを抱えて逃げる動き、あれは嫌ね」
「残すと終わらないわ」
ナタリアがそう返すと、ガレスがジョッキを置いた。
「お前、あの時点でそこまで見えてたのか」
「見えてたわよ」
「俺は前を止めるので手一杯だった」
「だから前を任せたんでしょう」
「そういう言い方するよな」
「事実でしょう」
ポンタが卓の下から鼻を鳴らす。
「主は見すぎるの」
「便利でしょう」
「味方ならな」
ガレスの返しに、ナタリアは少しだけ目を細めた。
「敵に回る予定でもあるの?」
「ねえよ」
「ならいいじゃない」
レオナがそこで笑う。
「この二人、思ったより噛むのか噛まないのか分からないわね」
「自分でもそう思う」
「主は面倒じゃ」
「貴方もよ」
そうやって、酒場の空気へ少しずつ身体が沈んでいく。
戦いの話。
洞窟の臭い。
バルドの言い方。
ミリアの手続きの早さ。
そんなものを軽く回しながら飲んでいるうちに、ガレスは最初の一杯を半分以上空けていた。
最初は、ただ流れでこうなっただけだと思っていた。
C案件を回して、昇格が決まって、一杯出すと言って、そのまま座った。
別におかしいことではない。
そこまで考えて、ふと、会話が一瞬だけ切れた拍子に我へ返る。
右にナタリア。
左にレオナ。
どちらも長身で、整った顔立ちで、しかも胸がでかい。
しかも二人とも普通に自分のすぐ近くで飲んでいて、片方は昇格したばかりの女、もう片方は元騎士の美人だ。
……いや、待て。
いまさらそんなことに気づくのもどうかと思うが、気づいてしまったものは仕方がない。洞窟の中ではそんなことを考える暇もなかった。戻って、報告して、昇格が決まって、流れで飲んでいるだけだと思っていた。だが、いったん戦闘の熱が引いた頭で左右を見た瞬間、妙な現実味が出た。
何で俺、こんな席にいるんだ。
その一拍の沈黙を、ポンタは見逃さなかった。
「ようやく気づいたかの」
足元から、妙に達観した声が上がる。
ガレスは反射で言った。
「うるせえ」
ナタリアがすぐ隣で首を傾げる。
「何が?」
「……何でもねえ」
レオナは一瞬だけガレスを見て、それから口元を緩めた。
分かったのか、分かっていないのか、その辺が絶妙に嫌だった。
だが、ポンタは容赦しない。
「何でもなくはなかろう」
「お前ほんとそういう時だけ鋭いな」
「主の横と、そこの女の横を見て固まっておったぞ」
「やめろ」
ガレスが低く切る。
だがもう遅い。
ナタリアが少しだけ目を細めた。
「へえ」
「へえ、じゃねえよ」
「いまさらそこを見るのね」
「見てねえ」
「見たの」
レオナが静かに笑いながらグラスを持ち上げる。
「まあ、気持ちは少し分かるけど」
「分かるな」
ガレスは顔をしかめた。
「お前まで乗るな」
「だって、いま気づいた顔してたもの」
「してねえ」
「してたわよ」
ナタリアまで言う。
もう完全に面白がっている顔だ。
ガレスはジョッキを取り上げて一気に飲みそうになったが、途中でやめた。やったら負けだと分かっている。だが、やらなくてもたぶんもう負けている。
ポンタがさらに追い打ちをかける。
「遅いの」
「妾はとっくに気づいておった」
「お前は黙ってろ」
「黙る理由がない」
「あるだろ、少しは」
「主、面白がっておるぞ」
「見りゃ分かる!」
思わず声が一段上がった。
隣の卓の男たちが少しだけこちらを見る。
レオナは肩を揺らして笑い、ナタリアはグラスを口元へ寄せたまま目だけで笑っている。
「疲れてるのね、ガレス」
「違う」
「じゃあ何」
「……何でもねえって言ってんだろ」
「だから何でもなくはなかろう」
またポンタだ。
ガレスはとうとう額を押さえた。
洞窟の中でゴブリンに囲まれていた時より、いまの方が妙にやりづらいのが腹立たしい。
だが、そのやりづらさの中に、どこか変な心地よさが混じっているのも否定できなかった。
ナタリアが少しだけグラスを傾けながら言う。
「まあ、今日は奢りなのでしょう?」
「そうだよ」
「じゃあ、いまさら気づいた件は大目に見るわ」
「何で上からなんだよ」
「Cが奢って、Cへ上がった女が飲んでるんだから、少しは上からでもいいでしょう」
「その理屈はおかしい」
「でも悪くないわね」
レオナがそう言って笑う。
ガレスはもう一度だけ深く息を吐いて、ジョッキを持ち直した。
結局、二杯目まで付き合った。
戦いの話もまた少しした。
今度はさっきより軽く。洞窟の臭いではなく、誰がどこでどう動いたかを、ようやく半分笑って話せる程度の温度で。
その途中でも、ポンタは二度三度、要らないところで口を挟んだ。
ガレスがそのたびに「黙れ」と返し、ナタリアが少し笑い、レオナが面白がる。
そういう時間が、思ったより自然に流れていった。
夜になり切る前にお開きになった。
大騒ぎするほどの祝いではない。
だが、軽く流していいほどの昇格でもない。
その中間としては、ちょうどよかったのかもしれない。
酒場を出る時、ガレスは最後に一度だけ振り返って言った。
「C、おめでとうでいいんだろ」
「たぶん」
ナタリアが答える。
「ありがとう」
それだけで十分だった。
外へ出ると、夕方の空気は少し冷えていた。
ポンタが当然のように足元へ戻る。
レオナは帰り道が違うらしく、軽く手を上げた。
「またそのうち組みそうね」
「ええ」
ナタリアがうなずくと、レオナはほんの少しだけ目を細める。
「今度は最初から、もう少し楽にやれる気がするわ」
「そうね」
それはたぶん、本当だろう。
ガレスは少し離れたところで待っていたが、もうさっきのような顔はしていない。いつもの面倒そうな顔に戻っている。
ただ、それでも少しだけ、こちらの見え方は変わったはずだ。
ナタリアはポンタと一緒に石樽亭へ向かいながら、手の中の札を軽く指でなぞった。
重さは同じ。
でも、置かれる場所は変わった。
「これで少しは、軽い依頼票の前で迷わなくて済むわね」
そう言うと、足元からポンタが答える。
「主はどうせまた面倒な方へ行く」
「そうかしら」
「そうじゃ」
「否定しないのね」
「事実は事実じゃ」
ナタリアは小さく笑い、石樽亭の灯りが見え始めた道をそのまま歩いた。




