第27話 学園の外で
その依頼票を見た時、ナタリアは眉ひとつ動かさなかった。
紙の上に並ぶ文面は、いかにもギルド向けに整えられている。
学園訓練林外縁の安全確認。
学園外周の荷道および林道の状況確認。
学園関係者が日常的に使用する道における小型魔物の処理。
どれも、冒険者へ回す依頼としてはおかしくない。
しかも中へ入って何かをする話ではない。あくまで外。学園の警備や運営そのものに触れるのではなく、その周辺の“学院の人間が普通に使っている動線”を整える仕事だ。
つまり、妥当だった。
「中へ入ってどうこうって話じゃねえ」
バルドが、依頼票を挟んだ指先を軽く動かしながら言う。
「外周の安全確認だ」
「訓練林の外れ、荷道、林道。そこに小さいのが出てる」
「学院内の警備がやるには半端で、放っとくには面倒。そういうやつだ」
「分かったわ」
ナタリアは依頼票を受け取る。
紙の感触はいつもと同じなのに、手の中へ収まった瞬間だけ少し重く感じた。だがそれも一瞬だった。重いからといって、依頼の性質が変わるわけではない。
足元でポンタが鼻を鳴らす。
「学園とな」
「そうね」
「主の前の棲み処か」
「棲み処って言い方はやめなさい」
「違うのか」
「違わない部分があるのが腹立つの」
横でミリアがわずかに口元を緩めた。
もう彼女は、ポンタが喋ること自体では止まらない。これも慣れだろう。
「案内役として、学院側から下男一名と侍女一名がつくそうです」
「そう」
「学園正門ではなく、外周の荷道側で合流とのことです」
「分かったわ」
ミリアは依頼票の控えを綴じながら、少しだけ声を落とした。
「……気まずければ、別の方に回しますか」
ナタリアはそこでようやくミリアを見た。
その問いはただの事務ではなく、彼女なりの配慮だった。
「気まずいでしょうね」
「はい」
「でも、依頼は依頼よ」
ナタリアはそれだけ言って、票を軽く折る。
「中へ戻るわけじゃないもの」
「外で片づける仕事なら、外で片づければいいわ」
ミリアは小さく頷いた。
「承知しました」
ギルドを出る時、レオナやガレスの姿はなかった。
最近では誰かがいつもいるような気もしていたが、そう毎回都合よく揃うものでもない。むしろいない方が、この依頼には向いている気がした。
今日はたぶん、誰かに囲まれて進むより、一度ちゃんと一人でそこへ向かった方がいい。
王都の朝は少し曇っていた。
光が白く拡散していて、石畳の輪郭も普段よりぼやけて見える。人の流れはいつも通りだったが、ナタリアの足は自然と学園へ向かう道を選んでいた。
体が覚えている、というのはこういうことなのだろう。
どの通りを抜けると荷道へ出やすいか。
どの分岐を取れば裏の林道が短いか。
使い走りの下男が急ぐ時の近道がどれで、侍女たちが泥を避ける時に選ぶ道がどれか。
そういうことが、考えるまでもなく順番に出てくる。
「主はやはり、よく知っておるの」
足元から声がする。
「知ってるわよ」
「懐かしいか」
「さあ」
ナタリアは少しだけ視線を遠くへやった。
「懐かしい、とは少し違うかも」
「前の職場の近くへ来た感じね」
「職場」
「そういうものだったわ」
ポンタはそれ以上は言わなかった。
たぶん、分からないなりに飲み込んだのだろう。
フェンリルにとって、学園という場所が“前の職場”になる理屈はよく分からないはずだ。だがナタリアにとってはしっくりくる。侯爵令嬢として、王子妃候補として、成績上位者として、あそこは確かに“勤め先”に近い場所だった。役割があり、配置があり、期待があり、失点も評価もあったのだから。
学園本体が遠目に見えてくる頃には、雲は少し薄くなっていた。
高い外壁。正門近くに立つ衛兵の影。だがナタリアが向かうのはそこではない。荷道側、裏の林に近い方だ。
合流場所へ着くと、二人の人影がすでに待っていた。
一人は、学院付きの侍女。
二十代半ば、背筋の綺麗な女で、以前ナタリアへ卒業扱いの文書を届けに来たこともある。
もう一人は年嵩の下男。荷運びや雑務の中心にいるような、骨太で無口そうな男だった。
侍女の方が先にナタリアへ気づいた。
そして、ごくわずかに、目が揺れた。
「ナタリア様……」
その呼びかけは、以前より少し小さかった。
懐かしさと、驚きと、躊躇いが一度に混じった声だった。
「久しぶりね」
ナタリアは、できるだけいつも通りの声音で言う。
「案内、お願いできるかしら」
その一言で、侍女ははっとしたように背筋を伸ばした。
泣きそうになる前に役割を思い出した顔だ。
「は、はい」
「もちろんです」
下男もすぐに帽子へ手をやった。
「ご案内します」
「ありがとう」
ナタリアはそれ以上は踏み込まない。
いまは再会そのものを処理する時間ではなく、依頼の時間だ。向こうにとっても、その方が助かるのは分かっている。
ポンタが静かに鼻を鳴らす。
侍女はその音に気づいて視線を落とし、灰銀の小さな獣と目が合った瞬間にまた少しだけ止まった。
「……その子が」
「ええ」
「噂の」
「噂になってるの?」
ナタリアが半分呆れた声で返すと、侍女は少し困ったように微笑んだ。
「完全に、ではありません」
「ですが……あの、皆さま少しずつ」
「そう」
それ以上を聞く前に、下男が荷道の方を指した。
「まずこちらを」
「今朝方も、箱の角が齧られておりまして」
仕事に戻るのは早い方がいい。
ナタリアは頷いて足を動かした。
学園外周の荷道は、見慣れたはずなのに少しだけ印象が違った。
崩れているわけではない。荒れ果ててもいない。だが、細部に小さな綻びが残っている。
道脇の草が少しだけ伸びすぎている。
枝払いが半端で、荷車の側面に擦れた跡が増えている。
注意札の一枚が斜めを向いて、直されないまま風に鳴っている。
「……そういう感じなのね」
ナタリアがぽつりと呟くと、侍女が少しだけ顔を伏せた。
「申し訳ございません」
「謝る話ではないわ」
侍女は少し間を置いてから、ためらいがちに口を開いた。
「皆、少し落ち着かなくて……」
「何事もないように動いてはいるのですが、前より声をかけづらくて」
「以前なら、誰かがすぐ拾っていた小さな乱れが、そのまま残ることが増えました」
ナタリアは立ち止まり、曲がった注意札を見た。
こういうものは、誰かが“ついで”で直してしまう時期がある。誰に言われなくても、気づいた者が手を伸ばす。そういう連鎖が弱くなると、場は崩れないまま息苦しくなっていく。
「そう」
返した声は平坦だった。
「なら、余計に自分の手元を崩さないことね」
侍女が顔を上げる。
「え……」
「皆が落ち着かない時ほど、自分の手元だけは丁寧に」
「それしかないでしょう」
侍女は、何かを飲み込むみたいに小さく頷いた。
「……はい」
下男は一歩前に出て、荷道脇の荒れを指した。
「こちらから先で足跡が増えています」
「人のではなく、小さい獣のものです」
「見せて」
そこから先は、完全に仕事だった。
土の上に残る爪痕。
荷箱の木片。
齧られた縄。
草の倒れ方。
獣道になりかけた筋。
小型だ。
ただし一匹ではない。
しかも、通り抜けるだけではなく、ここを“安全な道”と認識し始めている。
「右の藪、浅い」
ポンタが低く言う。
「二つ、通っておる」
「林道側へ抜けておるの」
「分かったわ」
ナタリアはフォルティウスへ手をかける。
喋る従魔を初めて見る下男は少しだけ目を見開いたが、もう声は上げない。驚くより先に、役に立つかどうかを見る顔になっている。そこが学院の実務側らしかった。
荷道から林道へ回る。
木々が少し密になり、足元の土も柔らかい。使う人間が限られる道ほど、手入れの差が出る。こちらも完全に荒れてはいない。けれど、以前より少しだけ“誰も先に触らない場所”になっていた。
枝の高さがまばら。
踏み固めるはずの箇所がやや浮いている。
小さな石が脇へ寄せられないまま残っている。
「前なら、もう少し綺麗だった?」
ナタリアが訊くと、下男が短く答えた。
「はい」
それだけで十分だった。
「右下」
ポンタの声と同時に、ナタリアは足を止めた。
茂みの根元。土の色が少しだけ違う。潜っている。
「案内はそこで止まりなさい」
侍女と下男へ言う。
二人はすぐに従った。
小型は強くない。
だが、散ると面倒だ。
ナタリアは半身で茂みに入り、まず一匹を踏みつけるように押さえ込み、そのまま喉を切る。跳ねようとした二匹目が横へ逃げる前に枝を蹴って進路を切り、返す刃で落とした。
小さい。
速い。
でも慌てなければ十分間に合う。
「そっちは空」
ポンタが少し先を見たまま言う。
「なら訓練林外縁へ回るわ」
その言い方に、侍女がほんの少しだけ息を呑む。
いまのナタリアは、学園側の人間へ指示を出す時も、かつての“お姉様”の言葉ではなく、現場の責任者みたいな調子で話す。だが不思議と強圧ではない。必要なことだけが通る声だ。
訓練林の外れは、学園本体よりもずっと静かだった。
遠くで木剣の打ち合う音がかすかに聞こえる。訓練そのものはいつも通りに回っているのだろう。だが林の手前に立つ空気は、やはりどこか細く張っていた。
外周の注意柵は一部がずれている。
見習い用の簡易標識が半分傾き、土の盛り直しも甘い。
人が全く手を入れていないわけではない。ただ、“最後の一押し”が足りない感じがする。
「ここもね」
ナタリアが小さく言う。
「はい」
侍女の返事は苦かった。
「皆、手を止めているつもりはないのですが……」
「分かってるわ」
責めるつもりはない。
こういう空気は、怠けからではなく萎縮から来ることが多い。誰も失敗したくなくて、結果として誰も先に手を伸ばさなくなる。そういう崩れ方は、前世でも見た。
「下じゃ」
ポンタが林の端へ鼻先を向ける。
「木の根の裏に一つ」
「その奥、薄いのがもう一つ」
「逃げ道は?」
「左へ切る」
ナタリアはすぐに角度を変えた。
こういうのは、言葉が短いほど助かる。
林の縁から飛び出してきたのは、角の小さな獣型だった。
角ウサギの系統に近いが、毛色が土に溶ける。たしかに訓練帰りの下級生が通る場所へ出るには、少し嫌な相手だ。
ナタリアは一歩で間合いへ入り、先に逃げ道の側へ体を置く。突進ではなく横跳びで逃げるタイプ。なら先に“抜け”を潰せばいい。
一体。
返す刃で二体目。
木の根の奥に残っていた小さい影がさらに奥へ行こうとして、ポンタの低い唸りにびくりと止まる。
そこへフォルティウスの切っ先だけが伸びた。
静かになった林の外れで、侍女と下男はしばらく言葉を失っていた。
強さに驚いているというより、“外で働いているナタリア”をようやく実感した顔だ。
「これで当面は大丈夫」
ナタリアが剣を納めながら言う。
「ただ、柵と標識は今日中に直しなさい」
「小さい乱れほど、次を呼ぶから」
下男が深く頭を下げた。
「承知しました」
侍女も続く。
「すぐに」
そこまで言った時、遠くで人の走る音がした。
細い足音。
複数。
仕事の気配ではない。
ナタリアは振り向かずに、半歩だけ位置をずらした。
侍女が気づいてそちらを見る。
次の瞬間、林道の向こうから制服姿の少女たちが現れた。
男爵令嬢。
伯爵家の三女。
図書室でよく重い本を抱えていた子。礼法の時に視線の置き場が分からず固まっていた子。名前も顔も、すぐに出てくる程度には見知っている面々だった。
皆、息を切らしている。
でも近づき切る直前で、揃って少しだけ足を止めた。
いま目の前にいるナタリアは、学院の廊下で立っていたナタリアではない。
家紋入りの剣を帯びた冒険者で、しかも喋る従魔を連れて、外で普通に仕事を終えた顔をしている。
近いのに、前より少し遠く見える。
そういう止まり方だった。
その中の一人、小柄な男爵令嬢が、勇気を振り絞るみたいに声を出す。
「ナタリアお姉様……!」
その呼び方が、風に乗ってまっすぐ届いた。
ナタリアはそこで初めて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「そんなに走ってきたの」
それが最初の言葉だった。
少女たちはそれで少しだけ息の仕方を思い出したように見えた。
伯爵家の三女が涙を堪えながら言う。
「お、お姉様が来ていると聞いて……」
「本当に、外に……」
「外で働いてるわよ」
ナタリアは淡々と返す。
「見れば分かるでしょう」
それで何人かが泣きそうな顔のまま、少しだけ笑う。
前と同じだ。怖いのに、そこで場が少し整う。
「前より皆、少し静かなんです」
別の下級生が、いきなり本音を落とした。
言ってしまってから、自分で驚いたような顔になる。
「上の方ほど、何もなかったみたいにしているのに……余計に息が詰まるんです」
「お姉様がいた時は、怖いのに、変な固まり方はしなかったんです」
その言葉に、侍女がわずかに目を伏せる。
下男も顔を動かさなかった。否定できないのだろう。
「今は、誰もはっきり言わないまま気を遣っていて……」
「何をどう怖がればいいのか曖昧で、ずっと変に張っていて……」
かなりよく見ている。
ナタリアはそう思った。
若い子は、分からないふりをしている大人よりずっと正確に空気を拾うことがある。
「そう」
ナタリアは短く受ける。
「私がいないから回らない、では困るでしょう」
少女たちは息を止めたみたいに聞いている。
そこで怒鳴らない。慰めもしすぎない。その加減がナタリアだ。
「あなたたちが少しずつ慣れなさい」
「自分たちの場所は、自分たちで少しずつ整えるの」
「誰かが毎回拾ってくれると思っていたら、ずっとそのままよ」
男爵令嬢が唇を引き結ぶ。
それから、こくりと頷いた。
「……はい」
「そんな顔をしないの」
ナタリアは続けた。
「別に死ぬわけではないでしょう」
「私は元気よ」
「あなたたちはちゃんとやってる?」
問われて、少女たちは一瞬だけ視線を揺らした。
それから、何人かがはっきりと頷く。
「はい」
「まだ、ちゃんと……全部ではないですけど」
「全部でなくていいわ」
「崩れないこと」
そこで足元のポンタが、いかにも偉そうに口を挟んだ。
「主は忙しい」
「用が済んだなら手短にせよ」
下級生たちが一斉に目を丸くする。
ああ、そうだった、こいつは普通に喋るのだ。ここへ来るまでそれがだいぶ日常になりかけていたから、一瞬忘れかけていた。
「……しゃ、喋る」
「従魔よ」
ナタリアが平然と言う。
「いちいち偉そうなの」
「事実を言うておるだけじゃ」
そのやり取りに、少女たちの間へ少しだけ笑いが戻った。
張り詰めていた糸が一段緩む。
その緩みは大事だ。
伯爵家の三女が、少しだけ勇気を出して訊いた。
「その……お姉様は、これからも外で……」
「ええ」
ナタリアは迷わず答える。
「私は外でやってる」
「あなたたちはあなたたちの場所で、ちゃんとしてなさい」
その言葉は命令ではなく、配置の確認みたいに聞こえた。
少女たちは深く頷く。
泣きそうな顔のままでも、前より少しだけ立ち方が整っている。
侍女がそこで、小さく頭を下げた。
「本日はありがとうございました」
「礼は依頼へ」
ナタリアは視線を荷道の方へ向ける。
「標識は今日中に」
「林道の枝払いも半端にしないで」
「はい」
下男も短く応える。
「承知しました」
これでいい。
感傷で終えるより、最後に仕事へ戻す方が、この場には合っている。
少女たちへ向き直る。
何か一言、最後の言葉を待っている顔だった。
ナタリアは少しだけ考えてから、言った。
「みっともなく負けないこと」
それだけ。
でも、十分だった。
何人かが泣きそうに目を潤ませ、それでもちゃんと頭を上げたまま頷く。
前へ向こうとする顔だ。
ナタリアはそれを見て、もうそれ以上は言わなかった。
踵を返し、林道を戻る。
ポンタが当然のようについてくる。
後ろではまだ少女たちの気配が残っていたが、追ってはこない。
少し歩いてから、ポンタが横で言った。
「主は、やはり主じゃの」
「何それ」
「よう分からぬが、あの小さいのらには効くの」
「小さいのって言わないの」
「小さいではないか」
「サイズの話じゃないのよ」
そう言い返しながら、ナタリアは一度だけ振り返りそうになって、やめた。
もう十分だ。
見せるものは見せた。
学園の中へ戻ったわけではない。
ただ、外で立っている姿を一度見せただけ。
それで足りる。
ギルドへ帰る道は、来た時より少しだけ軽かった。
依頼としても綺麗に片づいたし、それ以外の部分も思ったほど悪くなかった。悪かったのは、むしろ学園の空気の方だ。
完全に壊れているわけではない。
だが、誰かが毎日どこかで拾っていた小さな綻びが、そのまま残るようになっている。
侍女の言う通りだった。
下級生の言葉も正しかった。
ちゃんと怖がれていた時期の方が、場はまだ回る。いまは皆、何をどう恐れればいいのか曖昧なまま、上を見て気を遣っている。そういう空気は、静かで、面倒で、長引く。
「嫌な職場ね」
ぽつりと漏らすと、ポンタが鼻を鳴らした。
「主もなかなか嫌なことを言う」
「本当でしょう」
「そうではある」
「否定しないのね」
「事実は事実じゃ」
ギルドへ戻ると、ミリアがすぐに気づいた。
「お帰りなさいませ」
「戻ったわ」
「学園外縁の件、どうでしたか」
ナタリアは票と簡単な報告紙を差し出す。
「小型は処理済み」
「荷道と林道の乱れも確認した」
「標識と枝払いのやり直しを学院側へ伝えてある」
「ありがとうございます」
ミリアはそれを受け取りながら、ナタリアの顔を一瞬だけ見た。
何か読み取ろうとするような目だ。
だが問いは深くしない。
「……少し、お疲れですか」
「そうでもないわ」
「そうですか」
「ただ、思ったより空気が悪かっただけ」
それだけ言うと、ミリアは少しだけ目を伏せた。
学院で何があったか、細部までは知らなくても、空気が悪いという言葉の重さくらいは分かるのだろう。
バルドは奥から顔だけ上げた。
「中へ入ったか」
「いいえ」
「なら十分だ」
「ええ」
その簡潔さがありがたい。
石樽亭へ戻る頃には、雲はすっかり薄くなっていた。
夕方の光が少しだけ暖かく、外壁の白を柔らかく見せている。
扉を開けると、孫娘がすぐに飛び出してくる。
「ぽんた!」
「戻ったぞ」
「きょうもしゃべった!」
「もうそこは驚かぬのか」
「うれしい!」
女将が奥から顔を出した。
「どうだったんだい」
「仕事は片づいたわ」
「そうかい」
「学園の空気は少し悪かった」
女将はそこで少しだけ表情を引き締めた。
「そういうもんかね」
「そういうものみたい」
それ以上は広げない。
石樽亭は学園の評定場ではないのだ。ここで必要以上に言葉を積んでも、良くはならない。
二階へ上がり、部屋へ入る。
椅子へ腰を下ろすと、ポンタは寝台の足元へ先に陣取った。
「今日はずいぶん静かだったわね、貴方」
「主が話す相手が多かったからの」
「気を遣ったの?」
「多少は」
その答えに、ナタリアは少しだけ眉を上げた。
「意外ね」
「妾とて空気は読む」
「読むのね」
「主ほど細かくはないが」
「今日もそれ言う?」
「言う」
疲れているのに、少しだけ笑ってしまう。
学園の空気は重かった。
でも、会いに来た下級生たちの顔は、最初より少しだけましになっていた気がする。侍女の背筋も、別れる時には再会の瞬間よりずっとまっすぐだった。
それで十分だろう。
「戻るつもりはないの」
何となく口にすると、ポンタが目を細めた。
「戻りたいのか」
「いいえ」
即答だった。
迷いはない。
「ただ、近くへ行っただけでいろいろ見えるものね」
「主は見すぎる」
「職業病よ」
「便利な言い回しじゃ」
「本当だもの」
灯りを少し落とす。
石樽亭の夜の音が、階下からやわらかく上がってくる。皿の触れ合う音、女将の声、孫娘の笑い声。学園とは違う。あそこほど整っていないし、洗練もされていない。けれど、息はしやすい。
「今日は外でやってるところを見せた、って感じかしらね」
独り言みたいにそう言うと、ポンタが鼻を鳴らした。
「主はもう外の顔じゃ」
「そうね」
それでいい。
学園の中で立つ顔は終わった。
いまは外で立つ。
ただ、それだけのことだ。
ナタリアは椅子へ背を預け、目を閉じた。
明日もまた依頼はあるだろう。
排水か、路地か、荷道か、あるいはもう少し重い何かか。
その中に、たぶん今日の学園の空気も少しだけ混ざって残る。だが、それは残ったままでいい。処理しきれないものを無理に片づけようとすると、かえって長引くこともある。
「みっともなく負けないこと、ね」
自分で言った言葉を、少し遅れて自分の中で転がす。
寝台の足元から、小さな声が返った。
「主もじゃ」
「ええ」
ナタリアはそれだけ返して、静かに息を吐いた。




