第26話 喋る従魔は連れ回される
翌朝、石樽亭の一階では、もう誰もポンタが喋ること自体には大きく驚かなくなっていた。
もちろん、完全に慣れたわけではない。孫娘は相変わらず「ぽんたしゃべる!」と朝から嬉しそうだし、下働きの少年も何かにつけてちらちら見てくる。女将は女将で、鍋をかき回しながら時々こちらを振り返る。だが昨日のような、空気そのものが止まる感じはもうない。
人は慣れる。
それが良いことか悪いことかは別として、早いのだ。
ナタリアは席に着き、黒パンをちぎりながら足元へ視線を落とした。ポンタは椅子の脚の間で丸くなっていたが、昨日までよりも堂々として見える。従魔登録を済ませたことで、本人の中でも遠慮を削る理由が一つ減ったのだろう。
「今日は午前に少し重いの、午後はいつものよ」
そう言うと、ポンタは顔を上げた。
「妾は荷物ではないぞ」
「知ってるわよ」
「では、ついでのように言うでない」
「ついでじゃないわ。最初から戦力勘定に入れてるもの」
それを聞いて、ポンタは少しだけ得意そうな顔をした。
単純なのか面倒なのか、まだ判定がつきかねる。
孫娘が机の端から身を乗り出してくる。
「ぽんた、きょうもおしごと?」
「そうじゃ」
「ぽんた、えらい!」
「妾は元より偉い」
下働きの少年が吹き出しかけて、慌てて咳払いをした。
女将は鍋の前で眉をひそめたまま、それでも少しだけ口元を緩める。
「本当に大きく出るねえ」
「事実を述べておるだけじゃ」
「その辺がもう面倒くさいのよ」
ナタリアがスープを飲みながら切ると、ポンタは不服そうに鼻を鳴らした。
「主もだいぶ細かい」
「社会が細かいの」
「まだ言うか」
「何度でも言うわ」
朝食の湯気の向こうで、女将がくすりと笑う。
こういうやり取りが、もう石樽亭の朝へ馴染み始めているのが少し可笑しい。
食事を終えて立ち上がると、ポンタも当然のようについてきた。
見送る孫娘が小さく手を振る。
「ぽんた、がんばってね!」
「主が頑張るのじゃ」
「貴方も働くのよ」
「妾は必要な時にだけ働く」
「便利な言い方ね」
石樽亭を出て、王都の通りへ出る。朝の光はまだ高くなりきっておらず、石畳の反射も柔らかい。露店の準備、荷車の音、遠くの鐘。昨日と変わらないはずの街なのに、足元に喋るフェンリルが一頭ついただけで、こっちの見え方が少し変わるのだから不思議なものだ。
ポンタは今日も仔犬サイズのままだった。歩き方は相変わらず静かで、気配だけがすべるようについてくる。
「本来の姿には、まだ戻らないの?」
何となく訊くと、ポンタは視線だけこちらへ向けた。
「今はまだ戻り切っておらぬ」
「やっぱりそうなのね」
「昨日のあれでも、だいぶ無理をした方じゃ」
「猪を弾いた時の?」
「うむ」
「一瞬なら押し出せる。だが、あれ以上はまだ無理じゃ」
その言い方は、少し悔しさを含んでいた。
高位獣としての矜持があるのだろう。
だが、今はそれでいい。いきなり本来の姿へ戻られても、こちらの仕事が変わりすぎる。いま必要なのは、喋る大火力ではなく、仕事の精度を少し上げる同行者だ。
「十分図々しいわよ、いまでも」
「主にだけは言われたくない」
「私が何を図々しくしたの」
「妾を拾い、そのまま連れ歩いておる」
「拾ったものを責任持って見てるだけでしょう」
「それを図々しいと言うのではないか」
「言わないわよ」
言い合いながらギルドへ着く。
扉を開けると、朝のざわめきがいつものように流れていた。
受付のミリアはもう、ポンタが喋ることそのものでは止まらなくなっている。そこが強い。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはよう、ミリア」
ポンタが当然のように続ける。
ミリアは一瞬だけ目を細めたが、昨日ほどではない。
「おはようございます、ポンタ」
「うむ」
そのやり取りを聞いていた近くの冒険者が、肩を震わせながら仲間の肘をつついた。
まだ完全には日常になっていない。だが、昨日の衝撃一辺倒とも違う。面白がり半分、驚き半分。そんな空気だ。
ミリアが依頼票を一枚引き抜く。
「午前は少し面倒なDが一件あります」
「聞かせて」
「王都北西外れ、使われなくなった倉庫跡に小型魔物の住み着きが確認されています」
「強くはないですが、暗所、床下、壁裏への潜り込みが多く、前に入った二組とも取り逃がしています」
「なるほど」
ただ倒すだけでは終わらない類だ。
ポンタの気配感知がいる前提で振られたのがよく分かる。
奥からバルドが出てくる。
顔を見ればだいたい、話の続きを自分で持つつもりだと分かる。
「数は多くねえ」
「だが散る。潜る。見落とすとまた戻る」
「それで私に」
「それがいるなら、お前の方が早いだろ」
ナタリアは足元を見る。
ポンタは鼻を鳴らした。
「犬のように使うでない」
「使えるものは使う」
バルドが先に返した。
「喋るだの何だのは好きにしろ」
「だが、気配拾いができるなら、それ込みで仕事を振る」
「合理的ね」
「それで食ってるからな」
ナタリアも異論はない。
登録した時点で、こういう使われ方は想定の範囲内だ。
「午後は?」
と聞くと、ミリアが別の札を二枚出した。
「排水確認のEが一件、路地裏の小型害獣確認のFが一件」
「いつものですね」
「ええ」
バルドが鼻で笑う。
「どうせ午前で終えても回るんだろ」
「そのつもり」
「ならそのまま連れてけ」
ポンタがすぐに口を挟む。
「妾は荷車ではないぞ」
「知ってるわ」
「なら“そのまま連れてけ”は雑じゃろう」
「言ってるのは私じゃないもの」
「お前も似たようなもんだ」
ガレスが柱から言う。
こいつはこういう時だけ声の出し方が軽い。
「最近は普通について歩いてるだろ、それ」
「普通について歩いてるわね」
「妾は主に付き従っておるだけじゃ」
「言い方だけ立派だな」
レオナは今日は見当たらなかった。
少しだけ探してみたが、いないものはいない。毎回いるわけではない方が自然だろう。
依頼票を受け取り、ナタリアはそのまま北西外れの倉庫跡へ向かった。
道中、ポンタは珍しくあまり喋らなかった。
気配を拾う側へ意識を切っているのかもしれない。こちらとしても、話し相手が常にいる必要はない。こういう静けさの方が、仕事前にはむしろありがたい。
倉庫跡は、王都の外れでもさらに外れた、荷道から少しずれた場所にあった。使われなくなって長いらしい。扉は半ば朽ち、壁板は湿気で黒ずみ、裏手には雑草が腰の高さまで伸びている。
昼の光が差していても、中は暗い。屋根の継ぎ目から細い光が落ちるだけで、床下や奥の仕切りは気配を隠しやすいだろう。
「嫌な感じね」
ナタリアがそう言うと、ポンタは鼻先を少し上げた。
「臭う」
「何が」
「小さいのが幾つか」
「血と糞と、巣の湿りじゃな」
かなり助かる。
視界に入る前に位置が絞れるなら、動き方が変わる。
ナタリアはフォルティウスへ手をかけながら、入口の立ち方を変えた。
真正面から入ると、奥と左右と床下の全部へ気を割くことになる。まず切るべきは逃げ道だ。
「左奥に抜ける穴がある?」
「あるの」
「小さいが、二つ」
「床下は?」
「浅い。潜るには足りる」
「それなら、先に右から潰す」
「良かろう」
返事だけ聞くと、対等な相手と仕事しているみたいで少し可笑しい。
だが、実際その通りなのだから仕方がない。
中へ入る。
空気が変わる。埃、獣臭、古い湿気。足元の板が軋み、壁裏で何かが動く微かな擦れが走った。
ナタリアはすぐに剣を抜かない。
まず目を慣らす。
光。
影。
逃げ道。
そして、ポンタが見ている方向。
「右下」
ポンタが低く言う。
ナタリアはそこへためらわず足を入れる。
板の隙間から飛び出した小型魔物の頭を、そのまま踏みつけて床へ押し戻し、フォルティウスの切っ先だけで喉を裂いた。鳴く暇も与えない。こういうのは騒がせた方が面倒になる。
続けて左奥。
壁板の裏からもう一体。
これは速い。だが速いだけなら読める。
切る。
返す刃でさらにもう一体。
小型は脆いが、散ると面倒だ。だから散る前に落とす。
床下で動く気配があった。
ナタリアはそこへフォルティウスを突き込まず、先に出口側へ回る。潜った先で待てばいい。予想通り、小型の影が左の穴へ逃げようと飛び出し、そのまま首を落とされた。
「思ったより賢くないわね」
「小賢しいだけじゃ」
ポンタの言い方が妙に的確で、少しだけ笑いそうになる。
だがまだ終わっていない。
奥の半地下から、もう一段強い気配。
数ではなく質。
小型のまとめ役か、少し大きめの個体だろう。
「下」
ポンタが言う。
「聞こえてる」
ナタリアは足場の板をずらし、半地下へ下りる段差を見つけた。
暗い。
湿っている。
こういう場所で慌てると転ぶ。転べば終わる。
だから速く動く時ほど、芯は遅く置く。
半地下へ一歩踏み込んだ瞬間、影が飛び出した。
小型より一回り大きい。牙も長い。
だが力押しではなく、暗さを利用して顔を狙ってくるあたりがいやらしい。
「そういうの」
ナタリアは半身で避け、頬を掠めた風圧だけを流す。
そのまま一歩内へ。
切る場所は腹ではない。足。
踏み込みを奪ってから、首。
魔物が転がる。
そこへ二体、小型が遅れて飛び出す。
まとめて切る。
短い。
でも十分。
静かになった。
ポンタが階段の上から鼻を鳴らす。
「もう一つ、奥の箱の裏じゃ」
「まだいるのね」
「しぶといの」
言われた通り、古びた木箱の裏を回ると、最後の一体が丸まるように潜んでいた。
逃げる気配。
だが間に合わない。
ナタリアは箱の縁を蹴って角度を変え、一閃で終わらせた。
血の匂いと、湿った木の匂いが混じる。
倉庫跡としてはかなり綺麗になった。
残りの気配を探るように目を閉じると、ポンタが先に言った。
「もうおらぬ」
「本当に?」
「疑うか」
「確認よ」
数息おいても、新しい気配はない。
ナタリアはようやく剣を鞘へ納めた。
「じゃあ終わりね」
外へ出ると、昼前の光が少し強くなっていた。
依頼票では数の読みにくい住み着きだったが、ポンタがいなければたぶん二度手間になっていた。見落とした小型がどこかへ散り、また次を呼んだだろう。
「思ったより使えるわね」
何となく言うと、ポンタは当然のように顔を上げた。
「今さらである」
「そこまで言う?」
「妾を何だと思っておった」
「拾ったばかりの面倒」
「まだ言うか」
「何度でも言うわ」
帰り道、ポンタは少しだけ足取りが重く見えた。
やはり本調子ではないのだろう。気配を拾い続けるだけでも負荷はあるらしい。
ナタリアはそれに気づいても抱き上げたりはしない。こいつは抱かれるより、自分で歩く方が機嫌がいい。そういうところだけは、短い付き合いでも分かってきた。
ギルドへ戻ると、ミリアが票を受け取る前にポンタへ一度目をやった。
「どうでしたか」
「確かに早かったわ」
「それがいると違うか」
バルドが横から訊く。
「ええ」
「逃げ道と潜り先が先に絞れる」
「それなら上々だな」
ナタリアはいつものように記録机へ向かう。
今日もまず文書で締める。
倉庫跡住み着き、小型群。半地下一。壁裏二。床下経由三。残存なし。再発の可能性低。
そこへ、別紙で“床下と壁裏を重点確認のこと”と一文を添える。次に誰かが入る時のためだ。
「やっぱり、そういう書き方するのですね」
ミリアが受け取った紙を見て言う。
「次に入る人が楽な方がいいでしょう」
「ええ、それは」
ギルドの実務側には、もうそれが当たり前になりつつある。
ナタリアは強い。
だがそれより先に、仕事の締め方が雑ではない。
そういう認識が先に積まれているのは、悪くない。
軽く昼を取り、そのまま午後へ入る。
いつものEとFだ。
排水確認。
路地裏の小型害獣確認。
派手さはない。
だが、こういう依頼の積み上げが今のナタリアの土台になっている。
排水の管理人は、ナタリアの顔を見るなり手を振った。
「今日はそっちも一緒か」
「ええ」
「喋るってのは本当なんだな」
「本当じゃ」
ポンタがすぐ答える。
管理人の顔が少しだけ引きつり、それから諦めたように笑った。
「慣れねえな、まだ」
「そのうち慣れるわ」
「そうかねえ」
「慣れぬなら慣れぬでよい」
「お前は気楽だな」
こういうやり取りが、そのまま広がっていくのだろうと思った。
王都じゅうへ一気に轟くような話ではない。
だが、排水、倉庫、路地、墓地。毎日使う場所に近い人間ほど、先に知る。最近のナタリアは喋る獣をひとつ足して仕事を回している、と。
路地裏の害獣確認では、ポンタの存在がさらに分かりやすく役立った。
臭いの薄い方へ先に行き、床下の隙間を見て、ナタリアへ鼻先で示す。
それだけで探す手間が半分近く減る。
「……そこ?」
「そこじゃ」
「本当に?」
「何度言わせる」
「確認よ」
「主は細かい」
「仕事だから」
路地の世話役の女が、そのやり取りを見ながら呆れたように笑った。
「最近は、あんた一人じゃなくなったんだねえ」
「そうね」
「その子、役に立つのかい」
「使えるわ」
「妾は元より使える」
「自分で言うところがまた面倒なんだよ」
世話役の女はそう言いながらも、嫌そうではなかった。
むしろ納得している顔だ。
仕事の結果が見えれば、人は案外、変なことにも順応する。
EもFも回り終える頃には、日はだいぶ傾いていた。
午前のD。
午後のEとF。
件数としてはそれほど多くない。だが、ポンタを説明しながらの一日だった昨日よりは、ずっと仕事らしい疲れだ。
ギルドへ戻ると、ガレスが入口近くでこちらを見た。
「今日は普通に連れ回したな」
「ええ」
「どうだった」
「使えたわ」
「本人がいちばん喜びそうな言い方だな」
ポンタは当然みたいに胸を張る。
「妾は元より使える」
「だからそこなんだよ」
ガレスは呆れたように鼻を鳴らした。
だが、その視線は少しだけ和らいでいる。昨日の“喋る高位獣”という扱いから、今日はもう“ナタリアのところの変な従魔”くらいへ下りてきていた。
バルドは奥の机から一度だけ顔を上げた。
「午前、手間取ったか」
「いいえ」
「思ったより早かった」
「ならいい」
それだけ。
だが仕事としては十分な会話だ。
石樽亭へ戻る帰り道、ポンタは今日は少しだけ大人しかった。
気配を拾い続ける午前の依頼が効いたのかもしれない。
「疲れた?」
何となく訊くと、ポンタは少し間を置いてから答えた。
「多少の」
「そう」
「主も疲れておる」
「ええ」
「なら互いに休めばよい」
「そうね」
こういう、妙に真っ当なことを言う時があるから油断ならない。
石樽亭へ戻ると、女将が湯気の向こうからこちらを見た。
「今日はずいぶん遅かったね」
「午前に重いのを一つ、午後にいつものを二つ」
「それでその子もずっと一緒かい」
「ええ」
「役に立ったか」
「立ったぞ」
ポンタが先に答え、女将が笑う。
「あんたに聞いてないんだよ」
「結果は同じじゃ」
「それはそうだけどねえ」
ナタリアはそのやり取りを聞き流しながら二階へ上がった。
部屋へ入って、椅子へ腰を下ろす。
ポンタは寝台の足元へ跳び上がり、丸くなる。
「最近は、貴方がついてるのも仕事のうちね」
何となくそう言うと、ポンタは薄く目を開けた。
「今さらじゃ」
「そうね」
「主も、だいぶ慣れた」
「ええ。貴方も、ずいぶん最初からいたみたいな顔をする」
「最初からおる」
「そういう意味じゃないの」
灯りを少し落とす。
昼間のざわめきが、もう遠い。
午前のDで、ポンタがいると確かに早いと分かった。午後のEとFで、それを連れて回るのがもう少しずつ日常へ入り始めていると分かった。
大げさな変化ではない。
だが確実だ。
ポンタがついたことは、まだ王都じゅうへ轟いているわけではない。
それでも、排水、路地、倉庫、そういう毎日使う場所の近くにいる人間ほど、もう先に知り始めている。最近のナタリアは、喋る獣をひとつ足して仕事を回している、と。
「静かに広がる方が、私には合ってるかもね」
独り言めいてそうこぼすと、ポンタが鼻を鳴らした。
「主は派手に騒がれるのを好まぬからの」
「よく分かってるじゃない」
「主のことならな」
その返しがあまりにも自然で、ナタリアは少しだけ肩の力を抜いた。
「そう」
答えてから、靴を脱ぎ、背を預ける。
明日もたぶん、仕事はある。
ポンタもついてくる。
それでいいのだろう。
部屋の中は静かだった。
階下の笑い声、皿の触れ合う音、外を通る荷車の鈍い響き。
その全部の中に、喋るフェンリルが一頭増えただけで、日常は思ったほど壊れない。少しずつ形を変えるだけだ。
「本当に、退屈しないわね」
そう呟くと、寝台の足元から小さな声が返る。
「今さらじゃ」
その答えが妙にしっくり来て、ナタリアは目を閉じた。




