第25話 従魔登録はお静かに
翌朝、石樽亭の一階は、いつもよりほんの少しだけ騒がしかった。
理由は分かっている。
女将が鍋をかき回しながら眉間に皺を寄せ、下働きの少年が何度もこちらを見ては視線を逸らし、孫娘だけが意味も分からずに楽しそうだからだ。
その中心にいるのは、灰銀の小さな獣だった。
「ぽんた、きょうもいっしょ?」
孫娘が机の端から身を乗り出して訊く。
そして、昨日までなら耳を動かすだけで済ませていたそれが、今朝はごく当たり前みたいに答えた。
「そうじゃ」
一瞬、空気が止まった。
木匙が鍋の縁へ当たる音だけがやけに大きく響いて、それから女将がゆっくりとこちらを見る。下働きの少年は桶を抱えたまま口を半分開け、孫娘はただ目を輝かせた。
「ぽんた、しゃべった!」
「聞こえたよ」
女将の返事は、平静を保とうと努力している声だった。
だが、完全には保てていない。
ポンタは悪びれもせず、前足を揃えて座ったまま鼻を鳴らす。
「昨日から喋っておる」
「そういう話じゃないんだよ」
女将が思わずつっこむ。
その気持ちはよく分かる。昨日の山裾では、喋ったことより片付けが先だった。こちらも向こうも、それどころではなかった。だが今朝の石樽亭は違う。鍋があって、パンがあって、孫娘がいて、その中で仔犬めいたものが普通に喋れば、そりゃ止まる。
ナタリアは額を指先で押さえた。
「……やっぱり、先にギルドへ話した方が早いわね」
そう言うと、女将がすぐに頷いた。
「それがいいね」
「そうでしょうね」
「そういうのは、隠してどうにかなる類じゃない」
「ええ」
ポンタはそこで不満そうに目を細めた。
「別に隠す必要もなかろうに」
「主にとってはあるの」
「主はいつも面倒を増やす方へ先回りするの」
「お前が言う?」
返しながら席につく。
今朝の朝食はいつも通り、黒パンと野菜の入ったスープ、それに塩をきかせた卵だった。いつも通りの皿が出てくるだけで少し気が楽になる。日常の器は偉大だ。中身が喋るフェンリルになっても、朝食まで変わられたら困る。
孫娘はもう、完全に“喋るぽんた”を受け入れているらしい。
「ぽんた、なにたべる?」
「妾は今は要らぬ」
「いまはってなに?」
「今は今じゃ」
「それへ理屈をつけようとしても無駄だよ」
女将がぼやく。
下働きの少年は慎重に距離を取っているが、興味は丸見えだった。
「なあ……本当にあれ、フェンリルなのか?」
「本人はそう言ってる」
「本人って」
「本人でしょう」
「そういう問題じゃなくて」
ポンタがそこでちらりと少年を見る。
青い目が静かに向けられただけなのに、少年は反射的に背筋を伸ばした。威圧したわけではない。だが、格の違うものに見られた時の体の反応みたいなものが先に出たのだろう。
「疑うなら、主と共に見に来ればよい」
「行かねえよ!」
「そうか」
あっさり引くあたりが少し腹立たしい。
ナタリアはパンをちぎりながら、女将へ向けて言った。
「帰りは少し遅くなるかもしれないわ」
「今日は登録だろう?」
「そのつもり」
「なら、湯はまた多めにしておくよ」
「助かる」
孫娘が椅子へよじ登る。
「とうろくってなに?」
「ぽんたを、ちゃんと面倒の中へ入れる話よ」
「めんどうなの?」
「面倒じゃ」
本人が堂々と認めるので、ナタリアはスープを飲みながら少しだけ笑いそうになった。
食事を終え、ポンタを連れて石樽亭を出る。
朝の王都はすでに仕事の匂いがしていた。石畳を洗った水、焼き立てのパン、荷馬車の軋み、店を開ける音。その中をポンタは前より自然な顔で歩く。昨日までの“喋るのを隠している感”が薄い。たぶん本人の中で、隠す意味がだいぶ減ったのだろう。
「堂々としてるわね」
「今さら縮こまる理由もなかろう」
「私にはあるのよ」
「主は細かい」
「社会っていうのはだいたい細かいものでできてるの」
「面倒じゃのう」
「その面倒の中で生きてるのよ、皆」
歩きながらそう返すと、ポンタは少しだけ不思議そうな顔をした。
フェンリルとやらにとって、社会はきっとそんなに細かくないのだろう。こちらは人間だ。しかも今の立場は侯爵令嬢上がりのFだかDだかの冒険者で、ギルドの窓口を通る以上、細かい話からは逃げられない。
ギルドへ入ると、やはり朝のざわめきがあった。
討伐票を見に来た者、夜勤明けで酒を飲んでいる者、朝から剣を手入れしている者。そこへナタリアが入るだけでも多少の視線は集まる。さらに今日は、足元に灰銀の仔犬めいたものがいて、そのうえその仔犬が妙に堂々としている。
受付のミリアが顔を上げた。
「おはようございます」
「おはよう」
「本日はどの依頼を――」
「その前に少し話があるそうじゃ」
ポンタが普通に言った。
受付前の空気が止まる。
誰かが椅子を引く音までぴたりと切れて、そのあとで妙に薄いざわめきだけが広がった。
ミリアが目を瞬かせる。
横で掲示板を見ていたレオナが、半分だけ振り返った姿勢のまま止まる。
柱にもたれていたガレスは、ゆっくりと片眉を上げた。
「……今、喋った?」
レオナの問いは、驚いていないわけではないが、驚きに呑まれてもいない声だった。
ナタリアは一つ息をつく。
「ええ。説明が必要になったの」
「かなり必要そうね」
レオナが依頼票を手にしたまま近づいてくる。
ガレスはもう笑いを堪えてもいない。
「やっぱり犬じゃなかったか」
「ええ、たぶんその辺の犬ではなかったわね」
「たぶんじゃ済まねえだろ、この段階だと」
ミリアはそこで一度だけ深呼吸をした。
それから受付嬢の顔へきっちり戻る。こういうところ、本当に強い。
「順にお願いします」
「ええ」
「まず、その子……その、獣について」
「ポンタよ」
「ポンタですね」
「不服じゃ」
「自分で反応したでしょう」
ナタリアが即座に切る。
ミリアの口元が少しだけ引きつった。笑うのを我慢した顔だ。
レオナも露骨ではないが、ほんのわずかに口元を緩める。
「昨夜、少し話したの」
ナタリアはそこで本題へ入る。
「本人の申告では、フェンリル」
「山裾の依頼で喋ったわ」
「それから、どうも主従契約がすでに噛んでいたらしい」
「すでに?」
ミリアが訊く。
「私が毒を抜いて、魔力の乱れを整えた時点で、向こう側では成立していたそうよ」
「主が覚えておらぬだけだ」
ポンタが横から偉そうに補足する。
「妾は毒に沈み、流れまで崩れておった」
「主はそれを拾い上げ、毒を抜き、魔を整え、命を繋いだ」
「あれで結ばれぬ方が珍しい」
受付前の沈黙が一段重くなる。
誰かが小さく「フェンリル……?」と呟いた。
そこにガレスがすぐ重ねる。
「お前、ほんと面倒の質が変なんだよ」
「いま言われても」
「言うだろ、そりゃ」
レオナがナタリアとポンタを交互に見た。
「依頼を探しに来ただけだったのだけれど」
「ずいぶん面白い場面に当たったわね」
「私もそう思ってるわ」
ミリアは二人のやり取りを短く見たあと、奥の方へ視線を飛ばした。
「バルドさん、少しよろしいですか」
声をかけられたバルドが、奥の机から立ち上がる。
いつもの仏頂面のままこちらへ来たが、ポンタを見て足が一瞬だけ止まった。
「……本当に喋るのか」
「喋るとも」
ポンタが胸を張る。
仔犬サイズのくせに胸を張るなと思ったが、バルドはそこには突っ込まなかった。
「喋る獣って時点で、もう普通の従魔じゃねえな」
「私もそう思うわ」
「思うで済ませるな」
そう言いながらも、バルドの視線はすでに実務へ切り替わっていた。
「で、契約は本当に噛んでるのか」
「本人はそう言ってる」
「本人じゃなく、確認だ」
「でしょうね」
ナタリアが頷くと、ミリアはもう必要な書類を引き寄せていた。
ギルドのこういうところは助かる。騒ぎが起きても、ある程度のところで事務へ戻る。
「簡易確認をします」
「そのようなものまであるのか」
ポンタが少し嫌そうな顔をする。
「あります」
ミリアはきっぱり言った。
「主従の確認、高位獣の登録、危険性判断。全部未確認のまま同行させる方が困りますので」
「理屈は通るのう」
「通ります」
「主の方は細かいが、そなたらも大概じゃの」
「仕事ですので」
そのやり取りに、レオナが横で笑うのを堪えきれなかったらしい。
肩を少しだけ揺らす。
「退屈しないわね、あなた」
「ええ、ほんとに」
確認は奥の小部屋で行われた。
大仰な儀式ではない。ギルド内の簡易確認具を使った、あくまで業務の延長だ。木の板に埋め込まれた薄い魔石、契約の流れを見るための細い銀糸、応答と命令を確認するための手順。そんなものが揃っていた。
バルドが椅子に腰掛け、ミリアが記録の紙を持つ。
ガレスは壁際で腕を組み、レオナは扉近くに寄りかかる。
ナタリアは中央。
ポンタは机の上に上がろうとして、ナタリアに目で止められ、少し不服そうに床へ座った。
「まず、主従接続を見ます」
ミリアが淡々と言う。
銀糸の一端をナタリアの指先へ、もう一端をポンタの額へ触れさせる。
薄い光がひと筋走る。途中で途切れず、むしろ思ったより濃く結ばれた。
「……強いですね」
「そうなの?」
「はい」
「思った以上に」
バルドが眉を寄せる。
「高位獣側が納得して噛んでる流れだな」
「当たり前じゃ」
ポンタが言う。
言うたびに周囲が少しずつ慣れていくのが分かる。
それでもまだ十分おかしいのだが、異常も数を重ねると日常の顔をし始める。
「次、命令反応」
バルドがポンタを見る。
「座れ」
ポンタは動かない。
青い目でじっと見返すだけだ。
「だそうよ」
ナタリアが言うと、ポンタは尻尾を一度だけ揺らしてから、すとんと綺麗に座った。
部屋の中に、何とも言えない沈黙が落ちた。
分かりやすすぎる。
ガレスが先に吹き出す。
「分かりやすすぎんだろ」
レオナも今度は隠さず笑った。
「そこはちゃんと従うのね」
「主命じゃからの」
「偉そうに言うところなの、それ」
ナタリアは額を押さえた。
だが、確認としてはこれ以上なく明快だった。
ミリアが記録へさらさらと書き込む。
「主命反応、明確」
「高位獣側の自我保持あり」
「従属一辺倒ではなく、自立型ですね」
「何よその分類」
「あります」
「何でもあるのね」
「こういう時のためにです」
理屈としてはその通りだ。
その通りだが、なんだか少し負けた気分になる。
最後に危険性の確認が入る。
他者への攻撃意思。
無差別性の有無。
ナタリアがいない場合の行動傾向。
質問は実務的で、ポンタの答えはちょっと偉そうだった。
「無闇に人は噛まぬ」
「喰う必要があれば別じゃが」
「別にしないで」
ナタリアが即座に切る。
ミリアの筆が止まる。
「……それは、登録上かなり困ります」
「冗談じゃ」
ポンタがしれっと言う。
ガレスが壁に頭をぶつけそうな勢いで笑いを堪えた。
「冗談に聞こえねえんだよ」
「そうか」
「そうだよ」
バルドはそこでようやく椅子へ深く座り直した。
「まあいい」
「噛みつくならもう昨日のうちにやってる」
「ナタリアにも他所にも、いまのところ管理は効いてる」
「でしょうね」
ナタリアが頷く。
「じゃあ、確認は終わり?」
「終わりだ」
「なら依頼を――」
「……いや」
ミリアが紙を見ながら、少しだけ眉を寄せた。
「このままでは駄目ですね」
「何が?」
「登録が要ります」
ナタリアは一拍遅れて目を瞬かせた。
「そうなるの?」
「なります」
ミリアはきっぱりしている。
「高位獣、会話可能、同行常態化、主従契約成立済み」
「この条件なら未登録のままは無理です」
「妾は構わぬ」
ポンタが言う。
「貴方はそうでしょうね」
「主も困らぬ」
「私は少し困ってるの」
「細かい」
「社会が細かいのよ」
またそれか、という顔をポンタがする。
ガレスはもう腕を組んだまま笑っていたし、レオナは依頼票を脇へ置いて完全に見物側に回っていた。
「では、従魔登録へ移ります」
ミリアが言い、書類を一枚引き抜く。
「従魔名を」
そこだけ、ナタリアは少し黙った。
ポンタも少しだけ嫌そうな顔をする。
だが、ここで凝った名前を出してももう遅い。
「ポンタで」
即答だった。
「……それで通すのか」
ポンタが低く言う。
「自分で反応したでしょう」
「それは――」
「反応したでしょう」
言い切られて、ポンタは黙る。
ミリアの肩が小さく揺れた。
吹きそうになっている。
ガレスは壁へ顔を背けて肩を震わせていた。
レオナも口元を押さえている。
「従魔名、ポンタ」
ミリアが何とか平静を取り戻して書き込む。
文字になった瞬間、それがもう確定した感じがして妙に可笑しい。
手続きそのものは早かった。
契約確認が済んでいる分、書類仕事は一気に進む。
主登録の追記。
従魔種別の暫定分類。
危険度備考。
発話能力あり。
同行時注意事項。
そのあたりを一つずつ埋めていく。
書き終えたミリアが顔を上げた。
「これで登録完了です」
「早いわね」
「確認の方が大変なので」
「主よ、これで妾も正式というわけか」
「そういうことになるわね」
「最初からそうでよいのに」
「最初から喋らないで」
ポンタは鼻を鳴らした。
不満げだが、完全に納得していないわけでもないらしい。
バルドが腕を組んだまま言う。
「これで、こいつを連れて歩くならギルド側でも把握できる」
「喋るのも、高位獣なのも、全部含めてな」
「助かるわ」
「助かるのはこっちだ」
「黙って連れ歩かれる方が面倒だ」
「それはそう」
「本当に面倒の質が変なんだよ」
ガレスのぼやきに、ナタリアは肩をすくめるしかなかった。
レオナがそこでようやく依頼票を持ち直す。
「依頼を探しに来ただけだったのだけれど」
「ずいぶん面白い場面に当たったわね」
「私もそう思ってるわ」
「あなた、本当に退屈しない女ね」
「望んでるわけではないのだけれど」
「そういうところも含めてよ」
ポンタが横から口を挟む。
「主は面倒を呼ぶ質じゃな」
「貴方にだけは言われたくないわ」
「同じことを思った」
レオナが笑う。
その笑いが軽くて、部屋の空気もようやく少し緩んだ。
手続きが終わり、小部屋を出る。
外のざわめきは戻っていたが、完全に元通りではなかった。喋る高位獣の登録など、そりゃ少しは広まる。だがそれでいい。もう隠す段階ではない。
ポンタは、さっきまでよりずっと自然な顔でナタリアの隣を歩いていた。
まるで登録一つで居場所が一段増えたみたいな顔だ。
「登録した途端、ずいぶん堂々とするのね」
ナタリアが言うと、ポンタはすまし顔で答えた。
「隠す理由が減っただけじゃ」
「その言い方はちょっと格好つけすぎよ」
「事実であろう」
「主従揃って面倒くせえな」
ガレスが横から言う。
レオナがすぐに続けた。
「でも、これであなたも少し楽になるんじゃない?」
「説明を毎回しなくて済むもの」
「それはそうね」
「妾も楽じゃ」
「貴方は最初からだいぶ楽そうだったけど」
「細かい」
「本当にそればっかりね」
ギルドを出る時、ミリアが窓口から声をかけてきた。
「次の依頼は午後でも間に合いますよ」
「今日はもういいわ」
「そうですか」
「今日はこれでだいぶ仕事をしたもの」
実際その通りだった。
依頼を一つも受けていないのに、朝からかなり神経を使っている。従魔登録が手続き一つで終わると思ったら大間違いだ。
石樽亭へ戻る道すがら、ポンタはもう普通に喋っていた。
人通りの少ない路地へ入ったところで、当たり前みたいに訊いてくる。
「主、次はどこへ行く」
「今日はどこにも行かないわ」
「休むのか」
「ええ」
「妾も休む」
「どうぞ」
このやり取りがもう成立していることに、少し遅れて可笑しさがくる。
昨日までは仔犬だったのに。
いや、昨日も仔犬ではなかったのだが、こっちの認識が追いつく速度には限界がある。
石樽亭の扉を開けると、女将がすぐにこちらを見た。
その視線は最初にポンタへ行き、それからナタリアへ戻る。
「どうだったんだい」
「登録されたわ」
「登録」
「従魔として」
女将はゆっくり頷いた。
「そういうことになるのか」
「そういうことになった」
孫娘が奥から駆けてくる。
「ぽんた!」
「戻ったぞ」
「やっぱりしゃべる!」
「昨日から喋っておる」
「そういう問題じゃないんだよ、この子も」
女将のつっこみがずいぶん自然になってきていて、ナタリアは少しだけ目を細めた。
「登録した途端、ずいぶん堂々とするのね」
改めてそう言うと、ポンタは尻尾をゆるく振った。
「隠す理由が減っただけじゃ」
女将が呆れたように笑う。
「この子、ずいぶん達者だねえ」
「ええ」
「主が細かいからの」
「お前、本当にそれ好きね」
下働きの少年が厨房の端から顔を出した。
「なあ、今後ずっとその調子なのか?」
「たぶんな」
ポンタが答え、少年が少しだけ後ずさる。
だが完全には逃げない。好奇心が勝っている。
「慣れれば大丈夫よ」
ナタリアが言うと、女将が乾いた笑いを漏らした。
「その“慣れれば”が一番怖いんだよ」
それはそうかもしれない。
だがもう日常へ入った以上、こちらもやっていくしかない。
部屋へ戻り、ナタリアは椅子へ腰を下ろした。
ポンタは布の上ではなく、最初から寝台の足元へ跳び乗る。
完全に自分の場所を把握している動きだ。
「登録したわね」
何となくそう言うと、ポンタは目を細めた。
「したの」
「それで?」
「それで、とは」
「何か変わったの」
「妾の立場が少し明るみに出ただけじゃ」
「主従契約済みの喋るフェンリルが、それを“少し”で済ませるのね」
「主の方が大げさじゃ」
「社会が細かいのよ」
「まだ言うか」
「何度でも言うわ」
そうやって言い合っているうちに、今日一日の騒がしさが少しずつ体から抜けていく。
依頼もない。
戦いもない。
ただ喋るフェンリルの登録をしただけで、なぜこんなに疲れるのかと思うが、疲れたものは仕方がない。
ポンタは寝台の端で丸くなりながら、薄く目を開けてこちらを見た。
「主」
「何」
「今日は、よう働いた」
「貴方に言われると妙な感じね」
「事実じゃ」
ナタリアは少しだけ肩の力を抜いた。
「そうね」
認めるしかない。
今日は剣を振るっていない。
血も見ていない。
それでも十分、よく働いた一日だった。
「明日は静かだといいのだけれど」
「主よ」
「何」
「それは期待しすぎじゃ」
返ってきたその一言があまりにも自然で、ナタリアはとうとう小さく笑った。
「そうかもね」
石樽亭の夜は、階下の音を薄く残したまま静かに更けていく。
昨日までなら、喋らない仔犬が足元にいただけだった。
今日はもう違う。
登録済み。
喋る。
主従。
しかもポンタ。
「本当に、退屈しないわね」
誰にともなくそう呟くと、寝台の上でポンタが鼻を鳴らした。
否定ではない。
たぶん、同意だ。




