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断罪された侯爵令嬢は、戦場で完成した。なお中身はおっさんである  作者: 月白ふゆ


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第24話 山裾の猪とポンタ

 翌朝、石樽亭の部屋には、昨日までとは違う静けさがあった。


 朝は朝でいつものように賑やかだ。階下では女将が鍋を鳴らし、下働きの少年が桶を運び、孫娘が起きて早々に何かをこぼして叱られている。石樽亭そのものは、何ひとつ変わっていない。けれど、部屋の中の空気だけは少し違った。


 寝台脇に敷いた布の上で、灰銀の小さな獣がこちらを見ている。


 ポンタはもう、完全に命の危険を抜けていた。呼吸は深く、毛並みの荒れも昨日より落ち着いている。目の色も濁りが引き、やたらと青い。犬だと言い張るには、日に日に苦しくなっていく顔だ。


 ナタリアは髪をまとめながら、その青い目としばらく見つめ合った。


「今日は少し外へ出るわ」


 そう言っても、ポンタは慌てるでもなく、ただ耳をぴくりと動かしただけだった。最近はこの反応にも慣れてきた。意味が分かっているのか、分かっていないのか、その境目が妙に曖昧なのだ。人の言葉の輪郭だけでなく、もう一歩奥の意図まで拾っているような顔をする。


「置いていってもいいのだけれど」


 ナタリアがそう続けると、ポンタは今度は少しだけ首を持ち上げた。

 それを見て、ナタリアは小さく息を吐く。


「……今日はついてくる?」


 問いかけは半分冗談だった。

 だがポンタは、その瞬間に当然のような顔をした。鳴きもしない。ただ、“最初からそうだが?”と言いたげにこちらを見る。


 ナタリアはそこで口元をわずかに歪めた。


「勝手な子ね」


 そう言って頭をくしゃりと撫でる。雑な手つきなのに、ポンタは嫌がらない。むしろ撫でられると少し目を細めるようになっていた。


 一階へ下りると、女将が鍋の前からこちらを見た。


「今日はその子も一緒かい」


「そうなりそうね」


「犬じゃないのに、犬みたいなことするねえ」


「ええ、本当に」


 答えながら席へ着く。朝食はいつも通り、黒パンと野菜の入った薄いスープに塩気のある卵。働く前の胃には、このくらいがちょうどいい。


 孫娘は、ポンタが階段を下りてきた時点でもう落ち着かなかったらしい。椅子の陰から飛び出してきて、声をひそめる努力だけはしながら言う。


「ぽんた、どこいくの」


「仕事よ」


「ぽんたも?」


「今日はそう」


 それを聞いた孫娘は、明らかに悔しそうな顔をした。


「わたしがみるのに」


「昨日は見たでしょう」


「きのうはきのう!」


 女将が苦笑し、下働きの少年は桶を持ったまま肩をすくめる。


「本当に連れてくんだ」


「様子を見るのも込みよ」


「犬連れで依頼ってありなのか」


「犬じゃないもの」


「その返し、だいぶ怖いんだけど」


 ナタリアは気にせずスープを飲んだ。

 ポンタは椅子の足元で静かに丸くなる。人の多い一階へ下りてきても落ち着いている。その時点で普通の仔犬ではないのだが、いまさらそこに驚いても仕方がない。


 食事を終え、ナタリアが立ち上がると、ポンタも同じように立った。


「行くわよ」


 そう声をかけると、ポンタは当たり前のようについてくる。

 孫娘が名残惜しそうに手を振った。


「ぽんた、ちゃんとかえるんだよ」


 それに返事はない。

 ただ、階段を降りる足取りだけは少しだけしっかりしていた。


 王都の朝はすでに動き始めていた。露店の準備、荷車の音、通りを掃く水の気配。人の多い時間帯へ差しかかる前の、まだ少しだけ余白のある王都だ。


 ナタリアは足元をついてくるポンタを時々見下ろしながら、ギルドへ向かった。

 途中で気づいたのは、ポンタの足音が妙に静かなことだった。仔犬サイズなら、もっとぱたぱたと落ち着きのない音がしてもよさそうなのに、こいつは不思議なくらい地面を乱さない。歩くというより、気配だけがついてくるような感じだ。


「本当に、何なのかしらね」


 小さく呟くと、ポンタは聞こえているくせに知らん顔をした。


 ギルドへ入った瞬間、いつものざわめきがほんの少しだけ変わった。


 ナタリアに視線が集まるのは、もう珍しいことではない。

 長身で、豊満で、顔立ちも目立つ。そこへ最近は仕事の中身までついてきた。だから顔を見られること自体は、もう仕方がないと割り切っている。


 だが今日は、その視線がナタリア本人だけではなく、足元のポンタにも流れた。


「……犬連れか?」


「仔犬かと思ったが、色が変だな」


「おい、あれ本当に犬か?」


 聞こえている。

 だが、いちいち反応するような内容ではない。


 受付のミリアが顔を上げ、ポンタを見てからナタリアへ視線を戻した。


「……今日は連れていくんですね」


「置いていくより静かだったわ」


 ミリアは少しだけ困った顔をしたあと、仕事の顔へ戻る。


「本日の依頼票です」


 差し出された札を受け取る。

 山裾の畑地帯近く、猪系魔物の処理。

 ただし一頭討伐で終わる類の紙ではない。被害の場所が広い。畑荒らしだけでなく、通り道ができている。しかも周辺に小型の痕跡あり、と小さく追記が入っていた。


「少し重いDですね」


 ミリアが言う。


「猪だけ落として帰ると、たぶん後でまた呼ばれます」


「でしょうね」


 ナタリアは票を軽く折る。


「場所は?」


「北寄りの山裾です。村人の案内が途中までつきます」

「あと、これは……余談ですが」


 ミリアがポンタへもう一度目をやる。


「その子、受付で待たせる選択肢はなかったんですか」


「なかったわね」


「そうですか」


 横で柱にもたれていたガレスが鼻で笑った。


「今度は連れ歩くのか」


「様子見も兼ねてるの」


「本当に犬か、それ」


「さあ」


「その“さあ”の時は、だいたい犬じゃねえんだよな」


「鋭いわね」


 ガレスはあきれたように肩をすくめたが、それ以上は言わなかった。ポンタはそんな会話にもいっさい反応せず、ただ床の匂いを軽く嗅いでいた。


 ギルドを出て、村人の案内と合流し、山裾へ向かう。

 案内役の若い男は、最初こそナタリアよりポンタの方を気にしていたが、歩き出してすぐにそうも言っていられなくなったらしい。


「畑を荒らしたのは三度目です」

「最初はただの猪かと思ったんですが、足跡がどうもでかくて」

「山から降りてくる道も広がってて……」


「他の小型は?」


「います。穴掘りみたいなのとか、変な蜘蛛とか」

「俺らじゃ近づけなくて」


 話を聞きながら、ナタリアの頭の中ではもう別の線が走っていた。

 猪本体。

 降り道。

 周辺小型。

 畑の被害。

 村への抜け。


 猪を一頭落として終わり、ではない。

 見に行けばたぶん、寄り場になっている。そういう依頼票の書かれ方だった。


 山裾の空気は、王都よりずっと土が濃かった。

 踏み荒らされた草。

 掘り返された土。

 押し倒された背の低い柵。

 村人が指した先を見ただけで、だいたいの流れが読める。


「……思ったより悪いわね」


 ナタリアがそう言うと、案内役の男は顔をこわばらせた。


「やっぱりですか」


「ええ」

「一頭だけなら、もう少し局所的よ」

「これは通り道になってる」


 足元のポンタがそこで急に止まった。


 ナタリアも反射的に足を止める。

 ポンタは山の斜面、その少し右の茂みをじっと見ていた。耳が立っている。尻尾は上げない。だが、そこだと指すような目をしている。


 鳴かず、ただじっとその一点を見ていた。

 それだけで十分だった。


「……いるのね」


 小さく呟き、ナタリアは剣帯へ手をやる。


 案内役の男が不安そうに訊く。


「何か……」


「下がっていなさい」

「見えてる範囲からも外れて」


「は、はい」


 短い指示だったが、それで足りる。

 男はすぐに後ろへ下がった。


 ナタリアはフォルティウスの柄を握る。

 家紋入り。母の剣。父が見た上で渡した剣。

 手に馴染む。昨日受け取ったばかりなのに、もうずっと持っていたみたいに納まるのが少し腹立たしい。


「行くわよ」


 誰にともなく言って一歩踏み出した、その瞬間。


 茂みの奥から、低い唸りと一緒に猪が飛び出した。


 大きい。

 普通の野生獣の範囲ではない。肩の張りも牙の長さも、一段上だ。魔物寄り、とまではいかないが、普通の農民がどうにかできる相手ではない。しかも頭がいい。真正面から来るように見せて、少しだけ角度を切っている。


「そういうのね」


 ナタリアは正面へ立たず、半歩だけ横へずらす。

 真正面から受ける必要はない。大事なのは、村側へ抜かせないこと。突進の向きを切り、横へ流し、その瞬間に止める。


 フォルティウスへ魔力を薄く通す。

 身体強化も浅く。

 足にだけ、反応速度にだけ、剣を置くまでの一拍にだけ。


 猪が迫る。

 土が跳ねる。

 重い。

 だが、重い相手ほど動きは読める。


 一歩。

 半身。

 牙の外。

 首筋ではない。まず肩口を裂いて前足の勢いを落とす。


 刃が入る。

 厚みのあるフォルティウスが、細身の見た目よりずっと重く肉を割いた。

 猪が苦鳴を上げ、突進の角度がぶれる。


「そこで止まりなさい」


 踏み込み直し。

 今度は首元へ浅くではなく深く。

 ただし一撃必殺に拘らない。止めて、崩して、落とす。

 そういう処理の方が結果的に安全だ。


 猪が横へ流れ、土を掻く。

 まだ終わらない。

 体勢を立て直そうとした瞬間、ナタリアは足元の石を踏み、上から刃を落とした。

 今度は雷をほんの一瞬だけ刃に纏わせる。派手な放電ではない。ただ、動きの一拍を奪う程度。


 猪の身体がびくりと揺れる。

 その一瞬で十分だった。


 首筋へ深く。

 血が散る。

 重い身体が傾き、ようやく地へ落ちた。


「……一頭」


 息を吐く。

 だが、まだ終わりではない。


 周辺の気配が残っている。

 小型の寄り。

 何かがまだある。

 そして何より、さっきからポンタの目線が一度も油断していない。


「やっぱりこれだけじゃないわね」


 猪の死体から目を切り、周囲の草と土を見る。

 巣穴らしき掘れ。

 荒れた茂み。

 蜘蛛糸の名残。

 こういう依頼は本命を落としてからが本番だ。次の誰かが困らないところまでやる。それでようやく終わる。


 ナタリアは猪の死体を少しだけずらし、足場を確保した。

 その時だった。


 後ろの気配が、唐突に速く近づく。


 さっきからあった。

 拾ってはいた。

 だが前の猪を優先した。

 処理順としては正しい。

 まず本体を落とし、そのあと後ろへ回る。

 そのつもりだった。


 だが、一拍遅かった。


 別個体の猪。

 少し小さいが、それでも十分に危険な大きさ。

 背後から来る。

 ナタリアは気配を拾いながら、なおも前の足場を切ろうとしていた。


 そこで、灰銀の影が動いた。


 一瞬、目がおかしくなったのかと思った。

 ポンタの輪郭がぶれた。

 仔犬サイズだったはずの身体が、ひと呼吸ぶんだけ大きくなる。

 成体ではない。だが仔犬でもない。

 圧が違う。


 次の瞬間、後ろから来た猪が横へ弾き飛ばされていた。


 地面を転がる。

 土と石が散る。

 何が起きたのか、案内役の男は理解できずにただ口を開けていた。


 ナタリアも一瞬だけ動きを止めた。

 止めたのは足だけで、頭の中は冷えている。

 いまのは見間違いではない。

 ポンタがやった。


 静まり返った、その中で。


「主よ、気づいておったのに後回しにするでない」


 声がした。


 少し高く、少し古く、妙に偉そうな女の声だった。


 ナタリアはゆっくりと足元を見た。

 もうポンタの身体は仔犬サイズへ戻っている。

 だが青い目だけが、さっきまでとは決定的に違っていた。


「……喋るのね」


 それが最初の返答だった。


 ポンタは鼻を鳴らした。

 いかにも不満そうに。


 だがナタリアはそこで追及しない。

 猪の二頭目はまだ生きている。

 周辺の小型も残っている。

 優先順位は明確だ。


「でも、まずは片付けが先ね」


 そう言って前へ出る。


 案内役の男は半分腰を抜かしていたが、いま説明してやる義理はない。

 まず仕事を終える。

 話はそのあとだ。


 二頭目はさっきの衝撃でかなり崩れていた。

 なら早い。

 ナタリアは足を切り、首元へ回り、短く落とす。

 残った気配を追うと、思った通り、小型の穴と古い蜘蛛の寄り場が見つかった。


「やっぱりね」


 猪本体だけでは終わらない。

 こういうのが一番面倒だ。


 ポンタはもう喋らない。

 だが完全に普通の仔犬の振る舞いはやめていた。

 危険のある方を見る。

 ナタリアが刃を向ける前に、気配の薄い方へ視線を送る。

 それだけでかなり楽だ。


 小型の穴を潰し、蜘蛛糸の残りを払い、周辺の通り道を切る。

 ついでに畑へ降りる導線も崩しておく。

 ここまでやって、ようやく“終わった”と言える。


 案内役の男は最後まで目を白黒させていた。

 猪二頭より、途中でポンタが喋ったことの方が衝撃だったのだろう。

 それはそうだ。


「あ、あの……」


「帰るわよ」


「え、いや、今の」


「まず依頼を閉じるの」


 ナタリアの声は静かだった。

 だが、それで十分だった。

 男は反射的に口をつぐむ。

 説明は後。

 先に処理。

 その順番が、相手にも伝わる声だった。


 ギルドへ戻る頃には、陽は少し傾いていた。

 今日の依頼は重さのわりに、ずいぶん長く感じた。

 猪二頭。

 周辺掃除。

 そして、喋る仔犬。


 受付へ向かう前に、ナタリアはいつものように記録机へ座る。

 報告書を先に書く。

 ミリアももう止めない。

 だが、今日は紙へ落とす内容と、それ以外の内容の線引きが少し難しかった。


 山裾の畑地帯近く、猪系個体二。

 うち一は票外。

 周辺小型穴、蜘蛛痕、掃除済み。

 村側への導線切断。

 危険当面なし。


 そこまではいい。

 問題はポンタだ。


 書けるわけがない。

 同行の小型獣が一瞬大きくなって二頭目の猪を弾き飛ばし、しかも喋った、などと、そのまま書いて通る相手はまずいない。

 だからそこは書かない。

 今はまだ、自分の中でも整理が先だ。


 報告書を仕上げ、受付へ向かう。

 ミリアが紙を受け取って視線を落とし、それから足元のポンタを見る。


「……今日はずいぶん様子が違いますね」


「そうね」


「何かありましたか」


「いろいろと」


 ミリアはそれ以上は聞かない。

 聞きたい顔はしている。

 だが、いまその顔で止めるのがこの受付嬢のいいところだった。


 横からガレスがちらりと覗く。


「本当に犬か、それ」


「さあ」


「その“さあ”の時は、だいたい犬じゃねえんだよな」


「鋭いわね」


 ガレスは鼻で笑う。


「答えになってねえ」


「その話はあと」


 報告が済み、報酬を受け取り、石樽亭へ戻る。

 女将は扉を開けた瞬間にポンタを見て眉をひそめた。


「何かあったのかい」


「ええ」


「怪我は」


「ないわ。たぶん一番元気」


「たぶんって何だい」


「説明が長くなるの」


 そう言って二階へ上がる。

 今日はさすがに、先に湯を使った。土と血と汗と、何より一日の整理が必要だった。


 夜。

 部屋へ戻ると、ポンタはもう布の上ではなく、寝台の足元寄りに陣取っていた。

 当然の顔だ。

 昼に喋ったくせに、いまはまた黙っている。その辺の切り替えも腹立たしい。


 ナタリアは椅子へ腰を下ろし、しばらくその灰銀の小さな身体を見ていた。

 昼は流した。

 片付けが先だった。

 でも夜は違う。


「……で、何者なの、貴方」


 ようやく本題へ入る。

 ポンタは少しだけ目を細めた。

 その仕草が妙に老成していて、やっぱり腹が立つ。


「遅い」


 そう返ってきた声は、昼と同じだった。

 女の声。

 少し古めかしく、偉そうで、でも不思議と耳障りではない。


「昼は片付けが先だったでしょう」


「そうではあるがの」


「ならいいじゃない」


 ポンタはそこでふっと鼻を鳴らした。


「なんとなく分かっておろう?」


 ナタリアは無言のまま視線を返す。


「フェンリルじゃ。今はこんななりだがの」


 やはり、と思った。

 驚きはない。

 納得の方が先に来る。

 犬ではない。

 魔力が異常。

 大きくもなる。

 喋る。

 なら、その辺の獣であるはずがない。


「やっぱり」


 ナタリアは息を吐いた。


「犬ではないと思っていたけれど、ずいぶん大物を拾ったものね」


「拾ったのではない。妾を助けたのじゃ」


「同じでしょう」


「違う」


 即答だった。

 こういうところだけやけに頑固だ。


「それで?」


 ナタリアは脚を組み、肘掛けに片肘を乗せた。


「何で喋るの、はもう聞かないわ」

「喋るものは喋るのでしょうし」

「聞きたいのは別」


 ポンタの耳がぴくりと動く。


「従魔契約なんて結んだ覚えはないのだけれど」


 その問いに、ポンタはほんの少しだけ胸を張った。


「主が覚えておらぬだけだ」


「いつの話?」


「妾が毒に沈み、魔の流れまで崩れておった時じゃ」

「主は妾を拾い、毒を抜き、魔を整え、命を繋いだ」

「それで結ばれぬ方が珍しい」


 ナタリアはそこで小さく目を細めた。

 なるほど。

 自分にとっては応急処置だった。

 毒を抜き、乱れた循環を整え、死なない程度に魔力を流しただけ。

 だがポンタ側からすると、それが契約成立条件を満たしてしまっていた、ということらしい。


「勝手な契約ね」


「死ぬよりましであろう」


「それは否定しないけれど」


 完全には否定できない。

 あの時放っておけば、こいつはまず死んでいた。

 そして自分は、それを放っておけなかった。


「確認くらい取りなさい」


「瀕死の妾にそんな余裕があるか」


 それもその通りだった。

 ナタリアは少しだけ頭を押さえた。


「面倒なものを拾ったわね、私」


「今さらである」


 その返しが妙に板についていて、ナタリアは少しだけ笑いそうになる。


 そこでふと思い出したように視線を上げた。


「そういえば貴方、雌なのね」


 ポンタはあからさまに呆れた顔をした。


「今さらか」


「今さらよ」

「仔犬みたいだったもの」


「見れば分かろう」


「分からないわよ」


 ポンタはしばらくじっとこちらを見て、それから深く嘆息するみたいに鼻を鳴らした。

 仔犬サイズのくせに、やることだけはいちいち偉そうだ。


 少しの沈黙のあと、ポンタがぼそりと言った。


「……ポンタというのはどうなのだ」


 ナタリアは即座に返す。


「自分で反応したでしょう」


「それは、主がそう呼ぶからじゃ」


「嫌なら嫌がりなさいよ」


「嫌とは言っておらぬ」


「ならいいじゃない」


 ポンタは口を閉じた。

 数拍してから、少しだけ視線を逸らす。


「主が最初に呼んだ名だ」

「なら、構わぬ」


 その言い方が少しだけ素直で、ナタリアはほんのわずかに目を見張った。

 だがそこを広げると、この獣はたぶんすぐにまた面倒くさくなる。


「そう」


 短く返し、それで止める。


 部屋の中は静かだった。

 階下の食器の触れ合う音と、遠くの笑い声だけがかすかに上がってくる。

 その静けさの中で、ナタリアは今日一日の流れをようやく自分の中へ落とし込んだ。


 猪。

 掃除。

 弾き飛ばした一撃。

 主という呼び方。

 フェンリル。

 勝手に成立していた主従契約。


「分かったわ」


 ようやくそう言う。


「勝手に結ばれていた件は、あとで考える」

「でも、少なくとも当面、貴方は私のところにいるのね」


「当然じゃ」


「当然なのね」


「主が嫌だと言うても、今は離れぬ」


「聞いてないわよ、そこまで」


 ポンタはふっと目を細めた。

 笑ったのかもしれない。

 獣の顔でそういうことをされると、少しだけ反応に困る。


「今は、ね」


 ナタリアは小さく息を吐いた。


「じゃあ今は寝なさい、ポンタ」


 そう言って立ち上がる。

 灯りを少し落とす。

 ポンタは布の上へ戻りながら、最後に一度だけこちらを見上げた。


「主も休め」


 その声は昼より少しだけ柔らかかった。


 ナタリアはそこで足を止め、振り返る。


「ええ」


 それだけ返して、寝台へ腰を下ろした。


 面倒なものを拾った。

 けれど、その面倒はもう自分の中で“処理対象”ではなくなっている。

 勝手な契約。

 喋るフェンリル。

 雌。

 しかもポンタ。


「本当に、訳が分からないわね」


 そう呟くと、布の上でポンタが小さく鼻を鳴らした。

 否定ではない。

 たぶん同意なのだろう。


 ナタリアはようやく灯りを落とし、そのまま静かに目を閉じた。

 昼は片付けが先だった。

 夜は話がついた。

 なら今日の仕事はもう終わりだ。


 その整理がついたところで、ようやく肩の力が抜けた。

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