第23話 見せてみろと言ったでしょう
石樽亭の朝は、今日も早かった。
まだ陽がしっかりと上がり切る前から、階下では鍋の蓋が鳴り、桶を運ぶ音がしている。女将の孫娘の甲高い声も、眠気を引きずったままどこかで弾んでいた。あの子は朝から元気だ。人間、若い時分というのはどうしてああも勢いだけで起きられるのかしら、とナタリアは少しだけ呆れながら、部屋の中の空気を入れ替えるために窓を開けた。
冷たい朝気が頬を撫でる。王都の外縁に近いこのあたりは、中心部より少しだけ土の匂いが濃い。石畳と人の熱に塗れた都心より、こちらの方がまだ息がしやすいと感じるのは、もう気のせいではないのだろう。
足元では、灰銀の小さな影が丸くなったまま耳を動かした。
「起こした?」
問いかけると、ポンタは片目だけを開ける。昨日よりさらに目つきがはっきりしていた。青い。犬にしてはやけに青すぎる目だと、見れば見るほど思う。毒も抜け、魔力の乱れもかなり整ってきた。まだ本調子ではないだろうが、少なくとも“今日を越えられるかどうか”という段階はもう過ぎている。
ナタリアは寝台の端へ腰掛け、髪をまとめながら小さく息を吐いた。
「今日は少し長くなるかもしれないわ」
そう言っても、やはりポンタはあの妙に理解したような顔をする。昨日や一昨日と同じだ。ただの仔犬ならもっと素直に尻尾を振るか、反応せずに寝ているかのどちらかだろうに、こいつは何か言いたげな顔でこちらを見る。問い返してくるみたいに。
「ここでおとなしくしていなさい」
今度は鼻先を少しだけ持ち上げた。鳴きはしない。ただ、分かっているのかいないのか判断に困る反応だけを返す。
「分かっているなら結構」
そう言って頭をくしゃりと雑に撫でる。昨日、何となくつけた“ポンタ”という名前も、もうすっかり馴染んでしまった。本人――本獣?――がそれを嫌がる様子もないので、そのままでいいことにしている。いずれこいつが普通の犬ではないともっとはっきりしても、たぶん変えないだろう。もうそういう顔をしている。
一階へ降りると、女将が鍋をかき回しながら振り向いた。
「今日も早いね」
「ええ」
「仕事かい」
「仕事」
それだけで女将は頷く。いちいち内容を聞かない。そこがこの宿のいいところだった。
孫娘が机の陰から這い出してきて、ポンタを見た瞬間にぱっと顔を輝かせた。
「ぽんた!」
呼ばれた当の本人は、やはりちょっとだけ耳を動かしただけだった。だがそれでも、あの子にとっては十分なのだろう。もう自分とポンタは仲良しだと信じ切っている顔をしている。
「今日はわたしがちゃんとみる!」
「ちゃんと、ね」
女将が半ば呆れた声で言う。
「昨日もだいぶちゃんと見てたじゃないか」
「きのうより、もっと!」
胸を張る孫娘へ、ナタリアは朝食の皿を受け取りながら目をやった。黒パン、野菜の入った薄いスープ、塩気のある卵。飾り気はないが、働く前の胃にはちょうどいい。
「お願いしてもいい?」
そう言うと、孫娘は本当に頼まれたのだと分かったらしく、いっそう胸を張った。
「まかせて!」
女将が吹き出す。
「任せて大丈夫かねえ」
「まあ、あなたもいるでしょう」
「そうだねえ」
下働きの少年が桶を運びながら、小声で言った。
「その犬、昨日より目が怖くなってないか」
「犬じゃないわよ、たぶん」
ナタリアが平然と言うと、少年は困ったような顔をした。
「たぶん、って何だよ……」
「まだはっきりは分からないもの」
そう答えながらスープを飲む。嘘は言っていない。犬ではないと思う。だがでは何かと訊かれても、まだ断言はできない。魔力の流れも大きさも、普通の獣ではないところが多い。ただ、いまは石樽亭の部屋で丸くなっていて、子どもに呼ばれると耳を動かす。それで十分だ。
食事を終え、ナタリアが立ち上がると、ポンタも布の上から顔を上げる。
「留守番よ」
またあの顔だ。理解しているのか、ただ見ているだけなのか、判断しづらい表情。けれど嫌だと駄々をこねるでもなく、ついてこようともしない。もし本当に意味が通っているのだとしたら、かなり厄介だ。
石樽亭を出る時、女将が背中へ声を投げた。
「今日は帰りが遅くなるのかい」
「かもしれないわ」
「なら、湯は多めにしておくよ」
「助かる」
その短い返しだけで十分だった。
王都の空気は、朝から少しざわついていた。中心部に近づくほど人が増え、荷車が増え、商売の声も増える。その中を歩きながら、ナタリアは今日の流れを頭の中で切っていた。朝のうちに昨日の残りの確認を一件、昼へかかる前に倉庫街の指名依頼を一件、そのあと排水の確認を一つ。件数自体は多くない。だが今日はそれで終わる気がしていなかった。
ギルドへ入ると、受付のミリアがすぐに気づいた。
視線が合う。
その瞬間、彼女の表情にほんの少しだけ“言いにくいことがある”顔が差した。
「おはようございます」
「おはよう」
「少し、よろしいでしょうか」
「何かしら」
ミリアは周囲を一度だけ見てから、声を少し落とした。
「ヴォルディア侯爵家から使いが来ています」
ナタリアは眉ひとつ動かさなかった。
「そう」
ミリアの方が少しだけ肩透かしを食らった顔をする。
「驚かれないんですね」
「見せろと言われているもの」
「……なるほど」
ミリアはそこで納得したように頷いた。
「使いの方は、当主様が王都入りされているとだけ」
「もしお時間が合うようなら、一度顔を見せてほしいと」
「場所は?」
「こちらへ来られるかもしれないと」
「でも、先に仕事をご覧になる可能性もあるそうです」
「そういう父ですもの」
ミリアは思わずといったように小さく笑った。
ギルドでのナタリアは、驚く時ほど表情が薄い。
いや、本当に驚いていないのかもしれないが。
「では、今日の依頼はそのままで?」
「もちろん」
「分かりました」
ミリアが依頼票を差し出す。
倉庫街の再配置補助。
南側路地の流れ見直し。
いずれもナタリア宛の指名票だ。
ギルドの扉を出たあたりで、少し離れた場所に立っている男へ視線が触れた。
侯爵家の近習。
家の屋敷でも見たことがある顔だ。
相手もこちらに気づいている。
だが声はかけてこない。
つまりそういうことだ。
父はまず仕事を見に来る。
話はそのあと。
いかにもグレゴール・ヴォルディアらしい。
倉庫街は午前から騒がしかった。
荷が入る。荷が出る。人が動く。怒鳴り声は飛ぶが、それは喧嘩ではなく仕事の音だ。その音の中へ入ると、ナタリアの中で自然と何かが整う。学園にいた頃にはなかった感覚だ。いや、正確には前世の記憶が馴染み始めた頃から、ずっとあったのかもしれない。
呼吸。
視線。
荷の向き。
人の流れ。
全部が一つの図面みたいに頭の中へ入る。
「そこ、先に抜いて」
指示を出すと、人足がすぐに動く。
「そっちじゃない。奥の箱から」
「高いのを下ろして、重いのを手前」
「道を一本作るわよ。荷を減らすんじゃなくて、流れを通すの」
乱暴な言葉ではない。
だが無駄がない。
何をどうすればいいか、その場の人間がそのまま理解できる形になっている。
番頭が少し離れた場所からその様子を見て、感心したように息を吐く。
「やっぱり早えな」
「見れば分かるでしょう」
「見て分からん奴が多いんだよ」
その返しに、ナタリアは肩をすくめる。
見て分からないなら教えればいい。
でも、教える時は回る言葉でないと意味がない。
それは前世で散々やってきた。
ふと視界の端に、倉庫街の外れで立ち止まっている人影が入った。
グレゴールだった。
遠目でも分かる。
長身。
無骨に整った立ち姿。
護衛を一人だけ後ろへ置いて、本人は黙ったままこちらを見ている。
近づいてこない。
声もかけない。
ただ、見る。
ナタリアは一瞬だけそちらへ目をやり、それだけで十分だと判断して、すぐ仕事へ戻った。
「それ、寄せすぎ」
「腰で押さないで。肩で」
「高い方から先に空けるわよ」
人足の一人が苦笑する。
「嬢ちゃん、前より容赦ねえな」
「前からよ」
「違いねえ」
番頭がグレゴールの姿に気づいたのは、作業のかなり終盤になってからだったらしい。
ちらりと見て顔色が変わる。
あの手の人間は、相手の身分よりまず圧で分かる。
「あ、あんた……あの方」
「気にしなくていいわ」
「いや、気にしなくていいって」
「荷は先に片づけるの」
「あとで崩れたら嫌でしょう」
その一言で番頭は反射的に仕事へ戻る。
それを、グレゴールは遠くから見ていた。
倉庫街を離れる頃には、父は場所を移していた。
次の現場――南側路地の水流れ確認へ回ると、また少し離れた位置に立っている。
明らかに追っている。
だが、それでいい。
路地は人の生活が詰まっているぶん、戻りが早い。
泥、水、ゴミ、踏み跡、壁の癖。
そこを一本ずつ見ていく。
路地の世話役の女がナタリアを見るなり、手を振った。
「やっぱり来たね」
「指名したのでしょう」
「したよ。昨日の雨でまた流れが変わってさ」
「見れば分かるわ」
実際、少し見れば分かった。
詰まりではない。
角で水が死んでいる。
石が一つだけずれていて、泥がそこへ寄っている。
それを直し、脇の掃き筋を変え、ついでに次に溜まりそうな場所まで先に切る。
「明日の朝が楽なんだよ、あんたが入ると」
世話役の女が言う。
「朝の面倒が減るなら結構」
「結構で済ませる女、あんたぐらいだよ」
そう言われても、返す言葉は特にない。
面倒が減る。
それは十分な成果だ。
仕事が終わり、ギルドへ戻ると、ナタリアはいつものように記録机へ向かった。
もう誰も止めない。
調査依頼や現場確認系は、まず文書で締める。
今日もその流れだ。
紙を引き寄せ、筆を取る。
倉庫街の導線修正。
路地の流れ見直し。
簡潔に。
必要な情報だけ。
次に誰かが見ても分かる形で。
その机のそばまで、グレゴールが初めて歩いてきた。
気配は分かっていた。
だがナタリアは手を止めなかった。
最後の一行を書き終え、筆を置いてからようやく顔を上げる。
「終わったのか」
「まだ提出前よ」
「ならまだだな」
父らしい返答だった。
グレゴールは紙を覗き込みはしない。
ただ、机の上に整えられた報告書と証明部位と依頼票の控えを見て、短く息を吐いた。
「回っているな」
第一声はそれだった。
褒めるでもなく、驚くでもなく、確認の結果をそのまま言葉にしただけの響き。
「見せろと仰ったでしょう」
ナタリアが返すと、父はわずかに顎を引いた。
「口だけではなかったか」
「そちらも、見に来ただけで終わる気はないのでしょう」
「当然だ」
ギルドの喧騒はいつも通りに続いているのに、その机の周辺だけ空気が少し違った。
ミリアもバルドも、距離を取っている。
聞こうと思えば聞こえる。
だが意図的にそうしない。
そのくらいの礼儀はある。
グレゴールは少しだけ視線を外し、さっきの倉庫街を見ていた時と同じ眼差しで言った。
「半端にやるなら止めた」
そこで一拍。
「だが、違った」
それだけだった。
だがそれで十分だった。
ナタリアは返答を急がない。
父も急かさない。
この男は、認める時ほど言葉が少ない。
「使いの者から、街での評判も聞いた」
とグレゴールが続ける。
「持ちが違う」
「戻りが遅い」
「高くてもお前を呼ぶ」
「どれも悪くない」
「悪くない、で済ませるのね」
「足りなければ言う」
それもその通りだ。
グレゴール・ヴォルディアは、情に流されて褒める男ではない。
見る。
測る。
足りるなら足りると言う。
足りないなら足りないと切る。
その単純さが、昔は少し怖かった気もする。いまはむしろ分かりやすい。
父はそのまま、後ろに控えていた近習から細長い包みを受け取った。
そこで初めて、ナタリアの目がわずかに細くなる。
「何?」
「開けろ」
言われた通りに包みを受け取る。
重さでだいたい分かった。
剣だ。
それも、ただの支給品や護身用ではない。
布を解き、鞘を見た瞬間に、ナタリアの指がほんの少しだけ止まった。
家紋。
ヴォルディア家の紋。
見慣れたそれが、鍔元近くに静かに刻まれている。
「……これを?」
鞘から少しだけ抜く。
細身。
だが華奢ではない。
一般的なレイピアよりも厚みがあり、刃幅もある。三センチ前後。上品に見えるくせに、完全に実戦剣だ。
しかも、握っただけで魔力の通りがいいのが分かる。
見覚えがあった。
母が若い頃に使っていた剣。
家の蔵に収められ、今はもう飾りに近い形になっていたはずのもの。
「フォルティウス……」
自然と名が口をつく。
グレゴールが短く言った。
「母さんが持っていけと言っていた」
それが、今日いちばん重い言葉だった。
ナタリアは剣を見たまま、しばらく何も言えなかった。
父が見に来た。
ちゃんとやっているか確認した。
その上で、これを渡す。
つまり最初から持たせる気はなかったのだ。
覚悟だけでは足りない。
口だけでも足りない。
実際にやれていると見たから、ここで初めて渡す。
「……いま?」
「見た」
グレゴールの返事は短い。
「なら渡す」
それだけで十分だった。
ナタリアはゆっくりと息を吐き、フォルティウスをきちんと納め直す。
「半端に持たせる気はなかったのね」
「当たり前だ」
少しだけ、口元が緩みそうになる。
父らしい。
いかにも。
「母様らしいわね」
ぽつりと漏れたその言葉に、グレゴールは一瞬だけ目を細めた。
妻のことを思い出したのだろう。
だが長くは引かない。
「使えるか」
「使えるわ」
「なら持て」
「ええ」
ナタリアはフォルティウスを受け取ったまま、父を正面から見た。
「なら、遠慮なく使うわ」
グレゴールが顎を引く。
それが承認の代わりだった。
「そのまま上がれ」
低く、短く。
「ヴォルディアの名を使うなら、なおさら半端はするな」
「そのつもりよ」
「見せろと言った」
「見せたわ」
「ああ」
そこで会話はほとんど終わっていた。
父娘であっても、べたつかない。
けれど必要なものはきちんと渡る。
それでいい。
グレゴールはそれ以上長居をしなかった。
近習を連れ、来た時と同じように静かにギルドを出ていく。
背中は相変わらず古い戦場の男のものだった。
ナタリアはしばらく、その背を見送った。
追いすがる気はない。
引き止める理由もない。
だが手の中にあるフォルティウスの重みが、父が見たこと、認めたこと、そして母の意思まで全部まとめて伝えてきた。
報告書を提出すると、ミリアがちらりと剣へ目をやった。
「それ、ずいぶん綺麗ですね」
「綺麗なだけではないわ」
「見たら分かります」
ミリアは少しだけ苦笑する。
「空気が違いましたから」
「そう」
「当主様、でしたよね」
「ええ」
「怖かったです」
「そうでしょうね」
バルドも奥から一度だけ視線を寄越した。
剣そのものを見たのか、渡されたという事実を見たのか、その両方か。
何も言わない。
だが言わないことが、この場合はほとんど理解と同じだった。
石樽亭へ戻る頃には、陽がかなり傾いていた。
王都の石畳は昼よりも少しだけ冷えていて、通りの人の顔も仕事終わりのものへ変わり始めている。
扉を開けると、孫娘の声が先に飛んできた。
「おねーたん!」
「何かしら」
「ぽんた、ちゃんとしてた!」
昨日も聞いた気がする報告だ。
だが今日は、その声の向こうにいるポンタの方へ先に目が行った。
部屋へ上がると、ポンタは布の上ではなく、昨日より少しだけ高い位置――寝台の端近くへ移動していた。
自力でそこまで上がったらしい。
やはり回復は早い。
いや、普通の獣として考えるのが間違いなのかもしれないが。
「ただいま」
そう言うと、ポンタは立ち上がり、足元まで来る。
青い目がフォルティウスへ向いた。
ナタリアは部屋の中へ入って扉を閉め、剣を机の上へ置いた。
鞘からゆっくりと抜く。
夕方の光が刃へ細く滑る。
フォルティウス。
母の剣。
父が見た上で渡した剣。
これからは自分が使う剣。
細身のくせに厚い。
優雅な形のくせに、実用品の気配が濃い。
火も、水も、雷も、風も、その気になれば飛ばせるし纏わせられる。
だが普段はそこまで要らない。
剣で足りる場面が多いからだ。
その“足りる”をさらに高い場所へ押し上げるための剣なのだろう。
「見せろと言ったから、見せたわ」
小さく呟く。
誰にともなく。
父へでもあり、自分へでもあり、たぶん少しだけ母へでもある。
その時、足元で気配が動いた。
ポンタだった。
灰銀の小さな身体が、机の脚を回り込むようにして近づいてくる。
ただの好奇心ではない。
慎重な足取りだ。
子どもが珍しい物へ寄る時の無邪気さではなく、何かを確かめに来るような間合い。
ポンタは剣先ではなく、鍔元のあたりへ鼻先を寄せた。
一度。
二度。
静かに、すんすんと匂いを嗅ぐ。
その仕草が妙に真面目で、ナタリアは思わず目を細めた。
「……そこが気になるのね」
ポンタは答えない。
ただもう一度だけ鼻を鳴らす。
それから、納得したように座り込んだ。
まるで最初から知っていたみたいな顔だった。
母の剣であることも、父が渡したことも、これから自分がこれを使うことも。
「あなた、本当に何なの」
問いかけても返事はない。
だが、いつか返る気はしていた。
ナタリアはフォルティウスをゆっくり鞘へ納め、机の端へ置いた。
ポンタはその横からしばらく剣を見上げ、それからようやく安心したように足元へ丸くなる。
重い一日だった。
けれど、悪い重さではない。
仕事を見られた。
認められた。
母の剣を受け取った。
そこまで並べて初めて、ナタリアは少しだけ肩の力を抜いた。
「……今度はこれでやれ、ということね」
灯りを少し落とし、椅子へ腰を下ろす。
足元で、ポンタがまたフォルティウスの方へ鼻を向けた。
そして、もう一度だけ小さく、すん、と匂いを確かめた。




