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断罪された侯爵令嬢は、戦場で完成した。なお中身はおっさんである  作者: 月白ふゆ


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第21話 ポンタ

 翌朝、目を覚ました時には、もうあの子獣の呼吸は安定していた。


 昨夜までは、眠っている間にまた浅くなるのではないかと何度か目が覚めた。毒は抜いた。乱れた魔力の流れも、死なない程度には繋ぎ直した。けれど、あれが普通の犬ではないと分かっているからこそ、どこまで戻れば安全圏なのかが読みにくかったのだ。


 薄い朝の光の中、寝台脇へ置いた布の上で、灰銀の小さな身体が丸くなっている。昨日より胸の上下が深い。耳の先も、ぴくりと小さく動くようになっていた。目も半ばではなく、きちんと開いている。青い。青すぎるくらいに。


 ナタリアは寝台の端へ腰を下ろし、その様子をしばらく黙って見た。


 助かった。少なくとも、いま急に死ぬことはない。


 それが分かったところで、ようやく自分の肩から一段ぶん力が抜ける。大したつもりはないのに、こういうところで無駄に気を張るのは昔から変わらない。現場で怪我人を見つけた後の癖みたいなものだ。大丈夫だと確認するまで、勝手に頭の端が仕事を続ける。


 子獣がこちらを見た。


 ただ見るだけではない。目が合っている、と分かる見方だ。眠たげに瞬いて、それから鼻先を少し持ち上げる。鳴かない。けれどこちらが話しかけるのを待っているような、妙に座りの悪い沈黙がある。


 ナタリアは、髪をまとめる手を止めて少しだけ首を傾げた。


「今日はここでおとなしくできる?」


 半分は確認。半分は冗談だった。

 相手は仔犬めいた何かだ。意味が分かるはずもない。普通なら、尻尾を振るか、分からないまま首を傾げるか、その程度で終わる。


 だが、その子獣は違った。


 耳がぴくりと動き、青い目がほんの少しだけ細くなる。分かったような、分かってないような、でも少なくとも声の向こうの意図を拾おうとしている反応だった。嫌だ、とまでは言わないが、納得していない時の人間の顔に妙に近い。


 ナタリアはそこで動きを止めた。


「……本当に犬じゃないわね」


 そう呟いた瞬間、脳裏の奥から、ずいぶん長く触れていなかった記憶がふっと浮いた。


 まだ藤堂隆幸だった頃、仕事帰りの遅い夜に、玄関先で足にまとわりついてきた雑種犬。拾ったというより、あちらが住みついたに近い。茶色くて、妙に腹だけ白くて、食い意地が張っていて、名前を付けるのも面倒だったから適当に呼んでいた。


 ポン太。


 その記憶が浮いた瞬間、口が勝手に動いた。


「あー……お前、ポンタでいいな」


 言ったあとで、ナタリアはその雑さに自分で少しだけ眉を寄せる。

 令嬢が付ける名ではない。仮にも侯爵令嬢として育てられてきた身で、朝っぱらから子獣へ向かってその呼び方はどうなのかと思わないでもない。だが一度出てしまったものは仕方がない。


 そのまま、子獣の頭をくしゃりと雑に撫でた。


 毛並みはまだ少し荒れている。毒と汚れと消耗で、本来の艶が落ちているのだろう。けれど指先に返ってくる感触は柔らかい。雑に撫でられた子獣は、一瞬だけ耳を伏せた。嫌がるかと思ったが、逃げない。むしろそのまま少しだけ頭を押しつけてくる。


「……それでいいのね」


 ポンタと呼ばれた子獣は、なぜかそこで一度だけ、いかにも当然だと言いたげな顔をした。


 それがまた妙に腹立たしくて、ナタリアは鼻で息を抜く。


「勝手な子ね」


 そう言いながらも、手つきはさっきより少しだけ穏やかだった。


 石樽亭の一階では、いつものように女将が鍋をかき回していた。配膳の少女が皿を並べ、下働きの少年は桶を運んでいる。孫娘だけが机の下から顔を出して、ナタリアと、その後ろからのそりと出てきた小さな灰銀の影を見つけた瞬間、ぱっと目を丸くした。


「わんこ!」


「静かに」


 ナタリアが言うと、孫娘は慌てて自分の口を押さえた。それでも興奮は隠せないらしい。目がまるごと輝いている。


「名前が付いたのかい」


 女将が鍋の蓋を少しずらしながら言う。


「ええ」


「何て?」


 ナタリアは一拍だけ間を置いてから答えた。


「ポンタ」


 女将の手が止まった。

 配膳の少女が、皿を置きかけた姿勢で一瞬止まる。

 下働きの少年は、何か言いたそうな顔でナタリアと子獣を交互に見た。


 そして次の瞬間、女将が吹き出した。


「それはまた、ずいぶん雑な名前を付けたねえ」


「悪かったわね」


「いや、あんたらしくていいよ」


「そうかしら」


「妙に凝った名前をつけるより、よほど似合ってるさ」


 孫娘はもう待ちきれなかったらしい。


「ぽんた!」


 そう呼ばれた子獣――ポンタは、昨日までならぐったりしているしかなかったはずなのに、今日はきちんと顔を上げた。まだ歩きは少し危なっかしいが、それでも前脚を動かし、布の上から一歩、二歩と出る。孫娘の方を見て、また耳を動かした。


「返事した!」


「してないわよ」


「したもん!」


 子どもに言い返しても仕方がない。

 ナタリアは椅子へ腰を下ろし、朝食の皿を引き寄せる。黒パン、野菜スープ、卵。いつも通りだ。だが今日は、そのいつも通りの朝に、一匹増えている。


 女将がちらりとポンタを見てから言った。


「今日は連れてくのかい」


「まさか」


 ナタリアは即答した。


「昨日やっと死なないところまで戻しただけよ。今日連れ回したら本末転倒でしょう」


「そうだろうね」


「ここでおとなしくしていなさい」


 そう言ってポンタへ視線をやると、またあの妙に意味の分かった顔をする。

 不服そうでもあり、渋々でもあり、だが通じているようにも見える。


 下働きの少年が、その様子を見て眉を寄せた。


「やっぱそれ、普通の犬じゃないんじゃ」


「私もそう思ってるわ」


「なのに名前ポンタなんだ……」


「うるさいわね」


 女将は笑い、配膳の少女は口元を押さえて肩を揺らした。孫娘だけは完全に気に入ったらしく、椅子の下で何度も小声で「ぽんた、ぽんた」と呼んでいる。


 食事を終える頃には、ポンタは昨日よりずっとしっかりした目で辺りを見回していた。弱っているのは確かだが、命の危険はもう抜けた。いまはただ、どれだけ素に戻るかの段階だ。


 ナタリアは立ち上がると、ポンタの頭をもう一度くしゃりと撫でた。


「今日は留守番よ」


 また、分かっているような顔をする。

 それが少しだけ可笑しくて、ナタリアはそのまま石樽亭を出た。


 ギルドでは、受付のミリアが、すでに束ねてあった依頼票を机の上へ並べていた。


「今日は指名分、六件です」


 ぱっと見ただけで種類が違う。

 全部F帯だ。だが普通のFではない。依頼主の名前が具体で、付記が付き、何よりナタリア宛だとはっきり分かる書き方をしている。


 ナタリアは票を手に取りながら言った。


「順番は?」


 ミリアが少しだけ笑う。


「そこなんですね」


「六件を見て、感想を述べる方が先だと思った?」


「いえ。思いませんでした」


 そこはもう慣れたらしい。


 ミリアが指先で順に示す。


「北区画排水の再整備確認」

「共同墓地の草刈りと水抜き」

「倉庫街の荷崩れ再配置」

「南路地の泥掃きと排水導線整理」

「居つき小獣の導線整理」

「西外れ用水の小型スライム定着確認」


 ナタリアは票を並べ替えながら頭の中で組む。


「午前で排水、墓地、倉庫」

「午後で路地、小獣、用水」


「その順ですか?」


「排水と水抜きは昼前の方が見やすいでしょう」

「倉庫は人足が揃う時間に行きたい」

「路地と小獣は午後でもいい」

「用水は最後」


 ミリアが感心したように頷いた。


「もう自分で受付の順番まで作れそうですね」


「面倒だからやらないわ」


「そういうところだけ線を引きますよね」


 ガレスが柱から口を挟む。


「六件全部回す気か?」


「そのつもりだけれど」


「Dに上がった翌日にF六件とか、普通なら嫌がるんだがな」


「普通なら、でしょう」


 ナタリアは票をまとめて袋へ入れる。


「これは私宛なのでしょう?」


 ミリアが頷いた。


「はい。最近は、その手の依頼のいくつかがだいたいそうなっています」

「内容は普通のFですけど、ナタリアさんが受ける時だけ、指名料が加算されています」


「私以外なら普通の額」


「はい」


「合理的ね」


 ガレスが鼻で笑う。


「地味に稼ぐな、お前」


「単価の話じゃないでしょう」


「違うのか?」


「戻りまで含めて見てるのよ」

「それなら、その値付けは正しいわ」


 それを聞いて、ミリアが少しだけ目を細めた。

 前は「変わった令嬢」だった女が、今はこうやって依頼単価と再発スパンの話を平然とする。受付の側からすると、たぶんまだ慣れ切らないのだろう。


 ギルドを出ると、街の朝はすでに中盤へ入っていた。

 排水の管理人、墓地の墓守、倉庫街の番頭。

 どれも、もう見知った顔だ。

 そして向こうもまた、ナタリアを“あの妙に綺麗な冒険者”ではなく、“頼むと持ちが違う人間”として見ている。


 王都じゅうに轟いているわけではない。

 けれど、排水、倉庫、墓地、路地、荷道――そういう、誰かが毎日使う場所に近い人間ほど、もう先に知っていた。


 北区画排水の管理人は、ナタリアの顔を見た瞬間に、ほっとしたように肩を落とした。


「ああ、やっぱりあんたが来たか」


「指名したのでしょう」


「したとも」

「他でもいいが、あんたが来るならそっちの方がいい」


 管理人はそう言って水路の方を顎で示した。


「前より草が早く寄る気がしてな」


「詰まりは?」


「まだ浅い。だから今のうちに見てほしい」


 こういう依頼主は話が早い。

 完全に詰まってから呼ぶより、浅いうちに手を入れた方が安く済む。それを理解している。


 ナタリアは水路の縁へしゃがみ込み、流れを見る。

 確かに寄りが早い。

 だが原因は泥ではなく、角の死角に落ちた木屑だった。そこへ草が引っかかり、水が少しだけ鈍っている。


「ここね」


「やっぱりか」


「やっぱりではないでしょう。見えていないのに」


「勘だよ」


「そう」


 ナタリアは勘より確実なやり方を選ぶ。

 木屑を抜き、角のぬめりを落とし、流れの筋を少しだけ変える。ついでに上流側の細い淀みも手を入れる。

 全部で長くはかからない。

 ただ、雑にはやらない。


 作業が終わると、管理人が水の引きを見て頷いた。


「やっぱり持ちが違うな」


「次が遅いなら、それで十分でしょう」


「十分どころか助かる」

「前より水の引きが長いんだよ。あんたが入ると」


「なら指名料の元は取れるわね」


 管理人が笑う。


「そういう計算ができる奴で助かるよ」


 共同墓地の墓守は、最初から何も言わずに熊手を渡してきた。

 無口な老人だが、ナタリアが手を抜かないことだけはもう知っている。


 墓地仕事は草を刈って終わりではない。

 昨日の雨で溜まった低い水を抜き、墓石の根元を荒らさないように泥を寄せ、通り道だけは乾きやすい筋へ直す。

 ここでもやることは同じだ。

 目先の綺麗さではなく、戻りを遅らせる。


 作業を見ていた墓守が、最後にぽつりと言った。


「草だけじゃなく、水まで見ていくのがありがたい」


「見ないとまたすぐ戻るもの」


「そうだな」


 それだけだった。

 だが、墓守のような人間は、この一言にだいたい全部入っている。


 倉庫街の番頭は、六件の中でいちばん藤堂寄りの仕事だった。


「荷は崩れてねえ。だが、人が詰まる」


 そう言って、番頭は倉庫の中を指す。

 袋物、箱、木枠。

 全部それなりに整っている。

 だが、人の動く線が死んでいる。

 荷はあるのに出しづらい。

 通りたい人間がぶつかる。

 現場はこういう“崩れてないのに駄目”がいちばん面倒だ。


 ナタリアは倉庫の前で数秒だけ黙って見た。

 人足の動き、荷車の位置、持ち上げる角度、置き場の癖。

 それから短く言う。


「この列、半分ずらす」

「それと通り道を一本増やす」

「重いのは奥へ寄せず、手前右」

「高く積むのはやめなさい。崩れない代わりに人が死ぬわ」


 番頭が目を細める。


「お前、本当にその手の話は早いな」


「見れば分かるでしょう」


「分からん奴が多いんだよ」


 人足たちも、最初は妙に綺麗な女が口を出してきたという顔をしていた。

 だが、指示が短く、しかも理由が通ると分かると、すぐに動きが変わる。


「そっちじゃない。右へ半歩」

「それを置いてから次」

「先に抜け道を作って」

「ええ、そこ」


 乱暴ではない。

 だが、現場で通る言葉だ。

 何をどうすればいいかが、そのまま分かる。


 一時間もしないうちに、倉庫の空気が変わった。

 荷は大して減っていないのに、動きが通る。

 番頭が腕を組んで、感心したように唸る。


「置き直しただけじゃねえな」


「当たり前でしょう」


「人の動線まで通ってる」

「そりゃ崩れないわけだ」


「崩れないのは結果よ」

「通るようにしただけ」


 番頭はそこで笑った。


「その“だけ”ができる奴が少ねえんだ」


 南路地の泥掃きは、前に比べるともう説明がいらなかった。

 世話役の女が竹箒を二本持って出てきて、「やっぱりあんたの方が早い」と言い、ナタリアは「知ってるわ」と返す。

 泥を寄せ、水の引く筋を切り、ついでに溜まりやすい石の向きを少し変える。


「明日の朝が楽なんだよ」


 世話役の女がそう言う。


「朝の面倒が減るのはいいことね」


「だから高くてもあんたを呼ぶんだよ」


 居つき小獣の導線整理は、路地裏で増えた半野良の小動物が、干し物と炊き場へ入りやすくなっているのが問題だった。

 捕まえる必要はない。

 通らないようにするだけでいい。


 ここでもナタリアは、追うより先に“寄る理由”を見る。

 餌の落ちる位置、水、隠れやすい箱、逃げ道。

 つまり現場は人間だけではない。


「ここを塞いで、そっちを開ける」

「入らせないのではなく、別に流すのね」


 依頼主の女が感心したように言う。


「全部閉じるとまた別のところへ寄るでしょう」

「だったら最初から、人の困らない方へ流す方が早いわ」


「なるほどねえ」


 西外れ用水の小型スライム定着確認は、その日の最後だった。

 陽が少し傾き始めていて、水面の反射が細かい。

 ここは一見、前と変わっていないようで、実際には一番戻りが読みづらい場所だ。


 ナタリアは用水沿いを歩き、核の気配、ぬめり、藻の色を順に見る。

 小型スライムは三。

 票の最低条件は一。

 だが三なら三潰す。

 ついでに湧きやすい筋まで触る。


 依頼主の老人が、作業を終えたナタリアを見て言った。


「やっぱり、数を減らすだけじゃないんだな」


「そう見える?」


「見えるよ」

「湧き場まで触ってるだろ」


「ええ」


「だから次が遅い」


「それなら十分でしょう」


 老人は満足げに頷いた。


 結局、六件全部を回し切った頃には、もう日が傾いていた。

 疲れていないわけではない。

 だが潰れそうな疲れではない。

 段取り通りに回した時の、芯だけが少し重い感じだ。


 ギルドへ戻ると、ミリアが帳面を開いたまま顔を上げる。

 その顔に、もう「まさか全部?」という驚きは少ない。

 確認するような、呆れるような、半分分かっていた顔だ。


「……六件とも?」


「ええ」


「本当に回してきたんですね」


「回すと言ったでしょう」


「言いましたけど」


 ミリアは一件ずつ処理しながら、依頼主の確認印と付記を照らしていく。

 指名料込みの額が並ぶ。

 普通のFなら安い。

 だがナタリアが受けた時だけ、その上に小さな追加が乗る。


「最近、街の方でもだいぶ名前が通ってきてますよ」


 ミリアがぽつりと言った。


「そうなの?」


「排水、倉庫、墓地、路地、その辺りではもう」

「“あの人に頼むと違う”って」


 ナタリアはそこで少しだけ首を傾けた。


「仕事が違うなら、そう言われるのは自然でしょう」


「……本当にそういう受け取り方しかしないんですね」


「他にどう受け取るの?」


 ミリアは少しだけ笑って、最後の印を押した。


「いえ。たぶん、それでいいんだと思います」


 ガレスが柱から口を挟む。


「街でだいたい知れ渡りつつあるぞ、お前」


「王都じゅうではないでしょう」


「じゅうじゃねえが、現場側から先に広がってる」


「それも自然ね」


 ナタリアは報酬袋を受け取りながら肩を竦める。


「毎日使う場所ほど、結果が出るもの」


「そういう言い方をする女が珍しいんだよ」


「そう」


 そこへ、石樽亭のことがふっと頭に戻ってくる。

 ポンタ。

 いまごろおとなしくしているのか、それとも孫娘に好き放題いじられているのか。


 ギルドの扉を出る足が、いつもより少しだけ速いことに、自分でも途中で気づいた。


 石樽亭へ戻る頃には、空はもう夕方の色に入っていた。

 扉を開けると、孫娘の声が先に飛んでくる。


「おねーたん!」


「何かしら」


「ぽんた、ちゃんとしてた!」


 何をもって“ちゃんとしてた”のかは分からないが、とりあえず大事にはなっていないらしい。

 女将が奥から顔を出して、呆れたように言う。


「本当に、おとなしくしてたよ」


「へえ」


「妙に賢いんだよ、その子」


「知ってるわ」


 部屋へ上がると、ポンタは朝よりもしっかりした姿勢で起きていた。

 布の上で丸くなっていたくせに、扉が開いた瞬間、顔を上げる。

 青い目が、まっすぐこちらを見る。


「ああ」


 その視線に、ナタリアは少しだけ口元を緩めた。


「ただいま、ポンタ」


 ポンタはそこで一度だけ耳を動かし、なぜか当たり前のような顔をした。

 返事をしたつもりなのか、それとも本当にただ見ているだけなのか。

 まだ分からない。

 けれど、それでよかった。


 ナタリアは近づいて、また頭をくしゃりと雑に撫でる。

 昨日より毛並みが少し整っている。

 毒が抜け、流れが戻り、命の危険が消えた分だけ、本来の質が見え始めていた。


「今日はちゃんとしてたの?」


 そう訊くと、ポンタはやっぱり妙に理解したような顔をする。


「……そこ、本当に分かってるのかしら」


 問いかけても返事はない。

 けれど、いずれその沈黙が崩れる気は、もうどこかでしていた。


 長い一日だった。

 六件。

 しかも全部、指名。

 Dに上がった翌日にやる仕事としては、かなり偏っている。

 それでも嫌ではなかった。

 むしろ、芯の方では少し気分が良いくらいだ。


 街でだいたい知れ渡りつつある。

 ただし王都の上澄みではなく、排水や倉庫や墓地みたいな、誰かが毎日使う場所に近い側から。

 その広がり方は嫌いではない。


 机の上へ報酬袋を置き、ナタリアは椅子へ腰を下ろした。

 ポンタが布の上からこちらを見ている。

 灰銀の子獣。

 普通の犬ではない。

 でも、いまはただのポンタだ。


「明日も仕事よ」


 そう言うと、ポンタはなぜかまた、理解したような顔をした。


 ナタリアは小さく笑い、疲れた肩の力を少しだけ抜いた。

 悪くない日だったわね。

 そう思いながら、彼女は静かに背を預けた。

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