第20話 D初任務
旧採石場跡へ向かう道は、一昨日と同じなのに、見え方が少し違っていた。
あの時は確認依頼のつもりで足を入れ、結果として荷道へ抜けようとする鉄爪熊を止める羽目になった。
今日は最初から、後始末だ。
毒蜘蛛の巣を掃討し、荷道を使える状態まで戻す。
やるべきことが最初から整理されているというだけで、足の運びは驚くほど軽い。
丘裾へ向かう途中、石畳が土へ変わる。
さらに進むと土が石に勝ち始め、昔に切り出された岩肌が断続的に見えるようになる。
旧採石場跡という名前の通り、もう使われてはいないが、完全に捨てられたわけでもない。
荷道だけは生きている。
だからこそ、放置された危険が一番面倒な場所でもある。
ナタリアは新しい長靴の踏み心地を確かめるように、意識して少しだけ足場の悪い縁を踏んだ。
返りがいい。
滑る前に戻る。
鍛冶屋のおっさん、見立ては確かだったわね、と内心だけで呟き、今度は腰の後ろへ回した短剣の重みを確かめる。
剣だけでは終わらない仕事になる。
そういう予感は、現場へ着く前からもうあった。
採石場跡の手前で、一度立ち止まる。
風向きを見る。
耳を澄ます。
荷道の幅、斜面の崩れ、枯れ草の揺れ方。
そして一昨日にはなかった、ごく細い光の引っ掛かり。
「いたわね」
糸だった。
朝に近い昼の光を斜めに受けて、荷道脇の低木から資材の崩れた陰へ、細く、薄く、だが明確に張っている。
一本ではない。
目につくものだけで三。
見えていないものまで含めれば、その倍はあるだろう。
熊がいた時には、あの圧に押されて潜んでいた。
大きいものが消えたせいで、今度は自分たちの番だとでも思っているのか、動きが露骨だ。
ナタリアは荷道の中央から外れ、斜面の高い側へ回る。
毒蜘蛛は巣の中心だけ叩いても意味がない。
小型が散り、卵塊が残り、二日後にはまた張り直される。
今回は掃討だ。
巣、糸、親、小型、卵塊、荷道再確認。
全部終えて初めて終わる。
最初の巣は、崩れた資材の裏にあった。
大きな親個体が一。
その背後に、まだ色の薄い小型が五、六。
少し離れた石の割れ目に、卵塊らしい膨らみがひとつ。
ナタリアは剣を抜かず、まず短剣を手に取った。
深く振るうには狭い。
糸を絡める前に処理するなら、こちらの方がいい。
身体強化はごく浅く。
踏み込みだけを速くする。
呼吸を落とし、巣の張り方と親個体の脚の位置を見る。
毒蜘蛛は小さい相手ほど油断できない。
毒そのものより、見落としと散り方の方が後を引く。
一歩。
糸を切る。
次の一歩で親個体の胴を裂く。
落ちた小型が散るより先に、短剣の峰と長靴で二つ、三つ。
残りは崩れた板へ叩きつける。
潰れる音は軽い。
だが、それで十分だ。
親個体の腹がまだ痙攣しているうちに、卵塊へ刃を入れる。
中身が見える。
黒い小さな塊が幾つも蠢く前に、短剣をねじって切り、石で押し潰す。
「一つ」
声に出す必要はない。
けれど、現場仕事というものは、声に出した方が区切りやすい時がある。
次の巣は荷道すれすれだった。
これが一番悪い。
人が避ける高さではなく、荷が引っかかる位置へ糸を引いている。
荷車の天幕や積み荷に絡めば、小型が紛れ込み、次は街へ入る。
それだけは避けたい。
ナタリアは荷道側からではなく、斜面の上側から回り込んだ。
下から切れば糸が垂れ、荷道へ残る。
上からなら切っても落とせる。
巣を視認。
親個体が二。
小型は散らばり気味。
こちらへ気づき始めている。
「遅いのよ」
誰に向けたともなく呟き、今度は剣を抜く。
糸ごと払うには幅が要る。
広く薄く一閃。
巣が崩れ、親個体の一体が中空で切れた。
もう一体が荷道側へ落ちようとするのを、体を捻って二撃目で叩き落とす。
小型が散った。
左右へ三。
下へ二。
岩陰へ一。
ここからが面倒だ。
ナタリアは剣をしまわず、左足で一匹を踏み潰し、刃の腹で二匹目を弾き、三匹目を短剣で串刺しにする。
逃げた二匹は荷道ではなく斜面側へ切れた。
それなら追える。
岩陰へ入った一匹を最後に落とした時には、薄い汗が額へ浮いていた。
派手な戦闘ではない。
むしろ汚く、細かく、煩わしい。
だがこういう仕事を雑に終えると、後で十倍面倒になる。
だから手数を惜しまない。
三つ目の巣は少し離れた岩壁の割れ目にあった。
そこだけ空気が重い。
糸の量も多い。
巣というより半分住み着いている。
熊がいた時には押し込まれていたのだろうが、もともとの本拠はここかもしれない。
割れ目の前で一度止まり、ナタリアは指先へわずかに魔力を集めた。
熱でも光でもない、ごく薄い探り。
術として大げさに使うほどではないが、気配の重なりを読むには十分だ。
「三……四」
親個体が三。
少し大きいのが一。
それに小型多数。
卵塊は二つ以上。
ここを正面から切ると散る。
散れば回収に時間がかかる。
なら順番を変える。
ナタリアは腰の小袋から、現場用の簡易粉を取り出した。
鍛冶屋ではなく、以前から冒険者向け雑貨で買っていた、虫と湿気に強い石灰混じりの粉だ。
魔道具ではない。
だが糸の張りに触れれば色が少し変わる。
割れ目の入り口へ薄く投げる。
見えにくかった糸が浮いた。
そこへ短剣を二度走らせる。
逃げ道を切る。
直後、奥から大きめの個体が飛び出した。
赤い腹模様。
脚が太い。
牙の先にまだ濁った毒が残っている。
剣を使うには狭い。
ナタリアは身体を半身に切り、前脚の動きを見てから一歩踏み込んだ。
毒蜘蛛の親個体は、見た目より跳ぶ。
だが跳ぶなら、着地がある。
その着地先へ刃を置けばいい。
一体目。
胴を裂く。
二体目。
脚を切る。
落ちたところを踏む。
三体目が横から回り込む。
それに気づいたのは視界より風だった。
頬を掠める糸の気配で反応し、短剣を逆手に持ち替える。
甲高い音。
脚の一本が飛ぶ。
完全には止まらない。
なら剣へ戻す。
狭い割れ目から体を外へ引きずり出すように斬る。
岩へ叩きつける。
小型が一斉にわらわらと這い出す。
「もう、本当に気持ち悪い」
吐き捨てるように言いながらも、手は止めない。
足。
刃。
石。
短い動作の繰り返し。
踏み潰した小型の感触が長靴越しに残る。
新しい長靴の初仕事がこれか、と一瞬だけ思ったが、文句を言っても仕方がない。
卵塊は二つではなく三つあった。
ひとつは割れ目の奥に隠れている。
ここは剣では届かない。
短剣で裂いてもいいが、奥に残った破片から孵る可能性がある。
ナタリアは指先へ再び魔力を集める。
浄化に近いが、より乾かし、止めるための術。
派手な炎ではない。
あくまで腐敗と毒を切るための小さな火。
普通の冒険者は、剣に偏っていればこういう時に面倒がる。
だがナタリアは、できる。
使わないだけで、収めてはいる。
指輪が地味に効いていた。
こういう小さい術を何度も挟む時、散りが少ない。
薄い火が卵塊の内部を焼き切る。
焦げた匂い。
動きが止まる。
「よし」
最後に残った糸を払い、割れ目の手前を崩して入り口そのものを使いにくくする。
完全封鎖ではない。
だが少なくとも、次に同じ規模の巣が張るまでには時間がかかる。
荷道へ戻り、端から端まで歩いて確認する。
糸の残り。
足を取る位置。
荷車が通る幅。
斜面側にまだ抜けがないか。
視線だけでなく、靴底の感触でも見る。
ここまでやって、ようやく現場が少し静かになった。
風が通る。
糸の引っ掛かりが消える。
人が通った時にまず当たるような危険はない。
通行可能。
ただし、右側の低木寄りは一日ほど様子見。
そこだけ書いて返せば十分だろう。
終わった。
そう思って斜面の下へ向き直った時、微かな魔力の乱れが触れた。
ごく弱い。
だが、自然の流れではない。
毒で乱れた生き物の揺れ方だ。
ナタリアは立ち止まり、耳を澄ませた。
小動物の鳴き声はしない。
ただ、息のような、ごく小さい震えだけがある。
低木の根元。
割れた石の隙間。
糸が落ちた場所の少し奥。
近づくと、そこに伏せていたのは仔犬だった。
――いや。
「……犬じゃないわね」
灰銀の毛。
毒に汚れているのに、もとの色が深い。
足が少し太い。
耳の形も微妙に違う。
目は半分閉じているが、隙間から覗く青が妙に濃い。
呼吸は浅い。
身体は熱い。
それに、毒だけではない。
胸の奥に触れる魔力の流れが、ひどく崩れていた。
ナタリアはしゃがみ込み、手を近づける。
仔犬めいた子獣はうなろうとして失敗した。
喉の音だけが少し漏れる。
牙はまだ小さい。
だが、ただの犬ではないことだけは分かる。
「毒だけじゃないのね」
指先を額へ、次に胸へ。
魔力の流れを見る。
崩れている。
毒で体力が落ちたせいで循環そのものが乱れ、繋がるべき筋が途切れかけている。
これでは回復が追いつかない。
このまま置けば死ぬ。
ナタリアは少しだけ息を吐いた。
剣の方が早い場面が多い。
だから前へ出さないだけ。
使えないわけではない。
「大丈夫よ」
誰に聞かせるともなく言い、左手を首筋へ、右手を胸へ当てる。
まずは毒を切る。
派手な浄化ではない。
回り始めた毒だけを薄く剥がす。
押し流すのではなく、残るべきものに触れないように選っていく。
子獣の身体がびくりと跳ねる。
呼吸が一瞬止まり、次に少し深くなる。
次に整魔。
崩れた循環を無理に押し込むのではなく、詰まりをほどき、繋がる場所だけを繋ぐ。
初歩に近い術だ。
だが対象が生き物で、しかも普通の獣ではないなら、むしろこういう術の方が難しい。
ナタリアの額に薄く汗が滲む。
指輪が効いている。
散りが減る。
それでも足りないわけではない。
ナタリアは元々、魔力をかなり余らせている。
普段使わないだけだ。
「ほら、ちゃんと通りなさい」
半ば癖のような叱りつけが口をつく。
誰に対してなのか、自分でもよく分からない。
子獣の魔力か。
崩れた流れか。
あるいは、自分の目の前で死なれたくないという気分そのものか。
少し。
また少し。
死なない程度に繋ぐ。
ナタリアの認識では、それだけだった。
だが獣側から見れば、その時点で十分すぎたことを、彼女はまだ知らない。
子獣の呼吸が落ち着く。
濁っていた目が薄く開き、青い瞳が真っ直ぐにナタリアを見た。
幼い。
だが、妙に人の目に近い。
「何なの、あなた」
答えるはずもない。
それでも子獣は目を逸らさなかった。
確かめるように、覚えるように、じっと見る。
毒はまだ完全には抜けない。
乱れも戻り切っていない。
だが、いまここで死ぬ線は越えた。
問題は、このまま置いていくかどうかだ。
ナタリアは一瞬だけ考え、それから結論を出した。
「仕方ないわね」
抱き上げる。
軽い。
軽すぎる。
毒と消耗で、本来の体格よりずっと小さく落ちているのだろう。
帰り道、腕の中の子獣は一度も鳴かなかった。
ただ、眠るでもなく、ずっと静かにナタリアへ寄っていた。
ギルドへ戻ると、受付嬢が顔を上げる。
だがナタリアはそのまま受付へは向かわず、脇の記録机へ歩いた。
毒蜘蛛の証明部位を端へ置き、紙と筆を引き寄せる。
「……あの、何を?」
受付嬢が思わず訊く。
横でガレスも眉を寄せた。
「報告書よ」
「先に完了報告じゃねえのか」
「後でもできるでしょう」
さらさらと筆を走らせながら、ナタリアは続ける。
「調査依頼は文書で出すことにしたの」
受付嬢が目を丸くする。
「文書で、ですか」
「ええ」
「現場を見て返す仕事は、紙にして残しておいた方が早いわ」
今回が最初だ。
だが、一昨日の件を踏んだ以上、調査依頼を口頭だけで閉じる気はない。
危険度の更新が絡むもの。
荷道や導線の確認が入るもの。
そういう仕事は、今後も文書で締める。
それが自分の型になる。
受付嬢は少しだけ息を呑み、それから「分かりました」と小さく頷いた。
ナタリアは手を止めない。
依頼名。
現場状況。
分巣三。親個体二。大型個体一。小型多数。卵塊三。
掃討完了。卵塊処理済み。荷道通行可能。ただし右側低木寄りは一日程度要注意。
今後、同類確認時は上方確認優先。
最後に一行だけ添える。
現場にて異常小型獣一体を保護。毒および魔力乱れあり。後送保留。
十分ほどで書き終える。
筆を置き、初めて受付へ向かった。
「報告は終えたわ」
紙を差し出しながら、ナタリアは腕の中の子獣を少しだけ持ち直す。
「それと、今日はこの子もいるし、私宛のF依頼は明日まとめて回る」
受付嬢は報告書と子獣を交互に見て、一瞬だけ呆然としたあと、ようやく頷いた。
「……はい」
その返事を聞いたところで、奥からバルドが出てくる。
報告書を受け取り、子獣を一瞥し、そして短く言った。
「きっちり片づけてきたな」
「片づける仕事でしょう」
「その子獣は」
「毒にやられた子獣よ」
「犬ではないと思うけれど」
バルドは子獣の灰銀の毛並みと目を見た。
何か引っかかっている顔だ。
だが今は深追いしない。
「後送は保留でいい」
「まずは生かせ」
「そのつもり」
「報告書も残すんだな」
「調査依頼はそうすることにしたの」
バルドは短く頷いた。
「今後もそうしろ」
「残る方が助かる」
「ええ」
それで十分だった。
石樽亭へ戻ると、女将が真っ先に眉を寄せた。
「何を拾ってきたんだい」
「毒にやられた子獣よ」
「犬かい?」
「私はたぶん違うと思ってるわ」
女将の孫娘が飛び出してきて、目を輝かせる。
「わんこ!」
「静かに」
ナタリアが言うと、子どもは慌てて口を押さえた。
それでも目は子獣に釘付けだ。
「いきてる?」
「いまはね」
「なでていい?」
「まだだめ」
「弱ってるの」
女将は深く息を吐いた。
「普通の犬じゃないね」
「でしょうね」
「で、置くのかい」
ナタリアは子獣を見下ろし、少しだけ肩を竦めた。
「仕方ないでしょう」
「責任は持つんだよ」
「そのつもりよ」
二階の部屋へ運び、布を敷き、子獣を寝かせる。
水を少し飲ませると、今度はちゃんと喉を動かした。
呼吸も安定している。
「死なないでよ」
そう小さく言うと、子獣の耳がほんの少しだけ動いた。
D初任務。
毒蜘蛛掃討。
荷道再確認。
報告書スタイルの始まり。
それに加えて、得体の知れない子獣まで抱えて戻ることになるとは思わなかった。
「面倒ね」
口ではそう言いながら、ナタリアは灯りを少し落とした。
完全に嫌がっている時の声ではない。
ただ、増えた責任の重さを確かめただけだ。
机の上には、使い終えた筆と、写しておいた報告の控え。
調査依頼は文書で締める。
今日からはそれが自分のやり方になる。
そして寝台脇には、灰銀の仔犬めいた子獣が一匹。
犬ではない。
だがいまはそれでいい。
長い一日だった。
けれど、悪くない初任務だったわね――そう思いながら、ナタリアは静かに椅子へ背を預けた。




