第19話 報告書
休みを一日挟んだことで、頭の中に残っていた熱はきれいに引いていた。
あの日、丘裾の採石場跡で鉄爪熊の若い単独個体を止めた時は、さすがに藤堂の方が前へ出ていた。どこへ抜けるか、誰に当たるか、票の古さがどれだけ危ないか。そういう判断が先に立ち、言葉も少し荒くなっていた。
だが一日置けば、考えるべきことは感情ではなく書式に戻る。
だからその朝、ナタリアは石樽亭の二階の小部屋で目を覚ましたあと、最初に机へ向かった。
昨日買ったばかりの地味な指輪が、朝の光を受けて鈍く光っている。
長靴は壁際。
短剣は油を引いて布に包んである。
どれも派手ではない。
だが、そういうものの方が役に立つ。いまの自分には特に。
机の上には、一昨日の件をまとめた紙がある。
依頼票と現場の乖離。
荷道への危険。
確認依頼と危険度修正の流れが一段遅れていること。
荷道絡み案件だけでも更新を前倒しする必要。
口頭で刺しただけでは流される。
だから紙にした。
ナタリアは最後に一度だけ読み返し、文の硬さと順序を確認した。
感情は薄く、事実は太く。
何が起きたか。
なぜまずいか。
どこを切れば同種事故を減らせるか。
そこだけを並べる。
この程度でいい。
余計な飾りが入ると、読む側は大抵、そちらを理由にして中身から逃げる。
階下へ下りると、石樽亭の朝はすでに半ば終わっていた。
女将が鍋の中を見ており、配膳の少女は食器を重ねている。下働きの少年は昨日より少しだけ磨かれた桶を裏へ運んでいた。
女将の孫娘だけが、まだ眠たげな顔のまま椅子の陰に座っている。
「今日は早いね」
女将が目だけを上げて言う。
「ええ。先に片づけることがあるの」
「依頼じゃなく?」
「依頼の前に、よ」
それで女将は小さく頷いた。
細かいところまで聞かない。
そこがこの宿のいいところだった。
「朝飯はまだある」
「いただくわ」
席に着くと、孫娘が椅子の脚にしがみつきながら顔を出した。
「おねーたん」
「何かしら」
「きょー、どろ?」
「今日はたぶん、あとでね」
「いまはきれい?」
「いまはまだ」
そう答えると、子どもは満足したように頷いた。
何がどう満足なのかはよく分からない。
だが、石樽亭での朝は、最近こういう短いやり取りから始まることが多い。
黒パンと薄いスープ、それに少しだけ塩気のある卵を口へ運びながら、ナタリアは頭の中で今日の順番を組む。
まず報告書。
そのあとDの初依頼。
時間と戻り次第ではもう一件。
ただし、今日は無理に詰め込まない方がいい。
一昨日の件の後だ。
頭はもう落ち着いているが、身体の芯にはまだ薄く残りがある。
休める時に休むのも仕事。
止まるべきところで止まる。
それを一昨日、自分で口にしたのだから、なおさらだ。
食べ終えて立ち上がると、孫娘がまた裾を少しだけ掴んだ。
「おねーたん」
「何かしら」
「いってらっしゃい」
そんなことを言われるとは思っていなかったので、ナタリアは一瞬だけ言葉を失った。
だがすぐに、小さな頭をひと撫でする。
「ええ。行ってくるわ」
石樽亭を出た空気は、昨日より少しだけ軽かった。
王都の朝はもう動き始めている。
荷車。店先。水を撒く音。焼きたてのパンの匂い。磨かれた石畳に残る夜の冷え。
その中を、ナタリアは普段より少しだけまっすぐ歩いた。
今日はまず依頼板ではなく、奥だ。
ギルドへ入ると、受付嬢はナタリアを見るなり少しだけ姿勢を正した。
いつもの「また少し多く持って帰る人」へ向ける顔ではない。
報告書が来ると分かっている顔だった。
「おはようございます」
「おはよう」
ナタリアが折り畳んだ紙を机の上へ置くと、受付嬢はすぐに両手で受け取った。
「お預かりします」
「ギルドマスターへ」
「はい。お待ちでした」
待ち構えていた、というほどわざとらしくはない。
けれど、報告書をただ棚へ積むつもりは最初からないらしい。
受付嬢は紙を開き、表題と最初の数行だけをざっと確認すると、すぐに奥へ視線を送り、小さく頷いた。
「どうぞ」
通された先は、半分だけ開いた執務室のような場所だった。
壁際に棚、中央に大きな机。
雑然としていない。
だが磨き上げられた貴族の執務室とも違う。
使うために整えられた部屋だ。
机の向こうには、一昨日の男が座っていた。
ギルドマスター。
まだ名前は知らない。
大きすぎない体格。
けれど、現場を完全に離れた人間の身体ではない。
机の上にはいくつかの書類が開かれていて、その一番上に今渡した報告書が置かれていた。
ナタリアが入ると、男は紙から目を上げた。
「一昨日の報告書、読んだ」
前置きはない。
それで十分だった。
「口頭よりよほど分かりやすい」
「それなら結構よ」
ナタリアは机の前で立ち止まり、余計に頭を下げることもしない。
相手がギルドマスターだろうと、ここは王城ではない。
仕事の場で、仕事の話をしに来ているだけだ。
男は紙へ指を置いたまま、ほんの少しだけ口元を動かした。
「あの時は名乗ってなかったな」
それから初めて、はっきりと言う。
「ギルドマスターのバルドだ」
短くて、重い名だった。
「そう」
ナタリアは目を細める。
「ようやく名前が分かったわ」
バルドは鼻で息を抜く。
「一昨日はそれどころじゃなかった」
「それもそうね」
そこでようやく、少しだけ場の角が取れた。
名乗りが遅れたことを気にする相手でもないし、ナタリアもまた、一昨日の空気で肩書から入るべきだったとは思っていない。
ただ、改めて向き合ったというだけのことだ。
バルドは報告書の中程を指先で軽く叩いた。
「荷道絡み案件の危険度更新を前倒ししろ、か」
「ええ」
「全部はすぐ変えられん」
「でしょうね」
「だが、荷道絡みは先に切る」
それはかなり早い返答だった。
形だけ受けるつもりではない、と分かる。
「確認依頼と危険度修正の流れも分ける」
「それならいいわ」
ナタリアの返しも短い。
“全部直せ”と言う気はない。
全部を一度に変えられるなら、そもそも現場でこういう歪みは出にくい。
まずは一番まずい線を切る。
それができるなら十分だった。
バルドはその返答を聞いて、机の端へ置いていた別の票を持ち上げた。
「まずはこれだ」
差し出された紙には、見慣れた地名があった。
旧採石場跡周辺 毒蜘蛛の巣掃討および荷道再確認
ナタリアの目がそこで少しだけ止まる。
一昨日、鉄爪熊を踏んだ場所だ。
後処理としては自然だが、随分早い。
「判断が早いのね」
「早くないとまた刺されるだろう」
それを言われると反論しにくい。
ナタリアは依頼票の内容を読む。
主目標は毒蜘蛛の巣。
確認された糸と小型個体の増加。
一昨日の熊個体に押されて見えづらくなっていた可能性。
それに荷道再確認が付く。
Dの初依頼としては過不足ない。
戦闘だけではなく、掃討と安全確認が入る。
いかにも自分向きだった。
「妥当ね」
「お前向きだ」
「そうでしょうね」
それだけで本題は終わりかと思ったが、バルドはもう一枚、薄い票を机へ出した。
「それと、もう一件」
「何かしら」
「内容はF相当だが、指名が入ってる」
ナタリアはそこではじめて少しだけ眉を動かした。
「指名?」
票にはこうある。
北区画排水・下水の再整備確認
以前、自分が何度か入った場所だった。
泥を掻き、淀みを抜き、低位スライムを減らした。
今ではその手の仕事は、戻りが遅いことで半ば名前が通っている。
バルドは票を指先で押しながら言った。
「管理人からの名指しだ」
「雨季前に一度見てほしいそうよ、ってところかしら」
「だいたいそうだ」
「戻りの間隔が長いから、またお前に頼みたいと」
ナタリアはその票を読みながら言う。
「内容としてはFね」
「内容はな」
「でも指名が入っている」
「そうだ」
そこでバルドは一枚の付記票を出した。
普通のF依頼ではつかない、追加の報酬欄がある。
「ナタリア受諾時のみ、指名料が乗る」
「私以外なら普通の額なのね」
「そういうことだ」
ナタリアは付記をもう一度見た。
他の冒険者が受ければ通常のF報酬。
自分が受ける時だけ、別枠の追加。
つまり依頼主はもう分かっているのだ。
“同じ内容”でも、仕上がりと戻りまでの間隔が違うことを。
バルドが続ける。
「最近は、その手の依頼のいくつかがもうそうなってる」
「いくつか?」
「北区画排水、共同墓地、倉庫街の再配置、路地泥掃き、その辺りだな」
「内容はFだが、お前指名なら上乗せが付く」
「随分学習が早いのね」
「依頼主がか?」
「ええ」
バルドは肩をすくめる。
「安いのを何度も出すより、少し高くても戻りが遅い方が得だと分かっただけだろ」
それは、実にまっとうな理屈だった。
ナタリアはそこでごく小さく頷く。
「合理的ね」
「だろうな」
「単価じゃなく、戻りまで含めて見てるのね」
「そういう依頼主の方が、結局長く残る」
その答えに、ナタリアは少しだけ目を細めた。
この男はたぶん、そういうことを理解している。
だからこそ、あの一昨日の刺し込みも流さなかったのだろう。
バルドは机の上で指を組む。
「お前は依頼を片づけるんじゃない」
「そうかしら」
「戻りを遅らせる」
短い断定だった。
ナタリアは一拍だけ黙り、それから小さく息を吐く。
「同じものがすぐ戻る方が、気持ち悪いでしょう」
「その感覚で皆がやれれば苦労しねえんだがな」
バルドの言い方は、呆れ半分、評価半分だった。
ナタリアはD依頼票と指名依頼票を順に見た。
今日はどちらから行くか。
答えは最初から決まっている。
「先にこっちね」
毒蜘蛛の巣掃討および荷道再確認。
D初依頼。
危険度も重さも、明らかにこちらが先だ。
バルドも当然という顔で頷く。
「F指名は急ぎじゃない」
「なら後で十分だわ」
「戻り次第で構わん」
「無理に今日詰め込むな」
最後の一言に、ナタリアは少しだけ笑いそうになった。
「そこまで言われるとは思わなかったわ」
「お前、言わないと詰めるだろ」
「否定しづらいところね」
「だろうな」
そこで話はほぼ終わった。
バルドは依頼票を押し出し、ナタリアはそれを受け取る。
仕事の話は早い方がいい。
早くて必要なことが落ちないなら、なおいい。
執務室を出る前に、ナタリアは一つだけ付け加えた。
「報告書の件」
バルドが視線だけで続きを促す。
「上へ回すなら、“刺した冒険者がいた”じゃなくて、“現場で踏んだ結果そうなった”で出して」
「個人の性格の問題にされると、いちいち面倒だもの」
バルドはそこで初めて、はっきりと口元を動かした。
「分かってる」
「性格の問題で熊は湧かん」
それで十分だった。
受付へ戻ると、受付嬢はもう二枚の処理票を用意していた。
D依頼とF指名依頼。
その手際も、一昨日より明らかに早い。
「では、D依頼を先行で登録します」
「指名依頼は保留扱いにしておきますね」
「ええ。それでいいわ」
受付嬢は処理票へ印を入れながら、少しだけ顔を上げた。
「……すごいですね」
「何が?」
「普通、ランクが上がると、下の仕事は切り捨てる方も多いので」
「でもナタリアさんは、上に行っても前の依頼が“指名で残る”んですね」
ナタリアは一瞬だけ考え、それから淡々と返した。
「内容が要るなら、ランクはただの区分でしょう」
「片づけるべきものなら、結局そこへ行くわ」
受付嬢はそれに何か言いかけ、結局やめた。
たぶん、うまくまとまる言葉が見つからなかったのだろう。
ギルドの中では、すでに何人かがこちらの空気を読んでいる。
一昨日の件。
D昇格。
そして今日の朝、奥へ通されたこと。
そこまで見れば、さすがに何かが一段変わったと分かる。
ガレスも、いつもの柱から少しだけ体を離していた。
「名前、聞いたか」
ナタリアがD依頼票を畳みながら頷く。
「ええ。バルド」
「やっとか」
「あなたも知ってたなら先に教えてくださればよかったのに」
「聞かれなかった」
「そう」
ナタリアは少しだけ首を傾ける。
「じゃあ今度からは、知らない名前があったら先に聞くことにするわ」
「面倒な学習の仕方だな」
「合理的でしょう」
そう言いながら、ナタリアは票をしまった。
ガレスは鼻で笑い、目だけで一度D依頼票の方を示す。
「今日はそっちだな」
「ええ。先に片づけるべきなのはこっち」
「帰り次第、F指名を拾うつもりか?」
「戻りと時間次第」
「言い換えただけで、やる気満々にしか聞こえねえが」
「そう聞こえるなら、たぶんそうなのでしょうね」
ギルドを出る時、ナタリアはふと、自分の手元へ視線を落とした。
鍛冶屋で買った短剣。
新しい長靴。
ばーさんの指輪。
D依頼票。
F帯の指名依頼票。
ランクが上がった。
単価も上がった。
そして、前にやっていた地味な仕事のいくつかは、いまや名指しで、しかも単価を積んで戻ってくる。
少し前までの自分なら、そこに何らかの感慨を覚えたかもしれない。
だがいまは違う。
やることは結局、同じだ。
現場へ行く。
見る。
切る。
片づける。
戻りを遅らせる。
必要なら刺す。
それだけだった。
王都の通りへ出ると、昼前の陽が石を照らしていた。
今日はDの初依頼だ。
しかも一昨日、自分が踏んだ現場のちゃんとした後始末。
気を抜く理由はない。
だが、足取りは重くない。
休みを一日入れた。
朝に報告書も片づけた。
ギルマスの名前も知った。
やるべきことは、いまはもう明確だ。
ナタリアは荷道へ向かう通りへ足を向ける。
王都のざわめきが背中へ遠ざかる。
手元にはD依頼票。
袋には指名依頼票。
どちらも、自分が積んできたものの続きだ。
現場へ行って、片づける。
それが今日もまた、変わらない。




