第18話 休む日
その朝、ナタリアは石樽亭の二階の小部屋で目を覚ましたあと、しばらく天井を見ていた。
起きる時間そのものは、いつもとほとんど変わらない。
身体がその時刻で目を覚ますようになっているのだろう。
だが、起きた瞬間に「今日の依頼」を頭の中で並べ始める感じが、今日は少しだけ薄かった。
昨日のうちに決めていた。
今日は依頼を受けない。
休む。
湯を使い、洗濯をし、道具を見る。
それもまた仕事のうちだと、もう分かっている。
寝台の上で上体を起こし、窓を少しだけ開ける。
朝の空気はまだ冷たく、王都の石の匂いが薄く入ってきた。
遠くで荷車の軋む音がする。
市場へ向かう早足の気配もある。
街はもう動き始めているが、ナタリアはその流れへすぐには混ざらない。
まず、髪をほどく。
指先で軽く梳き、毛先の傷みを確認する。
泥仕事のあと、湯と布で拭うだけの日も多い。
それでも放置しなかったから、今のところ極端な荒れはない。
鏡代わりの磨き板で顔色を見る。
悪くない。
少しだけ疲れは残っている。
だが、今日一日休めば抜ける程度だ。
こういう判断が、最近は前より速くなった。
無理をして進める日。
少し落とす日。
丸ごと止める日。
その切り分けが甘いと、結局あとで大きく崩れる。
Dに上がったところで、それは変わらない。
いや、むしろ一段上へ入ったからこそ、雑に扱わない方がいい。
顔を洗い、軽く身体を拭いてから一階へ下りる。
石樽亭の朝は相変わらず早い。
女将はもう鍋を火にかけていて、配膳の少女が眠そうな顔で黒パンを切っていた。
下働きの少年は桶を運んでいる。
孫娘だけがまだ半分夢の中の顔で椅子の陰にうずくまっていた。
「今日は早いね」
女将が鍋をかき混ぜたまま言う。
「いつも通りよ」
「顔つきが違うよ」
「依頼に行く日の顔じゃない」
そこまで見ているのか、と少しだけ思う。
だが実際、女将の言う通りなのだろう。
「今日は行かないの」
「休みかい」
「ええ」
女将が眉を少しだけ上げた。
「休める時に休むのも仕事でしょう」
ナタリアがそう言うと、女将は鼻で笑った。
「ちゃんと覚えたじゃないか」
「最初から分かってはいたわ」
「分かってるのと、やるのは違うよ」
その返しに、ナタリアは反論しなかった。
石樽亭の女将は、必要以上に踏み込まない。
だが、見ているところはちゃんと見ている。
たぶんその手の人間なのだろう。
席へ着くと、椅子の脚の陰から小さな影がのそのそ這い出てきた。
女将の孫娘だ。
眠そうな目のまま、ナタリアの膝へ軽く頭をぶつける。
「おねーたん」
「何かしら」
「きょー、どろじゃない?」
「ええ。今日は泥じゃないわ」
「ほんと?」
「ほんとよ」
子どもはそれがよほど嬉しかったらしく、ぱっと顔を上げた。
泥仕事帰りのナタリアを怖がることはないが、それでも“今日はきれいな日”という認識はあるらしい。
「じゃあ、いいにおい?」
ナタリアは少し考え、それから答える。
「少なくとも、昨日よりはね」
それで満足したように、孫娘は椅子の影へ戻った。
代わりに配膳の少女がスープを置く。
「今日は湯、朝から用意してあります」
「朝から?」
「女将さんが、今日は長く使う日だろうって」
「そこまで読まれてるのね」
「最近は、だいたい当たりますから」
薄い野菜スープと黒パン、卵が一つ。
豪勢ではない。
けれど、休みの日の朝にはちょうどいい量だった。
食べ終えたあと、ナタリアは部屋へ戻り、昨日までの衣類を持って裏へ下りた。
石樽亭の裏手には、小さいが洗い場がある。
仕事帰りの冒険者がざっと泥を落とす程度の場所だが、休みの日なら十分だった。
水を張る。
布を浸す。
泥と汗を含んだ衣類を揉み、泡立て、すすぐ。
単純な作業だ。
だがこういうことを人任せにしないでいると、道具も服も長持ちする。
それは結局、生活の底を静かに支える。
長靴の泥を落としながら、ナタリアは昨日の報酬袋を机の上へ思い浮かべた。
一日を回すだけなら、もうEの頃から足りていた。
Dに上がってからは、ようやく「次に備える分」を別に置ける。
大金ではない。
だが、余りがあるというのは思った以上に気持ちを軽くする。
食費と宿代の向こう側へ少し手を伸ばせる、それだけで選べるものが増える。
今日はそのための日だ。
湯を使って身体を整え、洗濯を済ませたあと、部屋へ戻って机の上へ硬貨を並べる。
宿代。
食費。
湯浴み。
消耗品。
それらをざっと頭の中で引き、残る額を見る。
長靴を借り物から自前に替えるのは、そろそろ現実的だ。
手袋も、もう少し質のいいものが欲しい。
そして、昨日のようなイレギュラーを踏んだあとだからこそ、魔力の消耗を少しでも抑えるものがあるなら見ておきたい。
全部を一度に揃える気はない。
むしろ、一度に買うべきではない。
必要なものから、ちゃんと選ぶ。
そう決めて石樽亭を出たのは、昼前だった。
王都の昼は朝よりも露骨だ。
通りごとの匂いが強くなる。
パン屋の前は焼けた粉の匂い、肉屋の前は脂、革細工の店先は油と獣皮、鍛冶屋の周囲は鉄と熱。
ナタリアはまず、その鉄と熱の匂いを目指した。
鍛冶屋は表通りから一本入った、少し狭い通り沿いにあった。
看板は地味だ。
だが扉の前に出された金具や刃物の手入れ具合を見るだけで、仕事の雑さは薄いと分かる。
中へ入ると、炉の熱がまだ残っていた。
昼前の時間帯で、今日は大物の打ち込みを一段落させたところらしい。
奥から出てきたのは、五十前後に見える男だった。
太い腕、焼けた前掛け、鼻の上に煤。
いかにも鍛冶屋のおっさん、という顔だ。
「いらっしゃい」
言いながら、彼の目は一瞬だけナタリアの全身を値踏みした。
侯爵令嬢然とした整った顔。
けれど今の服は石樽亭まわりで着ている実用寄りのもので、装飾も薄い。
とはいえ、鍛冶屋へ武具を見に来る客には見えにくいのだろう。
「見せ物なら他へ行きな」
半ば冗談、半ば本気の声だった。
ナタリアは棚へ視線を流しながら返す。
「使うものを見に来たのだけれど」
「へえ」
「長靴、自前で一足。できれば泥仕事向き」
「あと、作業用の短剣を見たいわ」
おっさんの眉が少しだけ動く。
「飾りじゃなく?」
「使わない物に払う余裕はないの」
それで彼の目の色が少し変わった。
棚から二足、長靴が出てくる。
一つは見た目の革がきれいだが、底が少し硬い。
もう一つは見栄えは地味だが、足首の返しが利く作りだ。
ナタリアは迷わず後者を手に取った。
縫い目を見て、底を押し、踵の重さを確認する。
「こっちね」
「理由は?」
「濡れた石で返しやすい」
「前のは底が勝ちすぎて、泥で踏ん張る時に少し遅いでしょう」
おっさんが鼻で笑った。
「へえ。分かってるじゃねえか」
「現場で困るのは、だいたい見栄を優先した道具よ」
次に短剣。
鍛冶屋のおっさんは最初、装飾の少ない実用品を二本出した。
ナタリアは一本の柄を握り、重心を見た瞬間に首を振る。
「これ、柄に装飾が要りすぎるわ」
「そんなに派手でもないだろ」
「泥と血が入る隙間が増えるだけでしょう」
「研ぎ直しもしづらい」
「こっちの方がいいわね」
もう一本は、鈍い鉄色で飾り気がない。
その代わり、握りが細すぎず、濡れた手袋でも滑りにくい。
重心も柄寄りで、切るより抉る、撫でる、剥がすといった雑務寄りの使い方に向いていた。
おっさんは完全に面白くなったらしい。
腰の角度まで変わった。
「嬢ちゃん、見た目の飾りじゃなくて使う方か」
「だからそう言っているのだけれど」
「貴族の娘ってのは、もっとこう、金ぴかの短剣だの薄い刃だのを見たがるもんだと思ってたが」
「使わない物に払う余裕はないの」
ナタリアはさっきと同じ言葉を、少しだけ違う温度で繰り返した。
「それに、飾りで仕事はできないでしょう」
そこから先は早かった。
道具の話が通じる相手とは、だいたい話が早い。
おっさんは長靴の手入れ用油の使い方まで説明し、短剣の研ぎ癖を言い、最後には「次の研ぎは持ってこい」とまで言った。
「その代わり、変なところで素人に研がせるなよ」
「刃が死ぬ」
「分かったわ」
「分かった、じゃねえ」
「本当に持ってこい」
「ええ。必要なら」
おっさんはそこで鼻を鳴らし、少しだけ値をまけた。
わざとらしい値引きではない。
「話が通じるから」という程度の下げ方。
それがむしろ気分がよかった。
鍛冶屋を出たあと、ナタリアは通りを一本横へ曲がった。
表から見れば雑貨屋だが、宿の女将に「地味な小物ならあそこ」と教えられていた店がある。
表の棚には、紐、針、香草、保存瓶、簡易護符、旅の小袋。
店先だけ見ると本当に普通の雑貨屋だ。
だが奥の棚には、魔力を帯びた小物が混ざっているのだという。
鈴の付いた扉を鳴らして入ると、店の奥から細い声がした。
「いらっしゃい」
出てきたのは、小さな老婆だった。
背は低く、腰も少し曲がっている。
だが目だけは妙に澄んでいて、人の外側より中身を先に見ているような目をしていた。
「おや」
ばーさんはナタリアを見るなり、少しだけ口元を上げた。
「あんたみたいなのが、こういう店に来るのかい」
「こういう店だから来たのだけれど」
「へえ」
その返しで、ばーさんの口元の皺が少し深くなる。
嫌な感じはしない。
値踏みがひとつ終わった顔だ。
「魔力系の小物を見たいの」
「派手なものじゃなくていいわ」
「できれば、長く使う時に少し楽になるもの」
「強くなりたいわけじゃないのかい」
「そういうのは、別に指輪に頼らなくていいでしょう」
ばーさんが愉快そうに笑った。
「今どき珍しいねえ」
最初に出されたのは、見た目に分かりやすいものだった。
細工の多い銀の指輪。
小さな石のついた護符。
魔力の通りを強めるという触れ込みの腕輪。
ナタリアはそれらを一通り見て、首を振る。
「これ、飾りが多い」
「実地向きではないわね」
「ほほう」
「こっちは汗と泥で留めが死ぬ」
「これも引っかかる」
「魔力効率より見栄えが先でしょう」
ばーさんは驚かなかった。
むしろ、ようやく本題に入る顔で棚の下へ手を伸ばした。
「じゃあ、こっちだね」
出てきたのは、本当に地味な一本だった。
細い指輪。
銀とも鉄ともつかない鈍い色。
石も飾りもない。
ただ、触れた指先にだけ、ごく薄い涼しさが残る。
「強くはならないよ」
ばーさんが言う。
「でも、無駄に減らなくなる」
「魔力の散りを抑えるの?」
「そう」
「身体強化でも感知でも、ちょいちょい抜けるだろう?」
「それを少しまとめる。派手じゃない。けど、長く動く時は地味に効く」
ナタリアはその指輪を指へ通してみた。
ぴたりと馴染む。
大きすぎず、小さすぎず、違和感がない。
こういうものは、実際に使う時に違和感がないことが一番大事だ。
「十分ね」
その一言に、ばーさんは満足そうに頷いた。
「そう言うと思ったよ」
「高い?」
「高すぎはしない」
「でも安くもない」
「その言い方なら、払う価値はあるのでしょうね」
「分かるかい」
「いま出してくださったものの中では、一番まっとうだもの」
ばーさんはそこでくつくつ笑った。
鍛冶屋のおっさんとはまた違う種類の“話が通じる相手を見つけた”顔だった。
「見た目は貴族のお嬢さん」
「でも選ぶものは、だいぶん地に足が着いてるじゃないか」
「実際に使うなら、そちらの方が大事でしょう」
「そうだねえ」
指輪を買う。
ばーさんは包む前にひとつだけ言った。
「それ、派手には助けないよ」
「ええ」
「でも、使いどころを間違えなければ、地味に効く」
「そういうのを探していたの」
店を出る時、ばーさんは最後にナタリアの背へ声をかけた。
「削るばっかりじゃなく、残す方も覚えな」
意味が一瞬だけ分からず、ナタリアは振り返る。
ばーさんはもう、何でもない顔で棚を整えていた。
「何のこと?」
「休みの日の話さ」
その返しに、ナタリアは少しだけ目を細めた。
女将といい、このばーさんといい、年を重ねた女は時々妙なところまで見てくる。
石樽亭へ戻る頃には、昼を少し過ぎていた。
部屋の机へ長靴、短剣、指輪を並べる。
ただの買い物だ。
だが、こうして自分の稼ぎで、自分の仕事に必要なものを選んで並べると、冒険者としての足場が少しだけ硬くなる感じがした。
長靴は現場の足。
短剣は雑務と仕留めの補助。
指輪は、長く動くための地味な底上げ。
どれも英雄譚の道具ではない。
だが、今のナタリアにとっては、そういうものの方がよほど必要だった。
指輪を嵌めたまま、少しだけ身体強化の気配を指先へ流してみる。
強くなる感じはない。
だが抜けが減る。
確かに、地味に効く。
「悪くないわね」
独り言のように呟き、ベッドへ腰を下ろす。
今日は依頼を受けない。
だから昼寝をしてもいい。
そう思えるだけの余裕が、いまはある。
横になり、目を閉じる。
外から聞こえるのは、通りの車輪、店先の声、石樽亭の下で皿を重ねる音。
何も起きない時間。
何も起きないのに、生活はちゃんと進んでいる時間。
それは案外、得がたいものだった。
目を覚ました時には、陽が少し傾いていた。
下へ下りると、女将の孫娘が真っ先に気づいた。
「おねーたん!」
「何かしら」
子どもはナタリアの手を見て、目を丸くする。
「きらきら」
指輪のことだろう。
だがそれを“きらきら”と呼ぶには、少し地味だ。
「きらきらではないわ」
「地味な方よ」
「でも、ある」
「ええ。あるわね」
そう言いながら頭を撫でると、女の子は満足げに笑った。
その笑い方があまりにも無防備で、ナタリアの口元も少しだけ緩む。
夕食は少し早かった。
休みの日だからだろう。
女将は湯をたっぷり使わせたこともあってか、今日はスープに少し脂を足してくれていた。
「買い物は済んだのかい」
「ええ」
「無駄遣いした顔じゃないね」
「失礼ね」
「褒めてるんだよ」
鍛冶屋のこと、雑貨店のことを少しだけ話す。
女将は「ほら言っただろう」と言い、下働きの少年は新しい長靴をじろじろ見た。
女将の孫娘は、指輪の方にしか興味がないらしい。
「おねーたん、それつよい?」
また同じことを聞かれる。
ナタリアは少しだけ考えたあと、首を横に振った。
「強くはならないわ」
「じゃあなに?」
「長く動けるようになるの」
子どもは難しい顔をした。
だが分かったふりをして頷く。
「たいへん」
「そうね。少しだけ」
食後、部屋へ戻る前に、ナタリアは女将へ一度だけ礼を言った。
「今日は助かったわ」
「たまにはちゃんと休みな」
「そうするつもりよ」
「そういう顔してる時は、だいたい次にまた面倒が来るからね」
それは予言でも何でもなく、ただの経験則なのだろう。
でもたぶん、その通りだ。
部屋へ戻る。
窓の外はもう暗くなり始めていた。
机の上に並べた新しい道具をもう一度見る。
指輪を外して、また嵌める。
違和感はない。
派手ではない。
けれど、こういうものの方が、仕事の底を静かに押し上げる。
ナタリアは灯りを少し絞り、寝台へ腰を下ろした。
今日は依頼を受けていない。
泥も血もない。
その代わり、明日からの足場が少しだけ増えた。
悪くない休みだったわね。
そう思って、ナタリアは静かに目を閉じた。




