第17話 想定外
午前の依頼は、拍子抜けするほど穏やかに終わった。
北東水路沿いの低位スライム確認処理。
雨の少ない数日が続いたせいで水位は安定し、淀みは浅い。核の数も票の最低数を少し上回る程度で、崩すべきぬめりの筋も分かりやすかった。
石の縁に残る薄い藻を削り、曲がり角の水草を少し抜き、湧きやすい浅瀬だけを先に潰す。
それで十分だった。
受付嬢へ報告を戻した時、彼女は核袋を見て苦笑した。
「今日も少し多いですね」
「近くに残っていたもの」
「毎回それを言いますね」
「毎回そうだからでしょう」
もうそのやり取りに誰も驚かない。
ガレスも柱にもたれたまま鼻で笑っただけで、わざわざ口を挟んではこなかった。
Eランクになってから、働き方はすっかり固まっている。
午前に一件。午後に一件。
それでまだ日が高ければ、近場のF依頼を一枚抜く。
基本報酬だけで一日は回る。けれど少し多く持ち帰る癖のせいで、追加買い取りがじわじわ効く。
長靴。面布。皮手袋。借り物のままで済ませず、自前で揃える順番も頭の中で組めるようになった。
生活がやっと、底ではなく土台になり始めている。
だからその日の午後も、ナタリアは普段と同じ調子で依頼板の前へ立った。
Eランクの札の列。
用水路補修補助。毒虫駆除。小型魔魚処理。街道脇見張り排除。
その中で、少しだけ目を止めたのが一枚。
丘裾の採石場跡周辺 低位魔物確認および荷道安全確認
討伐ではない。
確認。
必要があれば軽い駆除。
採石場跡へ続く荷道を、最近また商人が使い始めたので、低位魔物の流入がないか一度見てほしい――そういう依頼だ。
距離は少しあるが、日帰りには十分。
危険度はE相当。
確認仕事としては過不足ない。
「それを取るのか」
ガレスが横から言った。
「何か問題でも?」
「問題はない」
彼は腕を組み直し、依頼票へ視線を落とす。
「ただ、あそこは最近静かすぎる」
「静かすぎる、ね」
「低位の散り方が妙だって話が少しあった」
「まあ、だから確認依頼なんだろうが」
ナタリアは札を抜く。
「つまり、行って見ろということでしょう?」
「雑に言えばそうだ」
「なら行くわ」
受付嬢へ札を渡す。
彼女はすぐに記録簿を開いた。
「丘裾採石場跡周辺、低位魔物確認および荷道安全確認」
「依頼主は北荷商組合。近ごろ止めていた荷道を再開したいので、先に安全確認をとのことです」
「対象の低位魔物は?」
「票の時点では、低位ネズミと低位スライムの痕跡報告だけです」
「追加の討伐指定はありません」
「現地確認優先、必要なら軽く処理」
「はい」
そこまで聞いて、ナタリアは頷いた。
票面だけなら確かに軽い。
少なくとも、そう見える。
ガレスが最後に一言だけ落とした。
「荷道の位置は先に見ろ」
「助言としては有用ね」
「毎回その返しだな」
「毎回有用だからでしょう」
ギルドを出た時、空は高かった。
午後の光は強いが、まだ夕方の匂いはない。
荷道安全確認。
それが終われば、時間次第で近場を一枚。
今日もそういう日になるはずだった。
丘裾の採石場跡へ向かう道は、王都の外れから少し斜面を上る。
かつて石を切り出していた場所らしく、途中から地面の質が変わる。土より石が増え、踏みしめた感触が硬い。
道幅は荷車二台がぎりぎりすれ違える程度。
ところどころに古い轍が残り、使われなくなっていた期間の雑草が車輪の跡を縁取っている。
荷道そのものはまだ生きている。
だが「使える」と「安全に使える」は別だ。
ナタリアは歩きながら、道の傷み方を見た。
崩れた縁。
滑りやすい砂利。
草に埋もれた横道。
これだけでも、適当に歩く者なら足を取られる。
採石場跡が見えてくる少し前で、ナタリアの足が止まった。
静かだ。
鳥の声がない、というほどではない。
風もある。草も揺れている。
けれど、依頼票にあるような低位ネズミや低位スライムがいる場所の静けさではなかった。
低位の気配が散りすぎている。
目に見える死骸はない。
だが、浅い土の上に残る小さな足跡が、途中から急に途切れている。
逃げたのではない。
押し出されたのでもない。
もっと一方向に、圧をかけられて消えている。
ナタリアはその場にしゃがみ、指先で土をなぞった。
深い。
低位ネズミの細かい足跡の上から、重いものが踏んでいる。
しかも一回ではない。
往復ではなく巡回に近い。
ここを自分の導線にしている。
「……票が古い」
口をついて出た声は、いつものナタリアの声より少し低かった。
しかも、ちょっとじゃない。
面倒な。
立ち上がる。
視線を少し上げる。
採石場跡そのものは見える。切り取られた石壁、崩れた足場、放棄された資材置き場。
そしてそこから荷道へ下りる筋が、思ったより近い。
ここでようやくナタリアは自分の中の比率が変わるのを感じた。
ナタリアの顔をしたまま、考え方が少し荒く、少し短くなる。
見た目や所作は変わらない。
けれど、内側で判断を回しているのは、侯爵令嬢より前に、現場で想定外を引いた時の藤堂の方だった。
勝てるかどうかは後だ。
先に考えるべきは、どこへ出したらまずいかだった。
荷道へ抜けるか。
いま下ってきたあの道へ出るなら、夕方までに荷車が入る可能性がある。
人足か、商人か、確認に来た組合の人間か。
誰でもいいが、あれを通すとまずい。
ナタリアは剣の柄へ手を置き、さらに進んだ。
採石場跡の石壁沿いを回る。
低位ネズミの散り方が、左へ偏っている。
つまり右側に何かいる。
風は右から。
臭いは薄い。
血の匂いも獣臭も強くはない。
若い個体。
それでも、軽い相手ではない。
石壁の角を一つ回ったところで、痕跡がはっきりした。
爪跡。
木ではなく、柔らかい石肌に浅く入っている。
高い位置にもある。
低位魔物ではない。
熊系。
さらに先、土の上に残る足型。
大きいが、成体ほどではない。
前肢の重さが強く、後ろは流している。
若い。
若いが、若いだけだ。弱いわけではない。
「鉄爪熊か」
思考が声へ落ちる。
その言い方も、少しおっさん寄りだと自分で分かった。
だがいまは直す気もない。
視線の端で、何かが動いた。
採石場の崩れた資材置き場の陰。
黒ではない。焦げ茶に灰が混じった毛並み。
肩が高い。
若い単独個体。
Cランク相当。
依頼票に書かれている「低位魔物確認」とは、まるで釣り合わない。
鉄爪熊は、こちらへまっすぐ来なかった。
まず顔を上げ、風を取る。
次に半身を見せ、荷道側へ動ける角度を探る。
賢い。
正面から吠えてくる方が楽だった。
だがこいつは違う。
逃げるのではなく、抜ける道を見ている。
そっちへ行くな。
ナタリアは声に出さず、体を切った。
荷道と熊の間へ、自分を置く。
それで相手も理解したらしい。
低く喉を鳴らし、肩を揺らす。
ここで逃がせば、荷道へ出る。
荷道へ出れば、次は運任せだ。
誰が踏むか分からない。
確認依頼を受けた冒険者が「Cでした」と戻ってきて済む形じゃない。
ったく、午後の確認仕事で出てくる面じゃねぇだろ。
そう毒づきながら、ナタリアは呼吸を落とした。
戦う。
ただし、勝つためではなく止めるために。
鉄爪熊が先に動く。
突進ではない。
前肢を大きく振るって、空間ごと払うような入り方。
若い個体でも、体重が乗ればまともに受けたくない重さだ。
ナタリアは正面を切らない。
半歩、斜め前。
熊の利き側を外す。
前肢の振り下ろしが空を裂いた瞬間、脇腹ではなく前脚寄りへ浅く一線。
止めるためではない。
軸を見るためだ。
熊がすぐに反転する。
若いが遅くない。
怒りで突っ込んでくるタイプでもない。
だから余計に厄介だ。
もう一度前肢。
今度は低い。脚を払う軌道。
ナタリアは剣ではなく足場を使った。
斜面の砕石へ重心を預け、滑る一歩を逆に利用して、相手の内側へ入る。
前脚の付け根にもう一度浅い傷。
深くは入れない。
深く入れて止まり切らなければ、その場で押し潰される。
熊が唸る。
石片が飛ぶ。
荷道へ向く。
ナタリアはそこで初めて身体強化の出力を上げた。
踏み込み一歩。
剣を構えるのではなく、進路に自分を差し込む。
熊の頭がこちらへ向く。
その一瞬で十分。
「戻れ」
誰に命じるようでもなく言って、ナタリアは横へ流した。
熊は直進を切られ、石壁側へ体勢を寄せる。
そこで足元が崩れる。
採石場跡の斜面に残る細かな砕石。
人の足では危険なそれが、体重のある熊にはもっと厄介になる。
よろけた。
そこで終わらせる。
一撃で頭を割る必要はない。
首筋。
動きが鈍る角度。
前脚の軸が崩れたまま戻らない深さ。
ナタリアの剣がそこへ通る。
熊が低い声を漏らし、体を半歩だけ引く。
だがもう遅い。
追撃は短い。喉へ入れるのではなく、首の根元をさらに押し切る。
血が石へ散り、重い体が横倒しになる。
しばらく、動かない。
ナタリアはすぐには近づかない。
呼吸を整えつつ、周囲の音を聞く。
他の気配。
追加個体。
低位魔物の戻り。
ない。
ようやく一歩近づき、熊の眼が死んでいるのを確認した。
「……Eの票じゃないな」
口をついて出た声は、まだ少し藤堂寄りのままだった。
そこでようやく、肩の力が一段だけ抜ける。
だが達成感は薄い。
代わりにすぐ、次の確認へ頭が回る。
荷道へ抜けていないか。
周囲の痕跡はどうか。
単独でいいのか。
この個体だけで済むか。
依頼票は更新必須。
組合の荷道再開は一旦止めるべきだ。
採石場跡の周囲を一周する。
小さな痕跡は散っている。
だが、この個体が圧していたせいで低位が逃げていたと見る方が自然だ。
つがいの痕跡も、追加個体の深い足跡もない。
単独。
それは幸いだった。
証明部位を取り、荷道の入口まで下りて、そこへ注意を記した目印布を結んだ。
冒険者が正式にやる仕事ではない。
だが、いまこの道を不用意に上がらせない方がいい。
確認依頼を受けた人間の最低限の処置としては、むしろ必要だった。
ギルドへ戻る足取りは、いつもの帰還とは違った。
重い。
疲れではなく、頭の中の比重が。
王都へ入る頃には、藤堂の比率は少しずつ下がっていた。
見た目も姿勢もまたナタリアへ戻る。
だが、内側の温度はまだ完全には整い切っていない。
ギルドの扉を開く。
中のざわめきが一瞬だけ止まるのは、血の付いた証明部位を抱えているからだけではない。
ナタリアの表情が、普段の“少し多く持って帰る仕事人”のそれではなかったからだ。
受付嬢が顔を上げる。
「お帰りなさ――」
そこで言葉が止まる。
布袋から覗く、低位魔物とは明らかに違う毛と爪。
彼女の表情がすぐに変わる。
「……何を、持ってきたんですか」
ナタリアは依頼票を机へ置いた。
「丘裾採石場跡の確認依頼」
「低位じゃないのが一体いた」
それだけでも十分異常だ。
ガレスが柱から離れ、受付へ寄る。
「何だ」
ナタリアは彼を見ない。
「鉄爪熊の若い単独個体」
「荷道へ抜ける位置だった」
「その場で止めた」
受付嬢が息を呑む。
ガレスが止まる。
「……お前、そこで逃がさなかったのか」
「逃がした先に人がいたもの」
その返答があまりにも当たり前に出たので、ガレスは数秒だけ黙った。
奥で椅子の音がした。
普段なら滅多に表へ出てこない扉が開き、重い足音が近づいてくる。
ギルドマスターだった。
四十代後半か五十前。
体格は大きすぎず、だが崩れていない。
現場を完全に離れた人間の身体ではない。
髪には少し白いものが混じり、目は鋭いというより、よく見慣れている目だった。
「状況をもう一度、短く」
出てきて最初の言葉がそれだった。
名乗りも挨拶もない。
そういう場ではないと分かっている。
ナタリアもそこで余計なことは言わない。
「依頼は低位魔物確認と荷道安全確認」
「現地で低位の散り方が変だった。深い足跡あり」
「採石場跡角の先で鉄爪熊若い単独個体を視認」
「進路は」
「荷道側を見る動きだった」
「荷道まで何歩だ」
「抜ければすぐ。止めないと戻りの荷に当たる」
「他の痕跡は」
「単独。周辺は浅い。低位は散ってた」
ギルドマスターはそこまで聞いて、証明部位を一瞥した。
偽物かどうかを見る目ではない。
報告との整合を見る目だ。
「逃がした場合の被害想定は」
「荷道再開前なら確認人員、再開後なら荷車か人足」
「どのみちまずい。だからその場で止めた」
ギルドマスターは一瞬だけ黙り、それから短く頷いた。
「……ついでに一つ」
ナタリアがそこで言った。
受付の空気が少し止まる。
この流れでまだ何か言うのか、と。
だがナタリアの中では、魔物を倒して終わりではなかった。
むしろそこから先の方が気になっている。
「依頼票の更新、遅い」
声は、まだ少しおっさん寄りだった。
「票が古いで済ませてたら、死人出るぞ?」
受付嬢が息を詰めた。
ガレスが目を細める。
ギルドマスターだけが表情を変えない。
「……続けろ」
短い一言。
ナタリアはそのまま続けた。
「確認依頼に討伐級が混じる流し方してる」
「しかも荷道絡みだ」
「今回、たまたま私だったから止まっただけで、別のEが踏んでたら荷道まで抜かれてもおかしくない」
そこで一瞬だけ「俺」と言いかけたのを、ナタリアは飲み込んだ。
飲み込んだが、たぶん何人かには分かっただろう。
いつもの令嬢口調ではない。
現場で想定外を引いた後の、もっと生々しい声音だ。
「確認と危険度修正を同じ流れで回してるから、一段遅れる」
「最低でも、荷道絡みの確認依頼だけは更新を前倒ししろ」
「票が現場に負けてる」
静かに聞いていたギルドマスターは、そこで初めて息を吐いた。
「分かった」
短い。
だが流すつもりのない返事だと分かる。
「その件はこっちで切る」
「報告書を残せ。口だけで流すには惜しい」
「ええ」
ナタリアも短く返した。
ここで長々と正論を重ねる趣味はない。
刺さったなら十分だ。
ギルドマスターはそこで視線を一度ナタリアの全身へ走らせ、改めて言った。
「もういい」
その響きに、周囲の空気が少し変わる。
終わりではなく、次へ移る合図だと分かったからだ。
「今からDランクで」
受付嬢が目を見開く。
ガレスは黙ったまま、わずかに顎を引いた。
周囲で聞いていた冒険者たちも、派手にざわつくことはしない。
ただ、空気が一段だけ張る。
ギルドマスターは続けた。
「Eの票でCを止めた」
「それでまだEに置く意味はない」
それだけで十分だった。
ナタリアは数秒だけ黙り、それからようやくいつもの自分の声へ少し戻って言う。
「そう」
Dランク。
早い。
だが、いまはその速さを喜ぶより、今日の依頼運用の方がまだ頭に残っている。
「なら次からそうするわ」
返事としてはそれで足りた。
受付嬢は慌てて記録簿を引き寄せ、更新札の準備を始める。
ガレスが横から低く言う。
「お前、本当にそういうところだな」
「どこが?」
「上がった時にもっと他に言うことがあるだろ」
「そうかしら」
ナタリアは証明部位の血を布で拭いながら肩を竦めた。
「今日はそれより、依頼票の方が気に入らないもの」
ガレスは鼻で笑った。
呆れているのか、感心しているのか、その両方か。
ギルドマスターは受付嬢へ二、三の指示を落とし、最後にナタリアへ向けて一言だけ残す。
「今日はもう帰れ」
それは命令というより、判断だった。
ナタリアもそれに逆らわない。
時間があればF依頼を一枚拾う。
それがいつもの回り方だ。
だが今日は違う。
違うと自分でも分かっている。
「ええ」
その短い返事が、今日だけは十分だった。
新しい札を受け取る。
Dの印。
重さはわずかしか変わらない。
けれど、その裏に乗る依頼の質は確実に変わる。
ナタリアは札を袋へしまった。
今日はもう帰る。
それだけで、この件の重さは十分伝わるだろう。
ギルドの扉を出る頃には、外の光はもう柔らかくなっていた。
午後の仕事を終えて、さらに一件拾うにはまだ時間がある。
だがその時間は、今日はもう切らない。
石樽亭までの道を歩きながら、ナタリアはようやく自分の中の比率が戻っていくのを感じた。
藤堂が前に出ていた分、少しだけ頭の内側が熱い。
だが、それも冷えるだろう。
湯を使って、飯を食って、寝ればいい。
石樽亭へ戻ると、女将が顔を上げた。
そしてナタリアの戻りの時間を見て、眉を動かす。
「今日は早いね」
「ええ」
「それに、顔が少し違う」
そこまで読まれているのは、少しだけ癪だった。
だが否定しても仕方ない。
「少しだけ面倒なものが混じっていたの」
「湯、多めに入れとくよ」
「助かるわ」
余計な説明を求めず、必要なものだけ先に出す。
女将のそういうところは、本当に仕事が早い。
階段の陰から孫娘が顔を出した。
「おねーたん」
「何かしら」
「きょー、どろ?」
ナタリアはその問いに、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「今日は、泥じゃないわ」
「じゃあなに?」
「少し、毛深いもの」
子どもは意味が分からないまま真剣に頷き、いつものように頭を撫でられるのを待った。
ナタリアはその頭をひと撫でしてから、桶の湯を受け取る。
部屋へ戻り、湯気の立つ布で腕を拭う。
顔を洗い、首筋を押さえ、ようやく今日一日の緊張が少しずつ下りていく。
票が古い。
荷道が近い。
止めないと抜ける。
死人が出る。
あの瞬間の判断は間違っていない。
だが、間違っていなかったことと疲れないことは別だ。
湯を使い終え、椅子へ腰を下ろす。
机の上に置いた新しい札を見た。
Dランク。
そこへ達したこと自体に、いまはあまり感慨がない。
ただ、次から扱う仕事の重さがまた少し変わる、その事実だけがある。
食堂へ下りると、女将は本当にスープを少し多めによそっていた。
豆煮込みに、黒パン、それに今日は少し濃い味の肉が入っている。
「今日は食っときな」
「見れば分かる?」
「年季だって言ったろう」
ナタリアは席へ着き、スプーンを取った。
今日だけは、追加で一件拾わない。
そのことに少しだけ空白を感じる自分もいる。
だが、空白を感じる程度で済んでいるなら、まだ大丈夫だ。
明日からはまた動く。
今日は止まる。
止まるべきところでは止まっている。
そう自分で言ったのだから、なおさらだ。
食堂の隅で、女将の孫娘が椅子の影からこちらを見ていた。
ナタリアが視線に気づくと、子どもは小さく笑って手を振る。
その何でもない仕草が、今日ばかりは妙にありがたかった。
スープを一口飲み、ナタリアは静かに息を吐く。
今日はもう帰る。
それでいい。
そう思えたのは、たぶん悪くないことだった。




