第16話 回り方
Eランクへ上がってから数日もすると、ナタリアの一日は少しずつ形を変えた。
Fの頃は、細かい依頼を拾っては動き、拾っては戻る、という感じだった。午前に二件、午後に三件。街の中を刻むように動いて、気づけば夕方になっている。あれはあれで悪くなかったが、Eになると一件ごとの重さが少し変わる。街の外へ出ることが増え、確認すべきことも増え、戻ってきた時に身体へ残る疲れの質も違った。
だから今は、午前に一件、午後に一件。それでまだ日が高ければ、依頼板の端から近場のF札を一枚抜く。最初のうちは受付嬢もいちいち目を丸くしていたが、今ではもう驚かない。E依頼を二件終えたあとにナタリアがそのまま帰らず、残った時間で近場の仕事を片づけていくのは、この一週間ほどで完全に「そういうもの」になっていた。
生活は、回り始めれば案外単純だ。
朝起きる。
食べる。
依頼を選ぶ。
現場へ行く。
片づける。
戻る。
湯を使う日なら使う。
食べる。
眠る。
その循環が崩れなければ、余計なところで力を削られずに済む。そこへE依頼の基本報酬が加わることで、一件ごとの重みもまた少し変わった。
Fの頃は、宿代と食費を見ながら動いていた。今日の分を回し、明日の朝までを確保し、その上で少しでも余れば湯や消耗品へ回す。だがE依頼は、一件終えた時点でまず一日が回る。宿代と二食、それに多少の消耗品まで含めても、ちゃんと足りる。そこに少し多めに持ち帰った分の買い取りが乗ると、ようやく「余り」が形を持つ。
大金ではない。
けれど、こういう細い上積みの方が生活を崩さずに底を上げる。
ナタリアはそれをよく知っていた。
二日に一度は湯浴みを入れる。間に合わない日は宿で湯をもらって身体を拭い、髪を結い直す。手袋の縫い目を見て、靴底の減りを確かめ、借り物より先に自前で揃えるべき道具を頭の中で並べる。長靴、面布、皮手袋。泥と汚水に入る以上、いずれ全部いる。だが全部を一度に買うより、まず使う頻度の高いものからだ。
石樽亭の女将は、そのあたりの気配をもう何も言わずに読んでいた。
「今日は湯、少し多めにしとくよ」
朝食のあと、ナタリアが依頼票を折りたたんで立ち上がる頃、女将が鍋の蓋を片手で持ったままそう言った。
「どうして?」
「今日は森側だろう?」
ナタリアは少し目を細めた。
確かに今日は街外れの用水路沿い低位スライム群生処理と、午後は小型ゴブリン見張りの排除。それなりに泥も付くし、帰りも遅くなる。
「長靴の泥の残り方でだいたい分かるんだよ」
横から、下働きの少年が得意げに言う。
女将の孫娘ではなく、宿で使われている子だ。ナタリアが初めて石樽亭へ来た頃は、いかにも「綺麗すぎる客」を遠巻きに見ていたのに、今では当たり前のように朝の皿を片づけていく。
「昨日の乾き方が違うんだ」
「街の中の泥と、外の泥って色が違うし」
「よく見ているのね」
「毎日見てりゃ分かるよ」
それはその通りだった。
見ている方も、見られている方も、毎日同じようにそこにいれば、さすがに輪郭ができる。
食堂の端で、女将の孫娘が椅子にしがみつきながらこちらを見ている。目が合うと、眠そうな顔のまま小さく手を上げた。
「おねーたん」
「何かしら」
「きょーも、どろどろ?」
「たぶん少し」
「くちゃい?」
「帰る頃にはね」
そう答えると、子どもは真剣な顔で頷いた。
その仕草が妙に可笑しくて、ナタリアは立ち上がりざまに小さな頭をひと撫でする。
「朝の挨拶は?」
「おはよー」
「はい、おはよう」
それだけで満足したらしい。女将の孫娘はまた椅子の影へ戻っていった。
石樽亭を出てギルドへ向かう頃には、王都の朝はもう完全に動き始めていた。荷車、商人、洗濯水、呼び込み、パンの匂い、昨日の残り火の匂い。それらを抜けてギルドの扉を押すと、中はいつものざわめきで満ちている。
ただし、そのざわめきの中に自分の居場所があるという感覚は、以前よりはっきりしていた。
もう誰も、ナタリアをただの「綺麗な新人」とは見ない。
美貌で視線を集めること自体は変わらないが、その先が違う。いま向けられる視線は、顔や胸元や長い脚を値踏みするだけのものではない。今日は何を持っていくのか、また少し多く片づけてくるのか、依頼板からどの札が消えるのか。そういう意味で見られている。
依頼板の前へ立つ。
Eランク側には、用水路沿い低位スライム群生処理、北外れの毒虫駆除、古墓地裏の夜鳴きネズミ駆除、街道脇の小型ゴブリン見張り排除、浅瀬の魔魚処理補助が並んでいた。
ナタリアはその中から用水路沿い低位スライム群生処理を抜き、少しだけ位置をずらしてもう一度見る。午後に時間を食いすぎないものがいい。そこで小型ゴブリン見張り排除を取った。
「今日も二件か」
横からガレスの声がした。
今日も当然のようにいる。柱にもたれ、腕を組み、人の出入りを見ている。確かに仕事をしているらしいことは前に聞いたが、それでも「いつもいる」という印象は消えない。
「ええ」
「用水路と見張りか」
「順番としては悪くないでしょう」
「悪くはない」
ガレスは札を横目で見て、少し顎を引く。
「用水路は今日は昨日より水量が多い」
「昨夜、上流で少し降ったらしい。石が余計に滑る」
「助言としては有用ね」
「今日は素直だな」
「仕事前にわざわざ喧嘩を売る必要は感じていないだけよ」
それに対し、ガレスは笑いもせず鼻で息を抜いた。
受付嬢へ札を渡す。彼女はもう説明を簡略化しても問題ない程度には、ナタリアの癖を把握していた。
「低位スライム群生処理、最低十体、危険度据え置き」
「見張りゴブリンは二体確認、街道脇の林の浅い位置です」
「帰還が早ければ、夕刻前に近場の札もまだ何枚か残ると思います」
「ありがとう」
その最後の一言が、もう完全に“当然の前提”になっているのが少し可笑しい。
午前の用水路沿い低位スライム群生処理は、街外れの幅広い水路だった。
石で縁取られた人工水路だが、管理が行き届いているとは言い難い。夏に近づくにつれ、水量が安定し、ぬめりが増え、藻と泥が溜まりやすくなる。そうなると低位スライムが居つく。水そのものが綺麗でも、流れの淀みと藻の厚みが重なると、あれは妙に増える。
依頼票には最低十体とある。
だがナタリアはもう、数字を見てそのまま受け取らない。
まず現場を見る。
水路の幅、浅瀬の位置、石の欠け、日陰の多い曲がり角、流れの遅い脇。
スライムの個体が見えていない場所でも、湧く条件は先に分かる。
そして大抵、最低数は最低でしかない。
今日もそうだった。
最初の浅瀬に二体。
そこを処理すると、その下流のぬめり帯に四体。
曲がり角に三体。
さらに少し離れた草陰に五体。
「最低十、ね」
それ以上は言わず、ナタリアは作業刃を抜いた。
低位スライムは弱い。
だが弱いことと、雑に処理していいことは別だ。
水中で潰せば核を見失いやすいし、流れに乗せれば下流でまた面倒になる。
だからここでも順番を決める。
流れの遅いものから。
核を取りやすいものから。
深いところは後。
必要なら石の位置を少し変え、ぬめりを削る。
ついでに水草も薄く取る。
見えている個体だけではなく、湧きやすい形そのものを少しだけ崩す。
結果として、持ち帰った核は十四個だった。
最低十に対して四つ多い。
大した誇張ではない。
だがこういう「少し多い」が毎回積み上がる。
用水路沿いの見張り番が、ナタリアの布袋を覗いて言った。
「また多いな」
「近くに残っていたもの」
「皆そう言うが、皆はそんなに持って帰らん」
「そう」
ナタリアはそれ以上反論しない。
反論したところで、持ち帰った数は変わらない。
午後の小型ゴブリン見張り排除は、街道脇の林に入ってすぐの位置だった。
これも二体確認という票だが、ナタリアはまず潜み場を探す。
浅い斜面。
折れた枝。
踏み荒らし。
削られた木肌。
火を使った跡はない。
つまり、長期の居着きではないが、定期的に出入りしている。
木の影を読むように進み、最初の一体を見つけた時点で、もう一体の位置もだいたい当たりがついた。
小型ゴブリンは、角ウサギほど速くない。
だが人を見る目があり、逃げる判断も早い。
だから追いかけると面倒だ。
追わせない。
切る位置を先に狭める。
一体目を落としたあと、二体目は半歩だけ退いた。
そこで逃がすのではなく、退路側へ回る。
相手から見れば、逃げた先にもう人がいる形になる。
その一瞬の迷いで十分だった。
処理を終え、潜み場を崩し、残っていた粗末な包みや骨片まで片づける。
これをしておかないと、次が居つきやすい。
戻りを遅らせるのは、何もスライムや泥掃除だけではない。
戻ってギルドへ報告すると、受付嬢は案の定、布袋を見てため息交じりに言った。
「……また追加分ですか」
「近くに残っていたもの」
「その“近くに残っていた”が毎回少し多いんです」
「そういうものでしょう?」
受付嬢は何か言い返しかけ、結局やめた。
ナタリアにその感覚が本気なのは、もう十分分かっている。
横からガレスが布袋を覗き込む。
「お前、だいたい少し多く持って帰るな」
「足りているのと、足りていないの中間が気持ち悪いのよ」
「その言い方で毎回通すつもりか」
「だめかしら」
「だめじゃない」
ガレスは肩をすくめる。
「だめじゃないのが余計に厄介だ」
報酬を受け取る。
基本分に追加買い取りが乗る。
一回ごとなら小さな差だ。
だが、宿代と食費、その向こう側へ届く細い上積みになる。
今日も日がまだ高い。
以前ほど誰も驚かないまま、ナタリアは依頼板の端へ歩く。
そこに残っていたのは、北裏路地の泥掃きと、迷い犬捜索、洗濯場の荷運び補助。
このうち一番近いのは泥掃きだ。
短く終わり、今日はもう十分汚れている。ならついでに片づけた方がいい。
札を抜く。
受付嬢は何も言わず、処理票を先に寄せた。
それだけで、もう前話の繰り返しにはならない。驚きではなく、習慣になったのだ。
「北裏路地、泥掃き。日没前まで」
「ええ」
「今日は湯を先に多めに頼んでおいた方が良さそうですね」
「そうね。女将もそのつもりでしょう」
「もう完全に読まれてますね」
「お互い様よ」
そう返してギルドを出る頃には、ガレスの視線が背中に乗る。
「お前、本当に止まるのが下手だな」
振り返らずにナタリアは言った。
「止まるべきところでは止まっているわ」
北裏路地の泥掃きは、言ってしまえば単純なF依頼だ。
昨夜の雨で溜まった泥を寄せ、流れを作り、通りを使えるように戻す。それだけ。
ただし、“それだけ”を雑にやると翌朝にはまた人が滑る。
裏路地に住む洗濯女が、ナタリアを見るなり手を止めた。
「またあんたかい」
「“また”?」
「この前も排水やってただろ」
「前より持ったんだよ。助かった」
そう言われても、ナタリアは肩を竦めるだけだ。
「それなら結構」
泥掃き具を借り、路地の入口から順に流れを作る。
ここでも順番は同じだ。
出口を先に広げ、流れの筋を通し、重い泥を端へ逃がす。
通りの真ん中だけ綺麗にしても意味がない。人が使うのは端も同じだからだ。
陽が少し赤みを帯びる頃、依頼は終わった。
今日の三件目としては軽い。
だが、終わった時の整い方は悪くない。
石樽亭へ戻ると、女将は本当に湯を多めに用意していた。
「今日は多かったろう」
「ええ」
「顔見りゃ分かる」
「それ、便利ね」
「年季だよ」
湯気の立つ桶を受け取り、ナタリアは二階へ上がる。
部屋で泥を落とし、顔と腕を拭い、髪をほどいて再び結ぶ。
こういう手入れを惜しまなくなったのも、追加分の買い取りが毎回じわじわ効いているからだ。
一度ごとなら大した額ではない。
だが、その「大したことのない額」が、湯を遠慮しなくていい理由になる。
夕食は豆煮込みに黒パン、それに少し塩の強い肉。
前より一枚だけ肉が厚い気がしたが、気のせいかもしれない。
配膳の少女は何も言わずに皿を置いていく。
「今日は多かったの?」
椅子の脚の陰から、女将の孫娘が顔を出す。
「ええ。少しだけ」
「きょーもどろどろ」
「そうね」
「おねーたん、つよい?」
唐突な問いに、ナタリアはスプーンを止めた。
子どもの質問は時々、驚くほどまっすぐだ。
「どうかしら」
「つよいと、おしごといっぱい?」
「そういう日もあるわ」
女の子は真剣に考えてから頷いた。
それが何の結論なのかは分からない。
だが、また頭を撫でてほしそうに少しだけ近づくので、ナタリアは食後にその頭をひと撫でした。
「寝る時間でしょう」
「うん」
「歯を磨いてからね」
「うん」
素直に引っ込むのを見ると、どこか学園の下級生たちとは違う単純さがある。
そこが、少しだけ楽だった。
翌日もまた、朝は同じように来る。
起きて、食べて、ギルドへ行く。
E依頼を一件、午後にもう一件。
その日もたいてい、最低条件より少し多く持ち帰った。
角ウサギなら七。
低位スライムなら十五。
夜鳴きネズミなら巣ごと潰す。
毒虫駆除なら隣接区画の入口まで見ておく。
毎回、大きく逸脱するわけではない。
ただ、大抵少し多い。
その「少し」が戻りを遅らせ、追加買い取りを生み、宿の湯や自前の手袋へ変わっていく。
数日もすると、ギルドでも宿でも、それが完全にナタリアの癖として定着した。
「また追加分ですか」
「近くに残っていたもの」
「今日もですか」
「今日もよ」
「……本当に、そういう方なんですね」
「何だと思っていたの?」
受付嬢が少しだけ笑う。
「最初は、もっと気まぐれな方かと」
「そう」
ナタリアは小銀貨と銅貨を袋へしまう。
「では、期待外れだったかしら」
「いいえ」
受付嬢はきっぱりと言った。
「むしろ逆です」
その返答に、ナタリアは一瞬だけ視線を上げ、それから何も言わずに依頼板へ戻った。
期待というものは、過剰に受け止めると面倒になる。
だが、まっとうな評価なら別に悪くない。
その日の夕方、ガレスがいつもの柱から離れ、珍しく受付の横まで来て言った。
「お前、本当に止まらねえな」
ナタリアは依頼札を見たまま答える。
「止まる必要がないからでしょう」
「必要がなくても止まるやつは止まる」
「では私は、そういうやつではないのね」
「見りゃ分かる」
ガレスはそう言い、少しだけ目を細めた。
最初の頃の“様子見”とは違う。
今そこにあるのは、理解の先に来る評価だ。
「Eに上がっても、結局下を拾う」
「数も少し多い」
「戻りも遅い」
「地味に稼ぐ」
そこで彼は鼻で笑う。
「本当に、お前はそういう女だな」
「地味な方が残るのよ」
ナタリアが平然と返すと、受付嬢が横で小さく頷いた。
「それは、そうかもしれません」
ギルドの空気は、もう完全に“新人”のものではない。
誰も騒がない。
誰も持ち上げすぎない。
ただ、ナタリアがそういう働き方をする者としてそこにいる。それだけが定着していた。
そしてその定着こそが、たぶん一番得難いものなのだろう。
その日もまた、E依頼を二件終えたあと、まだ日が高かった。
依頼板の端から、ナタリアは当然のように近場のF札を一枚抜く。
最初の頃のように「まだやるのか」と驚く者はいない。
受付嬢は先に処理票を引き寄せ、ガレスはもうわざわざ口を挟まない。
一件で足りるようになっても、空いた時間が消えるわけではない。
なら、残っているものを片づけるだけだ。
それがナタリアの回り方だった。




