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断罪された侯爵令嬢は、戦場で完成した。なお中身はおっさんである  作者: 月白ふゆ


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第15話 空いた場所

ナタリア・ヴォルディアが学園を去ってから、まだそれほど日が経ったわけではない。


 けれど王立学院という場所は、人が一人いなくなっただけでも、その者が占めていた位置の重さによっては驚くほど空気が変わる。


 しかもそれが、最初から輪の中心で笑っていた者ではなく、場の端に立ちながら、必要な時だけほんの少し空気を締めていた種類の人間なら、なおさらだった。


 朝の鐘が鳴る。


 石造りの廊下に、朝の光が斜めに差し込む。

 窓は磨かれ、床も昨日と同じように整えられている。

 侍女たちは慣れた手つきで花瓶の水を替え、下男たちは教室前の小卓を運び、教師たちは何事もなかったような顔で一日の準備を進めていた。


 見た目だけなら、何も変わっていない。


 だが、細いところが違った。


 たとえば、廊下を歩く列の幅。

 以前なら自然に一列へ収まっていた上位生徒たちが、今日は少しだけ広がる。

 道を譲るべきところで譲らず、譲られるべき側も譲られ慣れすぎているせいで、小さくぶつかりかける。

 誰かが言えば済む話だ。

 だが、その「誰か」がいないと、驚くほど人はそのまま流す。


 礼法室の前では、男爵家の少女が本を胸に抱えたまま、扉の脇で一度立ち止まった。

 中へ入る前に何か確認したいことがあるのだろう。

 けれど、少し先にいた伯爵家の姉妹が楽しげに話し込みながら場所を塞いでいて、少女は口を開きかけたまま結局引いた。


 図書室でも似たようなことが起きていた。


 高い棚の上段にある分厚い地誌を取ろうとして、子爵家の三女がつま先立ちになる。

 前なら、気づいた誰かが椅子を寄せたかもしれないし、あるいはもっと無言で手が伸びていたかもしれない。

 だが今日は、近くの生徒たちは見て見ぬふりをした。

 悪意があるわけではない。

 単に、自分が動くことを誰も選ばなかっただけだ。


 そういう細い乱れが、朝のうちからあちこちに残っていた。


 低位貴族の下級生たちは、それを誰よりも敏感に感じていた。


 礼法の授業へ向かう途中、小さな談話室の前で、三人の少女が足を止める。

 男爵家、子爵家、伯爵家の末娘。

 学年も立場も微妙に違うが、同じように「上の空気に押されやすい」側の子たちだった。


「最近、少しやりにくいわね」


 最初に言ったのは、栗色の髪をきっちり結んだ男爵令嬢だった。

 声は小さい。

 誰かに聞かれることを恐れているというより、自分の感覚にまだ確信が持てない声音だ。


 伯爵家の三女が、視線を落としたまま頷く。


「ええ」


「何か、というわけではないのだけれど」


「分かるわ」


 子爵家の少女が本を抱え直しながら続ける。


「前より、少しだけ息を吸いにくい感じがするの」


 その表現が妙に正確で、三人ともそこで少し黙った。


 息が吸いにくい。


 誰かが露骨にいじめてくるわけではない。

 罵倒が飛ぶわけでもない。

 ただ、ほんの少し発言の間が遅れると、そのまま誰かが話を取る。

 遠慮して一歩引くと、その位置のまま戻れない。

 何かを尋ねたい時、尋ねてもよい空気を作る人がいない。


 以前も同じようなことはあったはずだ。

 なのに今の方が、妙にそれが目につく。


「……ナタリアお姉様がいらした時は」


 男爵令嬢がぽつりとこぼし、そこで自分でもはっとしたように唇を噛んだ。


 残り二人はすぐには何も言わない。

 否定できないからだ。


 ナタリア・ヴォルディアは、彼女たちにとって優しい人ではなかった。

 甘やかしてくれる人でもない。

 困っていれば必ず助けてくれる、という類の分かりやすい庇護者でもなかった。


 けれど、いた。


 そして、いることで場が少し締まっていた。


「お姉様は、何も庇ってくださらなかったのに」


 伯爵家の三女が小さく言う。


「でも……いらっしゃるだけで、少し違ったのよね」


 その言い方が、一番しっくりきた。


 庇うわけではない。

 味方を宣言するわけでもない。

 ただ、明らかに筋の通らないことや、みっともない押し方があった時だけ、冷たい一言で線を引いていた。

 だから、誰もが少しだけ“やりすぎないように”していた。


 その楔のようなものが抜けた。

 そう理解すると、今の息苦しさにも妙に説明がつく。


「お姉様、今ごろどうしていらっしゃるのかしら」


 子爵家の少女が呟く。


「王都、ですわよね」


「たぶん」


 男爵令嬢は曖昧に頷き、それ以上は言わなかった。

 もう学園の生徒ではない人の話を、ここで長くするのも妙なことだったし、それ以上に、誰も正確には知らない。


 知っているのは、去ったことだけ。

 そして、去ったあとに空いた場所が思った以上に大きいことだけだ。


 訓練場でも、それは別の形で表れていた。


 剣の打ち合いの音が、以前より少し乱れて聞こえる。

 強い者が強いのは変わらない。

 だが、場の中でどこに視線を配るか、どこで止めるか、そういう細い判断が以前より粗い。


 剣術教師レイモンド・フェルンは、腕を組んでその様子を見ていた。


 エドワードの剣筋は、模擬戦の後から確かに変わった。

 良い意味でも悪い意味でも、以前より慎重になっている。

 一手目を通す前提で振るう癖は薄れた。

 崩れた後を意識するようにはなった。


 ただ、その変化が成熟へ向かっているかと問われれば、まだ違う。


 学びの過程にいる。

 それはよい。

 だがその過程にある者を取り巻く場の方が、少し緩くなってしまっている。


 上位生徒の押しが以前より強い。

 下級生は遠慮して引きすぎる。

 以前なら、その中間に冷や水を浴びせるような一言がどこかから飛んでいた。

 今はそれがない。


 惜しい侯爵令嬢、などという軽い言い方で済ませていた自分たちの認識は、もしかすると浅かったのかもしれない。


 レイモンドはふと、そう思った。


 あれは強い婚約者候補だっただけではない。

 少なくとも、この場では一種の楔でもあった。


 正面から主張するわけではない。

 だが、ずれた空気をずれたままにはしておかない。

 そういう立ち方をする人間は、抜けて初めて重さが分かる。


「最近、少し静かですわね」


 訓練場の端、見学席に近い場所で、セラフィナがそう言った。


 春の風が弱く吹き、彼女の髪を少しだけ揺らす。

 白に近い淡色のドレス。整った顔立ち。聖女としての清らかさを宿した立ち姿。

 以前なら、その存在だけで周囲の空気は華やいだのかもしれない。


 だが今、彼女の声に応じたエドワードの返事は半拍遅れた。


「……そうかもしれないな」


 木剣を手にしていた彼は、訓練を終えたばかりだった。

 汗はかいている。

 だが、以前より息の整え方が慎重だ。

 自分を粗く扱わなくなった、と言えば聞こえはいい。

 だが、どこか迷いも混じっている。


 セラフィナは訓練場を見回した。


「前より落ち着いた、と申しますか」


 そこで彼女自身が、少しだけ言葉に迷う。

 落ち着いた。

 それは良い意味のようでいて、どうもしっくりこない。


 以前は張っていたものが、今は抜けている。

 それを“穏やか”と呼ぶには、少しだけ違う気がする。


 エドワードはすぐには答えなかった。

 視線が無意識に、訓練場の端へ流れる。

 ナタリアが立っていた位置。

 冷たい目で構えを見ていた場所。

 勝手な言葉に一言だけ差し込んできた位置。


 そこには当然、誰もいない。


「静かになったのは、いいことではなくて?」


 セラフィナがそう言う時、自分で自分を説得しようとしている気配があった。


 エドワードは木剣の柄を少しだけ握り直した。


「……そうなら、良かったんだろうな」


 その返しで、セラフィナの目がわずかに揺れる。


 良かったんだろうな。

 つまり、そうなっていないと彼自身が感じている。

 言葉にしないだけで、彼もまたナタリア不在の空気を“満たされた結果”とは見ていない。


 セラフィナは唇を閉じた。

 自分が悪意で動いたわけではない。

 そこはいまも変わらない。

 だが、悪意がないことと、空いた場所が小さいこととは別だ。

 そのくらいは、もう分かっていた。


 訓練場の風が、少しだけ冷たく感じられた。


 その頃、王城では別の意味で静かな会話が交わされていた。


 レオニスの執務室は、華美ではないが隙がなかった。

 机の上は整理され、積まれた文書の高さにも意味がある。

 昼前の光が窓から差していたが、それすらもこの部屋では装飾ではなく、単に仕事のための明るさに見える。


 第一王子レオニスは、書類から目を上げずに言った。


「干渉はするな」


 部屋の奥、柱の影に近い場所に控えていた男が、静かに頭を下げる。


「ただ、見てこい」


「は」


「飾った報告はいらん」

「あれが実際に何をしているのか、それだけ持ってこい」


 “あれ”で通じる時点で、対象が誰かは決まっている。

 ナタリア・ヴォルディア。

 元第二王子婚約者候補。

 今は王都で冒険者をしている侯爵令嬢。


 レオニスは興味を持っていた。

 だが、それは単なる好奇ではない。

 弟の婚約者として早くから置かれていた女が、その枠を失った瞬間に自分で別の道を切った。

 その速度と、判断の硬さが気にかかる。


 反発なのか。

 一時の意地か。

 それとも本当に、自分であの道を選んだのか。


 そこを見誤るつもりはなかった。


 影の男は、命を受けてすぐに動いた。


 石樽亭という宿を突き止めるのは難しくなかった。

 ギルド近くの冒険者向け宿。

 夕朝付き。

 女将は気が強いが口は硬い。

 下働きはよく動き、宿泊客の出入りも多い。


 影はまず、表からではなく周囲の流れを見た。


 朝の時間、ナタリアはほぼ決まった時刻に下りてくる。

 朝食をとり、長くは居座らず、ギルドへ向かう。

 帰ってくる時刻は依頼によって違うが、夜更けまでは引っ張らない。

 泥仕事の日は二日に一度の頻度で湯を頼み、無理な日は桶で湯をもらって部屋へ上げる。

 支払いに曖昧さはない。

 余分な借りも作らない。

 だが、必要なところではきちんと使う。


 つまり、生活ができている。


 それが最初に分かったことだった。


 冒険者の真似事をしている貴族令嬢ではない。

 今日の仕事、今日の宿、今日の食事、明日のための最低限。

 そういうものを、自分で回している。


 ギルドでも、様子はすぐに見て取れた。


 最初の頃は、視線の集め方が違っていた。

 美しすぎる女、新人、貴族上がり。

 そういう意味で見られていた。

 だが数日で、それが変わる。


 依頼板の前で札を選ぶ時、受付嬢がもう妙な心配をしない。

 中堅冒険者のガレスが、軽口を交えながらも助言を飛ばす。

 周囲の常連が、値踏みではなく“あの女が今日は何を持っていくか”を見るようになる。


 FからEへ上がったことも、影は把握した。

 だが、それ以上に目を引いたのは評判の質だった。


 早い。

 雑ではない。

 戻りが遅い。


 排水掃除なら再発までが長い。

 雑用ならやり直しが少ない。

 捜索なら次の迷い方まで減る。

 依頼を片づけるというより、依頼源を圧縮している。


 そんな言い方を、影は心の中で初めて使った。


 さらに妙だったのは、宿まわりの空気だ。


 女将は湯の量を先に読んでいた。

 配膳の少女は、黒パンを切る厚みを気づかぬうちに調整している。

 下働きの少年は泥の付き方で依頼を当てる。

 そして、小さな子どもが一人、ナタリアの裾にまとわりついて「おねーたん」と呼んでいた。


 そこだけ見ると滑稽ですらある。

 王子妃候補だった女が、簡易宿で小さな子に頭を撫でている。

 だがその場に漂う空気は、奇妙なほど自然だった。


 王城へ戻った影は、必要な順に報告を並べた。


 宿。

 生活。

 依頼。

 昇格。

 評判。

 そして、最後に少しだけ間を置いて言う。


「遊びではないようです」


 レオニスは、机上の書類から視線を外した。

 それだけで、影は続きを求められていると理解する。


「暮らしを作っています」

「依頼をこなし、宿を取り、評判を積んでいます」

「勢いではなく、生活として成り立たせていると見てよいかと」


 レオニスはその報告を、少しも無駄にせず飲み込んだ。


「……そうか」


 驚いた顔はしない。

 予想外ではない。

 だが、予想以上ではある。


 彼はしばらく黙り、窓の外へ視線を向けた。

 王城の庭はよく整っている。

 だからこそ、そこで生きる者の多くは、整えられた中で動くことに慣れている。

 そこから外へ出て、自力で暮らしを組み直すのは、誰にでもできることではない。


「反発ではなく、選択だったか」


 その一言は、影へというより自分自身への確認に近かった。


 影は答えない。

 答える立場でもない。

 だが、そう見えたのは確かだった。


 ちょうどその時、扉の外から控えめな気配がした。

 許しを得て入ってきたのは、王付きの老文官だった。


「陛下がお呼びです」


 レオニスは短く頷き、影にはそこで下がれと目で命じた。


 アルドリック王は、私的な執務の間で一人書を見ていた。

 年齢に応じた重みを持ちながらも、目はまだ鈍らない。

 広く見て、狭く決める男の顔だった。


 レオニスが入ると、王は書から目を上げる。


「報告は受けた」


 前置きはない。

 その一言で十分だ。


「どう見た」


 レオニスもまた簡潔に返す。


「一時の意地ではありません」

「外へ出たのではなく、外で作ったと見るべきかと」


 王はしばし黙り、やがて小さく言った。


「根を下ろしたか」


 それは感心でも嘆きでもなく、事実確認の響きだった。


「そのようです」


 レオニスの返答も短い。


 王は書を閉じた。


「惜しいな」


 ふいにそう漏らした声は、以前学園側へ向けた苛立ちとも、第二王子への失望とも少し違っていた。

 惜しい。

 それは婚約者候補として、という意味だけではない。

 使い所を違えたことへの惜しさでもある。


 だが王はそこから先を長く言わない。

 言っても戻る話ではないからだ。


「しばらくは、そのまま見ていろ」


 レオニスへ向けてそう言う。

 干渉するな、とは言わない。

 だが、まだ動くな、という意味ははっきりある。


「承知しました」


 王城を出る時、レオニスはもう一度だけ窓の外を見た。


 ナタリア・ヴォルディアは、思った以上に早く立ち上がった。

 いや、もともと倒れ切ってはいなかったのかもしれない。

 ただ、置く場所が変わっただけで、そのまま動いた。


 その事実は、静かに重かった。


 一方その頃、学園では午後の授業が終わりかけていた。


 低位貴族の下級生たちは、朝と同じように小さな息苦しさを抱えたまま動いている。

 訓練場では、エドワードの木剣が空を切り、そのあとに生まれる間が少しだけ長い。

 セラフィナは彼の横に立ちながら、その間の意味を測りかねている。


 誰も大きく間違えてはいない。

 けれど以前より、少しだけ噛み合わない。


 その噛み合わなさを埋める人間は、もうここにはいなかった。


 そして、その不在をいちばん遠くから正確に見ているのは、当人ではなく、王城の窓辺に立つレオニスなのかもしれなかった。


「しばらくは、そのまま見ていろ」


 影へ下した命は、まだ生きている。


 見て、測る。

 飾りではなく、実際に何をしているかだけを拾う。

 それで十分だった。


 学園に空いた場所は、簡単には埋まらない。

 だが当の本人は、もう別の場所で足場を作り始めている。


 そのずれが、この先どこへ繋がるのか。

 まだ誰にも分からない。

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