第14話 角ウサギ
Eランクの依頼板は、Fのそれより少しだけ高い位置に掛けられていた。
ほんの少しだけ。
手を伸ばせば普通に届く高さだ。
だがその“ほんの少し”が、冒険者ギルドという場所では案外はっきり意味を持つらしい。
札の紙質が違うわけではない。
文字が豪華になるわけでもない。
並んでいる依頼だって、いきなり英雄譚めいたものへ飛ぶわけではない。
ただ、そこに混じる言葉が少し変わる。
護衛。
駆除。
巡回。
採集範囲拡大。
街外れ。
半日以上。
軽傷注意。
Fでは“誰でもできるが面倒”だったものが、Eでは“落ち着いてやれば一人でもこなせるが、甘く見ると怪我をする”へ一段上がる。
ナタリアは札を一枚ずつ見ていった。
用水路沿い低位スライム群生処理。
小型害獣追い払い。
薬草地帯の毒虫駆除。
共同倉庫夜間見回り補助。
そして、
北外れ畑地帯 角ウサギ三〜五匹の駆除
指先がそこで止まる。
距離は手頃。
街の外だが、一日で往復できる。
討伐系としては軽い。
Eの初回としては妥当。
極端に重くもなく、軽すぎもしない。
ナタリアはそれを抜いた。
「無難なところを取ったな」
横からガレスの声が飛んできた。
今日も今日とて、柱にもたれたまま腕を組み、見ている。
この男は本当にいつ働いているのだろうと思わないでもない。
「初回で極端なものを選ぶ意味がないでしょう」
そう返して札を受付へ置く。
受付嬢は依頼票を確認し、すぐに頷いた。
「北外れ畑地帯、角ウサギ三〜五匹。目撃は昨日夕方です」
「畑の管理人が直接持ち込んだ依頼で、被害は葉物が中心。距離は往復込みで半日強、討伐後に証明部位持ち込みで完了となります」
「上位個体の記載は?」
「ありません」
「目撃者の数え方は?」
「……そこまでは」
受付嬢が少し気まずそうに書類を見る。
ナタリアは鼻先で小さく息を吐いた。
そこが抜けるのは分からなくはない。
依頼票は万能ではない。
街外れの畑で兎型の魔獣が見えた、被害が出ている、ではだいたい数匹扱いになるのだろう。
とはいえ、その“だいたい”が現場では一番危ない。
「受けるわ」
ナタリアがそう言うと、受付嬢は手続きを進めた。
ガレスは腕を組んだまま、少しだけ顎を上げる。
「角ウサギは見た目に騙されるなよ」
「見た目で判断するつもりはないわ」
「脚が速い。突進で膝を割る」
「群れで散ると面倒だ。追うな。まとめろ」
ナタリアはそこで少しだけ横目を向けた。
「意外と、毎回ちゃんと助言をくださるのね」
「聞かれなくても死なれちゃ後味が悪い」
「そう」
それから少し間を置いて、ナタリアは言った。
「そういえば、貴方。いつもいるけれど、ちゃんと仕事はしているのかしら?」
ガレスの顔が、今度こそ少しだけ崩れた。
笑ったというほどではない。
だが、呆れたような、感心したような、半端な顔になる。
「してるさ」
「見えないのだけれど」
「お前が見てないだけだ」
「面倒ごとを拾うのも仕事のうちだ」
「なるほど」
ナタリアは大して興味もなさそうに札を受け取る。
「では、貴方はだいぶ働いているのね」
「……お前、たまに本気で腹立つな」
「たまにで済んでいるなら結構よ」
そのやり取りを受付嬢が横で聞いていて、うっかり吹き出しかけていた。
慌てて咳払いで誤魔化すあたり、まだ完全には慣れていないらしい。
「では、日没前までに帰還をお願いします」
「証明部位は耳、もしくは角の先端。上位個体がいた場合は、その個体のみ頭部確認でも可です」
「分かったわ」
ギルドを出ると、空はよく晴れていた。
春から初夏へ渡る途中のような陽気で、風は軽い。
街中はすでに午前の仕事に入っていて、荷車も人足もよく動いている。
北外れへ向かう道は最初こそ石畳だったが、途中から土の道へ変わり、左右の景色も店から畑へ移っていった。
王都の外れというのは、街の一部でありながら、もう半分は外の匂いがする。
乾いた土。
水路。
刈り草。
肥料。
遠くで鳴く家畜。
そういうものが混じり始めると、王都の中で感じていた“人の音”の密度が少し薄くなる。
畑地帯へ着くと、依頼主らしい中年の男が柵の前に立っていた。
農夫というより、畑の管理を任されている者の顔だ。
日に焼け、手は太く、靴に乾いた土がこびりついている。
ナタリアを見るなり、一瞬だけぎょっとした顔をした。
「……嬢ちゃんが来たのか」
「ええ。Eの依頼を受けたわ」
ギルド札を見せると、男は渋い顔のまま頷いた。
納得したというより、納得するしかない顔だ。
「見た目で驚くのは分かるけれど、依頼を受けて来たのは事実よ」
「状況を見せて」
「こっちだ」
男は案内しながら、畑の被害箇所を順に示した。
葉物がかじられている。
若い茎が折られている。
踏み荒らされた筋がある。
そこまでは依頼票通りだ。
だが、ナタリアは数歩歩いた時点で違和感を覚えた。
足跡が多い。
それも、ただ多いだけではない。
向きが散っていない。
複数の小型獣がいるならもっと乱れるはずの地面が、妙に筋立っている。
さらに被害が一方向ではなく、右手の畝にも、少し離れた奥にも飛んでいる。
糞の数も多い。
毛の残り方も、三〜五匹では説明がつかない。
ナタリアはしゃがみ、一つの足跡に指先を近づけた。
浅い。軽い。
これは普通個体。
次にもう一つ。
少し深い。
踏み込みが強い。
さらに奥。
明らかに大きい。
「三〜五ではないわね」
立ち上がりながらそう言うと、管理人が目を瞬く。
「何がだ?」
「角ウサギ」
「八、少なくともそれに近い」
「それと、一匹混じっている。少し大きいのが」
男の顔から血の気が引いた。
「そんなにいるのか」
「依頼票が追いついていないのよ」
ナタリアは畑の外周へ視線を滑らせる。
角ウサギはただの兎ではない。
見た目は愛玩向きの柔らかさを残していても、脚力と突進は魔獣のそれだ。
群れで畑へ入られると、作物は想像以上に荒らされる。
しかも上位個体が混じると、群れの散り方まで変わる。
「最近、被害が急に増えたんじゃない?」
「あ、ああ……ここ三日だ」
「それまでは二、三匹見たら追い払って終わりだったんだが」
「ならその大きいのがまとめ始めたのでしょうね」
男は何か言いたげに口を開き、結局閉じた。
今の時点で彼に必要なのは説明ではなく処理だ。
ナタリアは畑全体を見た。
戦う位置。
逃げ道。
群れが散る方向。
畝の傷み方。
風向き。
角ウサギを畑の中で相手にするのはよくない。
突進も跳躍もある。
暴れれば暴れるほど被害が増える。
なら、少し外へ寄せる必要がある。
「柵の南側、あの草地は?」
「放牧用だったが、今は空いてる」
「結構。そこで受けるわ」
管理人が不安そうに言う。
「一人でやるつもりか?」
「E依頼は、基本一人で受けるものなのでしょう?」
「まあ……そうだが」
「なら問題ないわ」
大言壮語ではなく、ただの確認の口調だった。
それが却って、男を黙らせる。
ナタリアは剣の位置を確かめ、呼吸を整えた。
学園の模擬戦とは違う。
相手は人ではない。
理性ではなく、速度と反射でぶつかってくる。
だからといって、戦い方の基本は変わらない。
見る。
読む。
崩す。
無駄を増やさない。
畑の柵沿いをゆっくり回り込み、被害の新しい箇所へ近づく。
気配を完全に殺す必要はない。
むしろ、こちらに気づかせた方がいい。
逃げる前に、どちらへ切るかを見たい。
最初に草陰から飛び出したのは、やはり普通個体だった。
白とも灰ともつかない毛。
額に短い角。
体格は兎より一回り大きい程度。
だが脚力は明らかに違う。
地面を蹴る瞬間の沈み込みが深い。
一体。
二体。
奥から三体目。
さらにもう二つ、草の揺れ。
群れは思った以上にまとまっていた。
ナタリアは剣を抜く。
同時に、足元へ最小限の身体強化。
速さではなく、踏み込みの安定のため。
一体目が突っ込んでくる。
真正面からではない。少し斜め。
角を当てるより、足を払う軌道だ。
「そういうの」
ナタリアは半歩ずれた。
それだけで角が空を切る。
すれ違いざま、首の付け根へ浅くではなく、きれいに一線。
勢いのまま倒れる。
二体目は跳ぶ。
着地地点を先に見て、そこへ刃を置く。
自分から入ってくる形になる。
血が土へ散る。
三体目と四体目は、一体ずつ来ない。
左右へ割れて、挟むように動く。
単純な獣ではない。群れとしての動きだ。
ナタリアはそこで少しだけ後ろへ下がる。
畑から草地へ、導線を引く。
追うのではなく、来させる。
五体目が柵際から飛び出し、六体目が少し遅れて続く。
ここでようやく群れの癖が見えた。
速い個体が先、遅い個体が後ろではない。
前へ出るのは、あえて軽い個体。
後ろに重いのがいる。
「なるほど」
つまり、大きいのが見ている。
ナタリアは普通個体をさらに二体落とし、群れの厚みを削る。
残りはまだいる。
だが動きが変わった。
散るのではなく、こちらを試すように距離を取る。
その瞬間、草地の奥が大きく揺れた。
上位個体だ。
一回り、いや二回り近く大きい。
毛色も濃い。
額の角が太く、短いのに圧がある。
普通個体より脚の運びが低く、無駄に跳ねない。
だからこそ重い。
管理人が後ろで息を呑むのが聞こえた。
「……いたか」
「ええ」
ナタリアは剣先をわずかに下げる。
普通個体を先に削って正解だった。
これを最初に落とせば残りは散り、畑へ戻っただろう。
先に群れの手数を減らしたから、ここで大きいのだけを見られる。
上位個体が突進してくる。
正面から受ける気はない。
角の軌道を見れば分かる。
ただの直線ではなく、最後に少しだけ上へ振り上がる。
人の膝や腹を狙うなら、それが自然だ。
ナタリアは横へではなく、斜め前へ踏み込んだ。
角を外す。
同時に前脚の付け根へ浅く傷を入れる。
止めるためではなく、リズムを崩すため。
上位個体が唸りに近い音を出し、土を蹴り直す。
賢い。すぐ立て直す。
二撃目はもっと重い。
今度は真横からではなく、回り込む気だ。
ナタリアはそこでようやく身体強化の出力を少し上げた。
踏み込み一歩。
剣筋一閃。
前脚の運びに合わせ、軌道を切る。
上位個体の重心がわずかに崩れた。
そこを逃がさない。
喉元。
ではなく、首の根元から斜めに入れる。
頭を落とす必要はない。
動きを止めるのに足りる深さだけ、無駄なく。
上位個体が地を滑って止まる。
土が少しだけ舞い、草が寝る。
残っていた普通個体が二体、そこでようやく散った。
だが走り去る方向が畑から外れているのを見て、ナタリアは追わない。
主を失った群れはまとまらない。
少なくとも今日の被害はここで止まる。
「……八」
倒れている通常個体をざっと数え、最後に大きいのを見て一つ足す。
「と、一匹」
依頼票の三〜五は、完全に古かった。
管理人が恐る恐る近づいてくる。
「終わったのか」
「少なくとも、今日ここへ入っている分は終わりよ」
剣の血を布で払いながら答える。
「依頼票は書き換えた方がいいわ」
「三〜五じゃないし、上位が一匹混じっていた」
男は倒れた角ウサギを見回し、最後に上位個体の太い角を見て、深く息を吐いた。
「こんなにいたのか……」
「最近やけに増えたのでしょう?」
「ああ。ここ三日で急にだ」
「子どもが近づいたら危なかった」
「そうね」
それ以上、余計な慰めは言わない。
必要なのは処理と報告だ。
証明部位として耳と角を取り、必要数だけを布袋へ入れる。
全部を抱えて戻る趣味はない。
上位個体の頭部確認が要るなら、管理人から一筆入れてもらえば足りる。
「これで十分?」
ナタリアが問うと、男は慌てて頷いた。
「あ、ああ。これだけあれば十分だ」
「……助かった」
「それなら結構」
ギルドへ戻る道は、来る時より軽かった。
土の匂いも、風の温度も、行きよりはっきり分かる。
仕事が終わったあとの感覚というのは、世界の輪郭を少しだけ鋭くする。
王都へ戻り、ギルドへ入る。
昼はもう過ぎているが、まだ夕方には早い。
空は高く、時間は残っていた。
受付へ向かうと、受付嬢が顔を上げる。
そして布袋と管理人の確認書を見て、一瞬だけ目を止めた。
「お帰りなさいませ」
「北外れ畑地帯、完了」
「証明部位はこちら。票は更新した方がいいわ」
受付嬢が布袋を開き、数を確認し、次に管理人の一筆へ目を落とす。
そこにある文字を読んだ瞬間、完全に顔が変わった。
「……上位?」
その声に、近くにいたガレスもこちらを見る。
「何だ」
「角ウサギ、三〜五のはずが八体と上位個体一、です」
ガレスの目が少し細くなる。
「初Eでそれを持って帰るのか」
ナタリアは平然と肩を竦めた。
「票が古いのよ」
「更新した方がいいわ」
「それで済ませるのか」
「他に何を?」
ガレスは少し黙り、それから鼻で笑う。
「現場で読むのが早いな」
「読めないと面倒でしょう」
受付嬢は報酬計算板を引き寄せる。
通常個体分の討伐報酬。
上位個体の追加。
危険度修正の仮加算。
管理人の確認書付きなので処理も早い。
「こちらが報酬になります」
並んだ貨幣を見て、ナタリアは少しだけ目を細めた。
F依頼を五件回した日より、一件で多い。
宿代、夕朝飯、装備手入れ、湯、消耗品。
全部入れても、一日は回る。
Eになったことの意味が、数字でようやく手触りを持った。
受付嬢もそれを分かっているのか、少しだけ柔らかく言う。
「今日の分でしたら、もう十分かと」
「ええ、十分よ」
ナタリアはすんなり認めた。
そして、そのまま依頼板へ視線を向ける。
「でも、まだ時間があるでしょう?」
受付嬢が一瞬きょとんとする。
横でガレスが呆れたように口を開く。
「上がっても結局それやるのか」
「近いし、軽いし、残っているもの」
ナタリアは依頼板の端へ歩いた。
E依頼を終えたあと、もう一件。
選ぶのは当然、近場で短く切れるF依頼。
迷い猫捜索。
路地の泥掃き。
倉庫街の簡易荷運び。
その中から、彼女は迷い猫の札を抜いた。
「これで」
受付嬢が目を丸くする。
「本当に、まだ受けるんですか」
「一日を回せるのと、手を止めるのは別でしょう」
それはあまりにもナタリアらしい言い方だった。
ガレスが肩で息を吐く。
「お前な……」
「何か問題でも?」
「問題はない」
「ただ、そういうところが本当に厄介だ」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
受付嬢は結局、もう何も言わずに手続きを進めた。
迷い猫捜索。近場。日暮れ前まで。
その依頼票を受け取る。
Eの札を胸元に付けたその日に、ナタリアはもう一枚、地味なF依頼を手にしていた。
足りるようになった。
それでも、空いた時間が消えるわけではない。
なら、次を片づけるだけだ。
ナタリアは依頼札を指に挟み、ギルドの扉へ向かう。
ガレスがその背へ、半ば呆れたように言った。
「倒れる前に戻ってこいよ」
ナタリアは振り返らず、片手だけ軽く上げる。
「ご心配なく」
そして、次の現場へ歩き出した。




