第13話 Fランクの終わり
《石樽亭》での朝は、妙に手際が良かった。
早朝、まだ外の空気が冷えている時間帯に起きる。窓を少しだけ開けて、部屋に残った夜の湿気を逃がす。顔を洗い、前日の汚れが完全に落ちきっているかを鏡代わりの磨き板で確認し、髪を結い直す。寝台の上を整え、水差しの残量を見て、今日の分の小銭を袋に分ける。そこまでやってから一階へ降りると、女将はたいていすでに鍋を見ていて、朝の配膳を手伝う少女は眠そうな顔でパン籠を運んでいる。
最初のうちは、宿の者たちもナタリアを「一泊二食の女冒険者」としか見ていなかった。だが三日もすると違ってきた。
黒パンを出す順番が少し早くなる。
スープをよそう量が、前日どれだけ泥に塗れたかで微妙に増減する。
湯を頼む日の顔を、女将が先回りして読む。
そういう小さな調整が、言葉より先に増えていった。
一週間もすると、宿のまわりにも顔見知りができる。
女将は無言で湯の量を加減し、朝の配膳係はナタリアが黒パンを浸すのが先か、スープを飲み切るのが先かを覚え、裏口の下働きの少年は長靴の泥の付き方だけでその日の依頼を当てるようになった。
馴れ合うほどではない。
だが、もう完全な他人でもなかった。
泥と下水の依頼が続く以上、身体の手入れは削れない。
二日に一度は湯浴みを入れ、無理な日は桶で湯をもらって部屋で身体と髪を拭う。
汚れる仕事をするのと、汚れたままでいるのは別だ。
そこを混同すると、生活はあっという間に崩れる。
それが分かるのは、たぶん前世のせいだろう。
きれいごとでは回らない現場ほど、案外そういうところで差がつく。
食う。
洗う。
寝る。
翌朝また動ける。
それが揃うだけで、だいぶ違う。
生活は、回り始めれば案外単純だった。
収支と体調と手間。その三つが崩れなければ続く。
その日も朝食は簡素だった。
薄い塩味の野菜スープに、黒パン、ゆで卵が一つ。
王城や学院で出る朝食に比べれば、貧相と言っていい。
だが、温かくて、食べるべき量がちゃんとあり、食べ終わる頃には身体が起きる。
それで十分だった。
食堂の隅の席で最後の一口を飲み干したところへ、女将の孫娘が寄ってきた。
五つか六つほどの、小さな子だ。
最初は物陰からじっと見るだけだったのに、三日目には椅子の脚の陰に座るようになり、四日目にはナタリアの靴を見上げ、五日目には完全に懐いた。
「おねーたん」
その呼び方に、ナタリアは最初だけ少し戸惑った。
学院では「お姉様」だった。
王城では「侯爵令嬢」。
宿では「ナタリアさん」か、せいぜい「お客さん」だと思っていた。
そこへ突然の「おねーたん」である。
だが、小さな子どもというものは、理屈の前に距離を決めるらしい。
「何かしら」
そう返しながら、ナタリアは立ち上がる。
すると女の子は眠そうな顔のまま、ナタリアのスカートの端を少しだけ掴んだ。
「きょーも、どろどろ?」
「たぶんそうね」
「くちゃい?」
ナタリアは一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。
「仕事の後なら、多少は」
正直に言うと、女の子は納得したようにうなずく。
そして当然のように頭を差し出してくるので、ナタリアはその柔らかい髪をひと撫でする。
「朝の挨拶くらいは先にしなさい」
「おはよー」
「はい、おはよう」
それで満足したらしい。女の子はぱたぱたと女将の方へ戻っていった。
女将は鍋をかき混ぜながら、その様子を見て少しだけ口元を緩めている。
「懐かれたねえ」
「子どもの判断基準は時々分からないわ」
「怖そうな顔してる人の方が、案外ちゃんと相手してくれるって知ってるのさ」
そう言われても、ナタリアには自覚がない。
ただ追い払う理由がないだけだ。
だが、それで十分なのだろう。
その日のギルドも、相変わらずざわついていた。
だがナタリアが扉を開けた時に走る視線は、最初の日とはもう質が違う。
比類なき美貌だの、スラリとした長身だの、そういう外見で見られること自体は変わらない。
だが今はそれに加えて、泥仕事を平然と終わらせる女、依頼を雑に終わらせない女、Fの仕事を持っていくと戻りが遅い女、という認識が上乗せされていた。
絡んできた連中もいる。
いるが、もう前みたいには近づいてこない。
少なくとも、刃物を抜くほど軽くは見ていないらしい。
依頼板の前へ立つ。
今日の札は、昨日よりさらに減っていた。
迷い猫捜索。
小川沿いの流木除去。
南倉庫の荷運び補助。
共同墓地の草刈り。
裏路地の排水掃除。
低位ネズミ駆除。
その他、細かな雑役。
ナタリアは指先で札を見ていく。
午前に二件。午後に三件。
最初の三日で試した結果、このくらいがいちばん無理なく回ると分かった。
ただ数を詰め込めばいいわけではない。
体力を落とせば翌日に響く。
翌日に響けば宿代と飯代が重くなる。
だから日々の最大ではなく、継続できる上限を使う。
「今日は何を持っていく」
ガレスが、いつの間にか横に立っていた。
「相変わらず、気配の立て方がいやらしいのね」
「慣れろ」
「選択肢としては検討するわ」
そう返しながら、ナタリアは札を三枚抜いた。
共同墓地の草刈り。
南倉庫の荷運び補助。
裏路地の排水掃除。
「午前に草刈りと荷運び。午後に排水?」
「ええ。逆にすると、泥のまま倉庫へ入ることになるもの」
ガレスが鼻を鳴らす。
「そういうところだけは妙にちゃんとしてるな」
「“だけ”ではないと思うのだけれど」
受付へ持っていく。
受付嬢は札を見るだけで、だいたいナタリアの組み方が読めるようになっていたらしい。
「今日は遠回りのない日ですね」
「午前中に体力仕事を固めた方が、午後の動きが軽いの」
「なるほど……」
最初は驚いてばかりだった受付嬢も、いまではこうして普通に会話できる。
依頼処理票を書きながら、彼女は小さく付け加えた。
「共同墓地の草刈りですが、昨日までなら二日おきに戻ってきていた依頼なんです」
「そう」
「先週、ナタリアさんが入ってからまだ貼り直してません」
ナタリアは少しだけ目を細める。
「なら、前のやり方が雑だったのでしょう」
「……そう、なんでしょうね」
受付嬢は苦笑気味に答えた。
ナタリアは自慢するつもりはない。
一度で済むなら、その方が手間が少ない。
ただそれだけだ。
共同墓地は、王都の北寄り、少し高い位置にあった。
墓石は古く、だが荒れているわけではない。
管理が行き届いていない、というより、手が足りていない場所だった。
草は膝丈まで伸びているが、道筋はまだ見える。
つまりあと一歩放置すれば面倒になる、ぎりぎりのところで依頼が出されている。
ナタリアは鎌を借り、まず墓地全体を見た。
草刈りは単純作業に見えるが、刈る順番を間違えると面倒が増える。
出入口側から中央を抜く。
そこから通路を作り、奥へ。
最後に墓石の根元。
いきなり端から全部刈ると、足元に草が溜まり、刈った場所と刈っていない場所の境で動きが鈍る。
そういうことを考えながら、鎌を入れる。
草が倒れる音は、泥かきとは違う気持ちよさがある。
乾いた繊維が一息に切れる音。
それだけで身体のリズムができる。
途中で墓守の老人が出てきて、しばらく黙って見ていた。
「嬢ちゃん、草刈り慣れてるのか」
「いいえ」
「それでその刈り方か」
「どれも結局、順番の問題でしょう」
老人はしばらく考え、結局「そうかもしれんな」とだけ言った。
午前の二件目、南倉庫の荷運び補助では、今度は別の意味で目立った。
依頼内容は、商会の荷を別棟へ移す単純作業だ。
だが“単純”と“雑にやっていい”は違う。
荷札を見て、重い順に積まず、下が潰れない順に積む。
移動距離の短いものを最後に回し、先に遠い方から片づける。
受け渡し側の並べ方も見て、崩れない場所へ置く。
途中で一緒に入ったFランクの男が二人、完全にナタリアのやり方へ引っ張られていた。
「そこ、縦にしない方がいいわ」
「角が潰れる」
「それは先。あちらへ行く荷とぶつかるから」
命令しているつもりはない。
ただ、見れば分かることを口にしただけだ。
だがその結果、作業は早く、破損もなく終わった。
商会の番頭が荷姿を見て、少し眉を上げる。
「今日は戻しが出なかったな」
「いつもは出るの?」
「箱の角が潰れたり、割れ物が混じったりな」
ナタリアはそれに対し、特に感想を述べない。
そういうものなのだろう。
だが一度で済むなら、その方がいい。
昼を挟み、午後は排水掃除と低位ネズミ駆除、それから小川沿いの流木除去。
どれも地味だ。
だが地味な仕事ほど、雑にやるとすぐ戻る。
排水掃除では、泥の溜まりを先に抜き、流れを作ってから細かい屑へ入る。
低位ネズミ駆除では、走り回る個体だけでなく、餌屑と逃げ道を見て、次に増えにくいよう整える。
小川の流木除去では、ただ目についた木だけを引くのではなく、上流から見て絡みそうな位置を先に崩す。
そのどれもが派手ではない。
だが終わった時、戻りが遅い。
四日目の朝には、受付嬢が依頼板の前で本当に首を傾げていた。
「……戻ってこない」
誰に言うでもなく呟いたその声を、ナタリアは聞いた。
「何が?」
「Fの札です」
受付嬢は依頼板を見たまま答える。
「いつもなら朝に貼り直す排水や簡易清掃が、今週は増えていません」
「共同墓地の草刈りも、北側路地の泥掃きも、低位スライム除去も……まだ戻ってこないんです」
「戻りが遅いなら、そうなるのでしょうね」
ナタリアが平然と言うので、受付嬢は笑うしかない。
「……そうですね」
ガレスはその会話を横で聞いていて、少しだけ面白そうに目を細めた。
「お前が片づけた仕事、戻りが遅いな」
「同じ依頼がすぐ戻る方が、気持ち悪いでしょう」
「その考えは嫌いじゃない」
「趣味は相変わらずよろしくないけれど」
そう返して依頼板へ向かうと、ガレスはもう完全に笑っていた。
五日目には、宿の女将が先に言った。
「今日は湯を多めにしとくよ」
「どうして?」
「共同墓地と排水やった顔してる」
ナタリアは少しだけ驚いた。
驚いたが、否定はしない。
「当たってるわ」
「泥の跳ね方でだいたい分かる」
横で聞いていた下働きの少年が得意げに言う。
「今日はくさぼーぼーだった?」
「ええ。あなたの髪よりは少し短かったけれど」
少年は意味が分からず首を傾げ、女将は吹き出した。
こういうやり取りが増えてくると、宿はただの寝床ではなくなっていく。
六日目の朝、女将の孫娘は完全にナタリアの後をついて回るようになっていた。
「おねーたん」
「何かしら」
「きょーもいくの?」
「ええ」
「どろ?」
「たぶん少し」
「くちゃいのやだ」
「私もよ」
そう言って頭を撫でると、子どもは満足したように離れていく。
朝の光の中でその髪は柔らかく、ナタリアはその感触を妙に覚えていた。
七日目には、さすがにギルドの空気もはっきり変わっていた。
依頼板のF札が、目に見えて少ない。
全部をナタリア一人が消したわけではない。
だが、彼女が片づけた仕事がすぐには戻らず、他の冒険者が“戻ってくる前提”で食っていた細かな依頼が停滞した結果、板そのものが軽くなっていた。
受付嬢は朝一番で札の整理をしながら、本気で困ったような顔をする。
「……Fの依頼、ほとんど残っていないんですが」
ナタリアはそれを聞いても特に表情を変えない。
「あるものを受けただけよ」
「その“あるもの”が、戻ってこないんです」
「なら結構なことでしょう」
「結構、なんですが……」
受付嬢はそこで言葉を濁した。
つまり、Fランクに貼る依頼が減りすぎた以上、ナタリアをそこへ置いておく理由も薄くなる。
ガレスが、依頼板の前で腕を組んだ。
「Fに置いとく意味がなくなったな」
ナタリアはそこでようやく視線を向ける。
「そうなの?」
「件数」
ガレスは指を一本折る。
「速度」
二本目。
「戻りの遅さ」
三本目。
「やり直しゼロ。苦情ゼロ。規約違反なし」
彼はそこで手を下ろした。
「これでFはない」
受付嬢が奥から書類を持って戻ってくる。
そこには、すでにギルド側の判断が整っていた。
「依頼達成率と処理内容を見て、Eランク昇格が妥当と判断されました」
少しだけ事務的な響き。
だが、それがむしろ正式さを出していた。
周囲の何人かがこちらを見る。
最初に絡んできた三人も、今では完全に黙っている。
黙るしかない。
一週間でF札の流れを変えた女を、いまさら軽くは見られない。
ナタリアは書類へ目を落とし、要点だけを確認した。
昇格条件。
今日からE扱い。
受注可能範囲の変更。
それだけ分かれば十分だ。
「そう」
それが最初の返答だった。
受付嬢が少しだけ肩の力を抜く。
もっと喜ぶかと思っていたのかもしれない。
だがナタリアにとっては、妥当な結果が妥当な順で来ただけだ。
「では次からEとして受ければいいのね」
「はい」
「分かったわ」
そこで終わらせるつもりだったが、ガレスが横から口を挟む。
「一週間でFを空にしたのに、まだそこに置く方が迷惑だろ」
ナタリアはそちらへ視線を向けた。
「一週間で空にした、ではなく」
「戻りが遅いだけよ」
「同じだろ」
「違うわ」
ナタリアは少しだけ首を傾ける。
「数を食ったのではなく、後ろへ押し戻さなかっただけ」
それを聞いて、ガレスは小さく鼻で笑う。
「やっぱり、お前のそういうとこは気に入らねえな」
「趣味が悪いものね、貴方」
「否定はしない」
受付嬢はそのやり取りを見て、もう笑うしかなかった。
新しい札が差し出される。
Fの印を外し、Eの札へ替えるだけ。
段階としては大きくない。
だが意味はある。
“新人の最低位”から、“一段上の仕事を任せていい者”になる。
ナタリアはそれを受け取った。
重さはほとんど変わらない。
けれど、依頼板の見え方は少し変わる。
Eランクの札はFより少しだけ広い範囲にある。
簡単な護衛補助。
少し距離のある採集。
もう少し数の多い低位魔物駆除。
倉庫番の夜間補助。
面倒は確実に増える。
だが、だからこそ仕事の幅も出る。
ナタリアは依頼板を見ながら、ほんの少しだけ息を吐いた。
さて、次は少しだけ面倒が増えるわね。
それは嫌味でも不満でもない。
ただ、次の現場へ進む時の確認だった。
《石樽亭》へ戻ると、女将は新しい札にすぐ気づいた。
「あら」
彼女は鍋の蓋をずらしながら、ナタリアの胸元へ視線をやる。
「上がったのかい」
「ええ。今日からEですって」
「そうかい」
女将はそれだけ言って、少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ今夜のスープは少し多めにしとくよ」
「昇格祝い?」
「働く量が増えるなら食う量も増えるだろうって話さ」
それが《石樽亭》らしい祝福だった。
悪くない。
横から孫娘が駆けてきて、ナタリアの膝へぶつかるように抱きつく。
「おねーたん!」
「何かしら」
「きょーはどろ?」
「いいえ。今日は少しだけ格が上がったの」
意味は分かっていないだろう。
それでも女の子はうれしそうに笑う。
「つよくなった?」
ナタリアは少し考えてから、その頭を撫でた。
「そういうことにしておきましょうか」
食堂の隅の席へ座りながら、ナタリアは今日一日の流れを頭の中で組み直していく。
明日からE。
なら受けられる依頼の範囲も変わる。
宿代、食費、湯、装備手入れ。
そこへ少しだけ余裕が出る。
だが油断していいほどではない。
生活は、回るからといって勝手に上向きはしない。
回し続ける者がいるから、ようやく少しずつ形になる。
その意味では、学園にいた時より今の方がずっと分かりやすかった。
誰が何をしたか。
どれだけ戻るか。
何が足りず、何が増えたか。
全部が手元の感覚で分かる。
温かいスープをひと口飲みながら、ナタリアは新しい札の重みを指先で確かめた。
軽い。
だが確かに一段上がった重みだ。
そしてようやく、静かに思う。
では、次の現場へ。




