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断罪された侯爵令嬢は、戦場で完成した。なお中身はおっさんである  作者: 月白ふゆ


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第12話 初依頼

 彼の視線の先で、ナタリアは借り出し用の長靴を受け取り、試すように一度だけ踵を鳴らした。

 王子妃候補だった女が、最初に選んだのは、泥と下水の現場だった。


 借り出し棚の前で、ナタリアは一つずつ装備を確かめた。


 長靴は分厚い革の上に油布を重ねた簡易防水。新品ではないが、底はまだ潰れ切っていない。踵の減り方も左右で極端には違わず、前の借り手が妙な歩き方をする人間でなかったことが分かる。

 皮手袋は指先に補強が入っていた。泥かき具の柄や鉤の棒を握るには十分。雑ではあるが、使い捨て同然の安物ではない。

 面布は厚手で、臭気そのものを完全に防げるような代物ではないが、飛沫避けにはなる。

 泥かき用の長柄具は、先端の平板がやや重い。重さを利用して掻く形だろう。慣れれば悪くない。

 掻き出し鉤は短く、下水路の壁際や溝に引っかける用。

 低位スライム用の処理薬は、封蝋付きの小瓶で二本。説明書きには「核摘出前に体液を固める補助剤」とある。過剰に頼るものではないが、慣れない新人が泥の中で核を見失わないための保険にはなるらしい。


 ナタリアは小瓶を光に透かし、すぐに元へ戻した。


 道具は悪くない。雑ではあるが、用途は足りている。

 なら、文句を言うより使い方を考える方が早い。


「サイズは問題ありませんか」


 受付嬢が、棚の向こうから少し気遣わしげに声をかけてくる。


「ええ。これなら足場が悪くても踏ん張れそう」


 そう答えると、受付嬢は小さく安堵したように頷いた。

 先ほどまで絡まれていた新規登録者が、もう普通に仕事の話へ戻っていることに、まだ少し追いついていない顔でもある。


 ガレスは少し離れた柱にもたれ、腕を組んだまま見ていた。

 監視というより観察に近い目だ。

 それが気に入るわけではないが、嫌悪するほどでもない。少なくとも、いまのところは。


「北区画まで、歩いて二刻もかからない」


 ガレスが言う。


「昼を過ぎても、今日は天気が保ちそうだ」

「雨が降れば泥はさらに面倒になる。行くならさっさと行け」


「ええ、そうするわ」


 ナタリアは長靴へ履き替え、スカートの裾を少しだけまとめやすい形に整えた。冒険者用の装いとしてはまだ不十分だが、今日の依頼をこなすだけなら足りる。

 背中に泥かき具を括り、鉤と薬瓶、小さな布袋、貸出札を確認してから出口へ向かう。


 ギルドを出た瞬間、王都の昼の音が一気に耳へ戻ってきた。


 荷車の車輪。

 通りを横切る子どもの声。

 遠くの鐘。

 肉屋の呼び込み。

 古い石畳へ水を流す音。

 学園や王城のように音が整理されていない場所は、むしろ現実がそのまま置かれている感じがした。


 北区画へ歩きながら、ナタリアは通りの様子を見た。


 中心街から少し外れただけで、王都は別の顔を見せる。

 店構えは小さくなり、建物の壁には雨染みが増え、窓辺に干された布は色が褪せている。

 人の暮らしが近い。

 洗濯水の匂い、焼けた油、干した魚、湿った木の臭い。

 誰かの生活に直結した匂いばかりで、嫌いではなかった。


 北区画の排水溝へ着いた時、まず見えたのは、溜まった泥そのものよりも、水の色だった。


 流れているはずの水が、流れずに滞留している色。

 薄茶ではなく、沈んだ灰褐色。

 表面に油膜が浮き、ところどころに泡が残っている。

 つまり、詰まりの原因は一箇所ではなく、流れが全体に死んでいる。


 北区画管理小屋には、年嵩の男が一人いた。

 区画管理人だろう。

 ナタリアが依頼札を見せると、男は目をしばたたかせてから受け取った。


「……新人か」


「Fランク登録したばかりよ」


「その格好で」


「泥を掻くのに、ドレスで来るほど物知らずではないつもりだけれど」


 管理人は鼻で笑いかけ、それからやめた。

 冗談と本気の境目が読めない顔をしているのだろう。


「排水溝は通りの奥から手前へやるといい」

「上流から触らないと、下だけ掻いてもすぐ戻る」

「下水口は北壁沿いの三つ。真ん中が一番詰まってる」


「分かったわ」


 ナタリアはそれだけ聞いて、さっそく通りの奥へ歩いた。


 まず、眺める。


 泥を掻く前に、どこが“詰まり”で、どこが“溜まり”かを見分ける必要がある。

 泥の厚みだけではなく、水の逃げ方、流れの癖、通りの傾き、生活排水が落ちる位置。

 力仕事ほど、順番を間違えると手間が増える。


 上流側から順に見ると、案の定、最初の十歩で原因が見えてきた。


 泥が多いのではない。

 掃除の仕方が悪いのだ。

 表面の泥だけを掬い、重い塊を下へ押し流している。

 その結果、排水口の手前と曲がり角だけがどんどん重くなる。

 詰まりが再発するのは当然だった。


 ナタリアは泥かき具を構え、最初の一掻きを入れる前に長靴の底を石へ押しつけた。

 滑り具合を確認する。

 まだ大丈夫。

 表面だけでなく、踏んだ時の沈み込みも悪くない。


 それから、一掻き。


 泥をただ持ち上げるのではなく、片側へ逃がす。

 そのために、まず水の通り道を細く一本作る。

 完全に綺麗にするのではない。

 先に流れを戻す。

 流れが戻れば、自重で崩れる泥もある。


 二掻き目。三掻き目。

 長柄具の重みが分かってくる。

 無理に腕で持ち上げる必要はない。

 柄を少し寝かせ、先端の重さに仕事をさせる。

 泥を切り、寄せ、流れを開ける。


 じわ、と水が動いた。


「……そう」


 思った通りだ、と声には出さない。

 ただ、次の順番がはっきりする。


 上流側に細い流れを作ってから、その先の詰まりへ手を入れる。

 一度に大きく掻かない。

 細く、しかし途切れない筋を作り、流れが流れを連れてくるのを待つ。


 作業を始めてしばらくすると、通りの住人らしい女が二階の窓から顔を出した。


「おや、今日は見たことない子だね」


 年配の声だ。


「ええ。今日の担当よ」


「ずいぶん綺麗な担当だこと」


「泥を掻けば、だいたい皆同じになるわ」


 そう返すと、女は声を立てて笑った。


「違いない!」


 そのやりとりの間も、ナタリアの手は止まらない。

 掻く、寄せる、流す、確認する。

 あまりにも無駄がないので、窓から見ていた女が途中で感心したように黙った。


 泥の中には、生活の痕跡が全部混ざる。

 葉、紙切れ、切れた紐、獣毛、台所から流れた細かな屑、雨で砕けた土。

 それらを一緒くたにして押し込めば、そりゃ詰まる。

 ナタリアはその“屑の重なり方”を見て、住民の癖まで何となく読める気がした。

 この一角は、朝の洗濯が多い。

 奥の店は野菜の皮を溝へ流している。

 右の家は灰を雑に捨てる。

 そういうものが全部、泥の層になる。


 やがて最初の排水口に着いた時には、流れはかなり戻っていた。


 排水口の格子の前には、案の定、表面だけでは見えにくい重い塊が溜まっている。

 ナタリアは長柄具を置き、短い鉤へ持ち替えた。

 ここは力で引くと腰をやる。

 ガレスの言葉を思い出すまでもない。見れば分かる。


 鉤を差し込み、まず横へ崩す。

 持ち上げるのではなく、分ける。

 割れたところへ水が入り、詰まりが一つ崩れる。

 その瞬間、濁った水が勢いを取り戻して流れ始めた。


 どぶ、と嫌な音がして、底に沈んでいた泥が動く。


「……やっぱり」


 詰まりは一箇所ではなく連鎖していた。

 なら、手前を抜けば奥も少し軽くなる。


 排水溝泥かきは想像以上に手応えがあった。

 嫌な意味ではない。

 処理のしがいがある、という意味だ。


 この手の仕事は、雑に見えるほど腕が出る。

 綺麗に見える作業なら、多少手順が荒くても誤魔化せる。

 だが泥と水は正直だ。

 順番を間違えれば、手間が増え、腰が死ぬ。

 順番が合っていれば、汚れても進む。


 通りの半分を片づけた頃には、すでに最初の四半刻が過ぎていた。

 だが感覚としては、まだ序盤だ。

 遅くはない。

 むしろ見積もりが粗かったのだろう。


 昼の陽が少し傾く頃、最後の排水口手前を抜き終えた時には、北区画の通りを流れる水の色が変わっていた。

 完全な透明さにはほど遠い。

 けれど、死んでいた流れが動いている。

 それだけで、住民の目にも違いは分かる。


「おや、今日は持ちそうだねえ」


 さっきの窓の女がまた顔を出した。


「前は昼過ぎにはまた淀んでたのに」


「そちら、いつもはどれくらいで戻るの?」


「ひどい時は明日にもよ」


 ナタリアはそこで小さく鼻を鳴らした。


 詰まりを取るだけでは足りない。

 淀みの元を抜かなければ、戻るに決まっている。


「下水側も同じでしょうね」


 そう呟いて、管理小屋へ一度だけ顔を出した。

 排水溝側は完了。

 次は下水路に入る。


 北壁沿いの下水口は、管理人が言った通り真ん中が一番重かった。


 蓋を半分ずらしただけで、臭気が吹き上がる。

 面布を当て直しても、完全には防げない。

 鼻の奥を刺す、湿った腐敗臭。

 生活排水と泥と、古い苔と、何かもっと別のものが混ざった匂い。


「……これは、たしかに」


 吐き気の質ではある。

 だが耐えられないほどではない。

 匂いに意識を持っていかれないよう、むしろやるべきことの順番へ意識を寄せる。


 足場確認。

 壁の湿り具合。

 水深。

 天井高。

 滑る石。

 腐った木板。


 ガレスの助言は正しかった。

 スライムそのものより、ここでは足場の方が危ない。


 ナタリアは長靴の先で一度だけ板を叩き、沈みを確認してから降りた。

 汚水が靴の外側を撫でる。

 冷たくはない。ぬるい。

 その温度がむしろ不快だった。


 最初の低位スライムは、すぐに見つかった。


 壁際の泥溜まりに、半透明の膜みたいなものが二つ。

 よく見なければ泥の光り方と区別がつかない。

 だが流れの中で“そこだけ遅れて揺れる”ので分かる。


 ナタリアは処理薬を使わず、まず一本目の鉤でその周囲の泥を払った。

 核の位置を見極める。

 低位スライムは核さえ傷つけなければ、潰しても問題ない。

 逆に泥ごとぐしゃぐしゃにやると、核を見失って余計に面倒になる。


 身体強化は最小限。

 踏み込みより、足裏の安定だけを補う程度。

 剣ではなく、短い作業刃を使う。

 派手な魔術もいらない。

 ここは戦場ではなく、処理現場だ。


 一体目。

 刃先で膜を裂き、核だけを小袋へ落とす。

 二体目。

 こちらは泥を被っていて見づらいので、薬を一滴だけ使う。

 体液が少し固まり、核が浮く。

 拾う。


 最低三個。

 まずは条件の確認。


 さらに奥へ進むと、すぐに三体目がいた。

 流れのない窪みに半分埋まっている。

 これも処理して、条件達成。


 ここで終えて戻っても依頼上は問題ない。

 だがナタリアは立ち止まった。


 水の流れが、まだ不自然に重い。

 しかも湧きの位置が近い。

 泥を抜いた今だからこそ見えるが、この区画は思った以上に“餌場”になっている。

 生活排水がゆっくり溜まり、浅い淀みが残る。

 それが低位スライムを呼ぶ。


 ここでやめる方が中途半端で気持ち悪い。


 条件は最低三個であって、上限ではない。

 どうせここまで入ったなら、近い群れをまとめて減らした方が後が楽だ。


 ナタリアは少しだけ奥へ進む。


 四体目。五体目。

 ここから先は、もう“見つけて潰す”というより、“湧きやすい場所を順に潰す”作業になる。

 流れの遅い曲がり角。

 石の欠けたくぼみ。

 汚泥が溜まる落ち込み。

 そこを見れば、だいたい当たりがつく。


 八体目を回収した時には、手順が完全に組み上がっていた。

 泥溜まりを先に崩し、流れを作り、そこへ浮いた膜を拾う。

 必要なら薬を一滴。

 核を袋へ。

 同時に汚泥も壁際へ寄せ、流れの邪魔をしない形へ整える。


 十体。

 十二体。

 十三体。


 途中で一度だけ、足元の石が滑った。

 ガレスの言う通りだ。

 スライムよりこちらの方が危ない。


「……なるほど」


 小さく呟き、以後は足場確認をさらに細かくする。

 急がない。

 急いで転ぶ方が損だ。


 十六個目の核を袋へ落としたところで、ナタリアはようやく手を止めた。

 まだ探せばいるかもしれない。

 だが近い湧き場はほぼ潰した。

 排水側も下水側も、今日の範囲としては十分だろう。


 水の音が最初とは違う。

 重い淀みが減り、狭い音で流れている。

 これなら再発まで前より明らかに長くなるはずだ。


「再発前提の掃除は、二度手間だもの」


 誰に聞かせるでもなく言って、ナタリアは出口へ戻った。


 外へ上がると、陽の傾きからしてまだ三刻ほど。

 四刻想定の仕事が、三刻で終わったことになる。


 別に急いだわけではない。

 見積もりが甘いのではなく、手順が粗いのだろう。

 そう結論づけるのが、いちばんしっくり来た。


 管理小屋へ戻ると、さきほどの年嵩の管理人が目を丸くした。


「もう戻ったのか?」


「ええ。排水溝も下水路も終わったわ」


「早すぎるだろ」


「そうかしら」


 ナタリアは肩をすくめ、泥だらけの袋を机へ置く。


「確認をお願い」


 管理人はまず袋を見た。

 それから核を数える。

 一、二、三。

 そこで手が止まらない。

 七、八、九。

 十を越えたあたりで、顔が本気で変わる。


「……十六個?」


「最低三個だったわよね?」


「最低、な」


 男は苦笑とも驚愕ともつかない顔になる。


「最低をそんなに上から踏み抜くやつは珍しいがな」


 それから、現場確認のために若い補助員を連れて通りへ出た。

 排水溝を見る。

 流れを見る。

 格子前の詰まりの抜け方を見る。

 そして、下水口周りを見て戻ってくる。


「……これ、前より持つぞ」


 補助員が率直に言う。


「いつもなら、ここの曲がり角がすぐまた淀むのに」


 管理人も頷いた。


「再発まで明らかに長い」

「泥を取っただけじゃこうはならん」


 ナタリアは面布を外しながら答える。


「詰まりを取るだけでは足りないでしょう」

「湧きの近い淀みを先に抜いただけよ」


 それを聞いた管理人が、じっとナタリアを見る。

 見た目だけなら、泥と下水を相手取る現場に似合わない。

 だが仕事の仕方は、明らかに似合っていた。


「……次も来るか?」


「依頼があれば」


「覚えとく」


 それだけで十分だった。


 ギルドへ戻った頃には、昼のざわめきが少し変わっていた。

 飲み始めるには早いが、仕事帰りにはまだ早い。

 そんな半端な時間。

 だからこそ、ナタリアが泥と汚水の跡をまとって戻ってきたのはよく目立った。


 けれどその歩きは落ち着いている。

 疲れてはいる。

 だが崩れてはいない。

 長靴の重みも、衣服に染みた臭気も、全部“仕事のあと”として身につけたまま、まっすぐ受付へ来る。


 受付嬢が顔を上げた。


「お帰りなさいませ……って」


 そこで目が袋へ落ちる。

 ナタリアは依頼札と処理票を置き、簡潔に告げた。


「北区画排水溝泥かき、完了」

「下水路側も終わったわ。核はこちら」


 袋が置かれる。

 受付嬢が中を見る。

 数える。

 一度目は途中で止まり、もう一度数え直す。


「……十六個?」


「ええ」


「最低三個の依頼、でしたよね」


「そう書いてあったわ」


 受付嬢が息を呑み、それでも仕事として処理を進める。

 すぐに奥へ声をかけ、管理小屋からの確認札と照合させる。

 さらに現場の状態欄へ目を通し、そこでまた顔を上げた。


「再発まで前より明らかに長い、との確認が入っています」


「そう」


「そう……で済ませるんですか」


「他にどうしろと?」


 ナタリアが平然と返すので、受付嬢は一瞬だけ言葉を失った。


 その間に、ギルドの中ではもう空気が広がっている。

 絡んできた三人組も、遠巻きにこちらを見ていた。

 戻りが早い時点で少しざわついていたが、十六個と聞いた瞬間に完全に黙った。


 ガレスが柱から体を離し、受付の近くまで来る。

 袋の中身を覗き込み、管理小屋の確認札も横から見た。


「数だけじゃねえな」


 低くそう言う。


「片づけ方がうまい」


 ナタリアはそれを聞いても得意げにならない。


「条件を満たしただけよ」


「それを十六で言うか」


 ガレスが鼻で笑う。

 だが悪い響きではなかった。


 受付嬢が報酬計算板を弾いた。

 泥かき分。

 スライム最低達成分。

 追加核十三個分の買い取り。

 合わせて、今日一日を回すには十分な額になる。


「こちらが本日の報酬です」


 銅貨と小銀貨が並ぶ。

 ナタリアはそれを一度だけ目で数え、受け取った。

 金額の大小より、今日の労力と明日以降の見通しが立つ額かどうかの方が重要だ。


「そういえば」


 金を袋へ移しながら、ナタリアが言う。


「今日の稼ぎで泊まれて、夕食と朝食が付く宿があるなら教えていただけるかしら」


 受付嬢は一瞬だけきょとんとした。

 その質問が妙に現実的で、そして自然すぎたからだろう。


「でしたら、《石樽亭》が近いです」

「冒険者向けの簡易宿ですが、夕朝付きで、今日の報酬なら十分足ります」


 横からガレスが補足する。


「二階を取れ」

「一階は酔っ払いがうるさい」


「なるほど」


 ナタリアは頷く。


「助かるわ」


「風呂は期待するなよ」


「泥仕事のあとに欲しくなることくらいは理解できるのね」


「当たり前だ」


「そう」


 ナタリアは報酬袋をしまい、長靴の泥を軽く落とした。


「では、今日はそれで」


 誰にともなくそう言って、踵を返す。


 ギルドを出る背中へ、さきほど絡んできた細身の男が小さく呟く。


「……Fで、あれかよ」


 ガレスは答えない。

 ただ、その背を見ていた。

 王子妃候補だった女が、最下位ランクの泥仕事を三刻で片づけ、十六個の核を持ち帰り、今日の報酬で宿と飯を確保しようとしている。

 その現実の方が、下手な言葉よりよほど強い。


 《石樽亭》は、本当に冒険者向けの宿だった。


 看板は古いが、扉の蝶番はきちんと油が差されている。

 一階は酒場兼食堂で、長椅子と丸机が並び、壁には汚れた外套がいくつも掛かっていた。

 だが床は思ったより汚くない。

 鼻をつく臭いも、ギルドほどひどくはない。

 掃除と換気をしている宿の臭いだ。


 女将らしい中年の女が、ナタリアを見て一瞬だけ目を見張った。

 だが、ギルド帰りの長靴と泥の跡、それに報酬袋を見ると、すぐに宿の顔へ戻る。


「一泊二食?」


「ええ。二階が空いているなら」


「空いてるよ。鍵付き、小机付き。水差しあり。風呂はない」


「十分だわ」


 金を払い、鍵を受け取る。

 夕食は一階で今すぐ取れるというので、そのまま食堂の隅へ座った。


 出てきたのは、豪勢とは言い難いが温かい食事だった。

 塩気の強い豆煮込み。

 硬めの黒パン。

 薄いがちゃんと肉の入ったスープ。

 それに少量の酢漬け野菜。

 空腹の身には、それで十分だった。


 ナタリアは一口食べ、そこでようやく本当に一息ついた。


 味は単純だ。

 だが今日一日の労力を終えた体には、単純な塩気と温度の方がありがたい。


「悪くない」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、もう一口。


 食堂には他にも冒険者らしき客がいたが、誰も露骨には話しかけてこない。

 ギルドで何かあったことまでは知らなくとも、泥仕事帰りの女が一人で飯を食っているのを見て、軽く見る空気ではなくなっているのかもしれない。


 食事を終え、部屋へ上がる。


 二階の部屋は狭かった。

 だが嫌な狭さではない。

 寝台は軋みが少なく、掛け布は薄いが清潔。

 小さな机と椅子。

 窓は小さい。

 水差しと洗面鉢が置かれている。

 扉の鍵もちゃんとかかる。


 必要なものが揃っている。

 なら十分だ。


 長靴を脱ぎ、足を布で拭き、上着を脱いで椅子へ掛ける。

 それだけで部屋が少し狭く感じる。

 今日一日の汚れと疲れが、ようやく体から離れていくみたいだった。


 報酬袋を机へ置き、中身をざっと確認する。

 今日の稼ぎ。

 今日の寝床。

 夕食と明日の朝食。

 そして明日動くための最低限の余力。


 収支は悪くない。

 むしろ、初日としては上出来だろう。


 ナタリアは寝台へ腰を下ろし、壁へ背を預けた。

 小さく息を吐く。


 学園を去った。

 ギルドで登録した。

 絡まれた。

 泥と下水へ入った。

 十六個の核を持ち帰った。

 今日の稼ぎで、今日の寝床を取った。


 そこまで整理して、ようやく言葉が出る。


「ま、何とかなりそうね」


 静かな部屋の中で、その一言だけがきれいに落ちた。

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― 新着の感想 ―
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