第10話 学園を去る日
翌朝の王立学院は、妙に静かだった。
鐘はいつも通りに鳴り、下男たちは廊下を磨き、侍女たちは窓を開けて朝の空気を入れ替えている。教室へ向かう生徒たちの靴音も、教師の咳払いも、遠くから聞こえる。表面だけ見れば、昨日までと何ひとつ変わらない。
だが実際には、かなり変わっていた。
人は大きな騒ぎがあった翌日ほど、わざと普段通りに振る舞う。そうしないと、自分がその騒ぎの只中にいたことを認めるみたいで落ち着かないのだろう。だからこそ、視線の引き方や、声を潜める間や、侍女たちがナタリアの部屋の前を通る時だけほんの少し背筋を正す感じに、全部出る。
ナタリア・ヴォルディアは、窓辺に立ってその朝の気配を見ていた。
部屋の中は、もう半分ほど片づいている。
教本は重ねられ、礼装は包み布へ移され、剣術用の軽装も畳まれていた。学業に使う文具、侯爵令嬢としての身の回り品、王子妃教育の一環として支給された装飾具。それらが用途ごとに分けられ、並んでいる。
必要なもの。
必要ではなくなったもの。
返すべきもの。
持ち帰るもの。
分ける手は早かった。
昨日の王城で、婚約破棄の効力は差し戻された。
だがそれで何かが元に戻るわけではない。
学院が勝手に閉じた案件を王家が制度の側から差し戻しただけで、壊れた関係や失われた前提まで巻き戻るわけではない。
そして、そういうことは今のナタリアにはよく分かる。
前世を思い出したからだろう。
あるいは元から、こういうところがあったのかもしれない。
閉じかけた案件が差し戻される。
なら、閉じたつもりで進めていた後処理も、一度並べ直すだけだ。
窓ガラスに映る自分の顔を、ナタリアはしばらく見ていた。
比類なき美貌、などと他人は勝手に言う。実際そうなのだろう。だが本人からすれば、顔は顔でしかない。役に立つ時もあれば、面倒を呼ぶ時もある。それだけのことだ。
目元は昨日よりわずかに落ち着いていた。
婚約が閉じかけ、王家へ出頭し、差し戻しを受け、それでもなお泣き崩れもせず荷をまとめている自分は、たぶん普通の侯爵令嬢ではない。
だが普通でないこと自体には、もうそこまで驚いていない。
背後で控えめなノックがした。
「ナタリア様」
侍女の声だった。
学院付きの侍女で、年は二十代半ば。王都の貴族屋敷で仕えた経験もある、よく気の回る女だ。
「入りなさい」
扉が開き、侍女は一礼してから室内へ入る。
手には小さな書類盆があった。
「学院長より、正式な文書が届いております」
「卒業扱いの手続きについて、確認が済みましたとのことです」
卒業。
その言葉に、ナタリアは小さく頷いた。
退学ではない。
放逐でもない。
卒業。
つまり学院としても、形を整えたのだ。
この件を“学院が生徒を弾き出した”形で残すのはまずいと理解したのだろう。王家からの差し戻しが入り、侯爵家当主も同席した以上、なおさらだ。
「そう」
書類を受け取り、ざっと目を通す。
文面はかなり慎重に整えられていた。学業修了の扱い、出席要件の弾力的解釈、特別卒業証書の発行予定、王家側との再整理を前提とした暫定処理。
逃げ腰ではあるが、雑ではない。
昨日の詰問がよほど効いたのだろう。
侍女は少しだけ表情を曇らせた。
「ご不快でなければよろしいのですが……」
「何が?」
「いえ、その……皆、少し落ち着かないようでして」
皆。
つまり学院の下働きたちや若い侍女たちや、低位貴族の下級生たちのことだろう。
「ご不快でなくとも、落ち着かなくはなるでしょうね」
そう返すと、侍女は一瞬だけ目を丸くし、それからわずかに口元を緩めた。
「……その通りですね」
ナタリアは書類を畳む。
「学院長には、確認したと伝えて」
「それと、卒業証書は本日中に受け取れるのかしら」
「はい。午後までには整うとのことです」
「なら結構」
侍女は頭を下げかけ、それから少し迷ったように立ち止まる。
何か言いたいのだろう。
この手の間は、今のナタリアにはわりと分かりやすい。
「言いたいことがあるなら言いなさい」
侍女は驚いたように顔を上げ、それから困ったように微笑んだ。
「……もっと、お怒りかと思っておりました」
「怒ってどうするの」
「それは……」
「書類は燃えないし、手続きも早くならないわよ」
そう言うと、侍女は小さく吹き出しそうになってから、慌てて口元を押さえた。
「申し訳ございません」
「別に謝ることでもないでしょう」
ナタリアは書類を机へ置く。
「あなたたちが崩れても、余計に手がかかるだけだもの」
「落ち着いて働きなさい。それで十分よ」
侍女はその一言に、はっきりと背筋を伸ばした。
慰めよりも、役割を戻される方が楽な人間はいる。
そういうところが、今のナタリアには妙によく分かる。
「……承知いたしました」
侍女が去ったあと、ナタリアは荷の整理を再開した。
衣装箱の蓋を閉じ、教本を紐で括り、返却物の束を分ける。
その一つ一つに手をかけながらも、頭の半分は今日の流れを組み立てていた。
卒業証書受領。
学院側との最低限のやり取り。
父との確認。
王城行きの時刻。
その後、王都へ出られるならギルドへ寄る。
ここまで来ると、感情はあとからでいい。
先に手を動かした方が早い。
部屋を出る時、廊下にはすでに空気が溜まっていた。
昨日までと同じはずの石造りの廊下。磨かれた床。朝の光。
けれどそこにいる下級生たちの視線が、明らかに昨日までとは違う。
低位貴族の少女たちが三人、五人、気づけばもっといる。
誰も露骨に待っていた顔はしない。
けれど、待っていたのだろう。
わざとらしく本を抱えたり、廊下の角で立ち話のふりをしたりしているが、ナタリアが出てくると一斉に背筋が伸びる。
その中の一人、小柄な男爵令嬢が意を決したように進み出た。
「ナタリアお姉様」
その呼び方に、周囲の何人かがつられるように頭を下げる。
学年も爵位も違う。
上位令嬢たちの輪からこぼれがちな子たち。
だがナタリアにとっては、名前と顔が一致する程度には見てきた面々だ。図書室で重い本を抱えていた子。礼法で視線の置き場が定まらず困っていた子。剣術の見学席で、誰よりも真剣に足運びを見ていた子。
全員、目が少し赤い。
「……そんな顔をしないの」
ナタリアはまずそう言った。
「見送るなら、もう少し胸を張りなさい」
その一言で、何人かがはっとしたように背筋を正す。
泣いていたのが悪いと言っているわけではない。
ただ、見送る側には見送る側の形がある。
そういう言い方だった。
「ですが、お姉様……」
「別に死ぬわけではないでしょう」
きっぱりと言うと、少女たちの間に、泣き笑いのような空気が少しだけ戻る。
ナタリアは一人ずつの顔を見た。
「あなたたちは、ちゃんと見ていたわ」
「何が起きて、誰が何を言って、何がずれていたか。それを、ちゃんと」
少女たちは黙って聞いている。
「それで十分よ」
「だから、みっともなく折れないこと」
その言葉は剣だけではなく、もっと広いものに向いていた。
生き方とか、立場とか、声の小ささとか、そういうもの全部に。
男爵令嬢が唇を噛み、深く頭を下げる。
「はい……!」
もう一人、伯爵家の三女が前へ出た。
「お姉様は、怖い方だと思っておりました」
正直な言い方だった。
周囲が慌てる。
だがナタリアは気にしない。
「最初は、皆そう言うわね」
「でも違いました」
「お姉様は、怖いのではなくて……」
そこで言葉を探し、結局しっくりくる表現が見つからない顔になる。
ナタリアが少しだけ口元を緩める。
「結論が遅いわ」
少女が目を丸くする。
「褒めるなら、もう少し手短に」
それでようやく、空気が少しだけ柔らかくなった。
そのまま玄関まで進むと、今度は下男たちと侍女たちが揃っていた。
荷馬車の脇で待っている者。
扉の陰から様子を見ている者。
最後の最後まで手を貸すつもりなのだろう。
「ナタリア様、荷はこちらへ」
年嵩の下男が申し出る。
無骨な手をした、学院勤めの長い男だ。
ナタリアが重い荷を持つつもりでいると思ったらしい。
「任せるわ」
そう言って荷を渡すと、男は少しだけほっとした顔になる。
「雑に持たないこと」
「はい」
「最後まで丁寧に」
「承知しております」
まるで現場の引き継ぎみたいなやり取りだった。
ナタリアは自分でそう思い、内心で少しだけ可笑しくなる。
若い侍女が一人、控えめに近づいてきた。
「ナタリア様……お部屋の整えは、最後までこちらで」
「もう十分でしょう」
「ですが」
「気を回しすぎなくていいわ」
「最後まで崩れなかったのは、あなたたちのおかげね」
その一言で、侍女の目が大きく開く。
褒めてもらえるとは思っていなかったのだろう。
「も、もったいないお言葉です……!」
「そういうのはいいから」
「次も同じように働きなさい。それで十分」
侍女は目を赤くしながらも、きちんと頭を下げた。
泣き崩れさせるのではなく、働く側へ戻してやる。
その言い方が、ナタリアの中では驚くほど自然だった。
荷馬車の脇に、グレゴール・ヴォルディアが立っていた。
父は今日も硬い。
硬く、古く、戦場の匂いがする。
軍閥侯爵家当主として、王城に行く前でも姿勢が変わらない。
「名残はあるか」
娘へ向ける言葉としてはずいぶん短い。
だがグレゴールらしい。
ナタリアは一拍だけ考えた。
「少しだけ」
「なら十分だ」
父はそれだけで話を切る。
名残がないとは言わない。
多すぎても困る。
その塩梅を、彼なりに見ているのだろう。
少し間を置いて、もう一つだけ聞いてくる。
「気は変わらんか」
「変わりません」
何についてかは、言わずとも分かる。
冒険者になる件だ。
グレゴールはわずかに顎を引いた。
「なら、見せてみろ」
それだけ。
止めない。
甘やかしもしない。
だが本気と見たなら、認める。
学園門の前では、さらに人が増えていた。
下級生たち。下男侍女たち。
あえて正門近くまでは出てこなかった上位生徒たちの影も、遠くに少しだけ見える。
その中にエドワードとセラフィナもいた。
二人とも、前へは出てこない。
出られないのだろう。
もう言葉を交わせば何かが戻る段階ではないと、おそらく双方が分かっている。
それでも、エドワードは最後に一言だけ絞り出した。
「……行くのか」
ナタリアは視線だけを向ける。
「ええ」
それだけで十分だった。
セラフィナは何か言いたげに唇を動かしたが、結局声にならなかった。
ナタリアも待たない。
もう、お互いに“その後”を生きるしかない。
下級生の一人が、最後に勇気を出したように叫ぶ。
「ナタリアお姉様、お元気で……!」
それに幾つかの声が重なる。
お姉様。
その呼び方を、ナタリアは一瞬だけ胸の奥で転がした。
「ええ」
馬車の踏み台へ足をかけながら、振り返る。
「あなたたちも、みっともなく負けないこと」
それが送る言葉になる。
剣の話だけではない。
生き方の話でもある。
誰かが泣きそうな顔をし、別の誰かが必死に背筋を伸ばし、下男が帽子を胸へ当てる。
その全部を見て、ナタリアは馬車へ乗り込んだ。
王都の空気は、学園のものよりざらついていた。
石畳の上を行き交う荷車。呼び込み。客引き。香辛料の匂い。革と汗。露店の火。路地裏の湿り。
整いすぎた学院の空気を抜けたあとでは、むしろこちらの方が現実に触れている感じがした。
冒険者ギルドは、王都の中心から少し外れた通りにあった。
石造りの正面に大きな木の看板。
出入りする人間は多く、昼を少し過ぎた時間でも中からはざわめきが途切れない。
酒場を兼ねているらしい。
扉を開けた瞬間、木の床の軋み、酒と汗と鉄の匂い、笑い声と荒っぽい会話がまとめて押し寄せた。
そして、ナタリアが入った瞬間に、そのざわめきがほんの少し変わった。
理由は明白だった。
スラリとした長身。
それでいて体幹の整った歩き方には、少しの揺らぎもない。
豊満すぎる胸も、目を引くというより、むしろ全身の安定感の一部に見える。
華やかなのに脆さがなく、育ちの良さと実戦向きの身体が同居している。
しかも、顔立ちは見惚れるほど整っている。
そんな女が、一人で冒険者ギルドへ入ってきたのだから、目立たない方が無理だった。
見惚れる視線。
好奇の視線。
品定めする視線。
そして一番嫌なのは、舐める視線。
貴族上がりの世間知らずの女、しかも一人ならどうにでもなると思いたい種類の眼差しだ。
ナタリアはそれを全部感じながら、まっすぐ受付へ向かった。
木製のカウンターの向こうにいた受付嬢が、一瞬だけ目を見張る。
だがすぐに仕事の顔へ戻るあたり、よく訓練されている。
「ようこそ、冒険者ギルドへ。本日はどのようなご用件で――」
「冒険者登録をお願いしたいのだけれど」
ナタリアがそう言うと、受付嬢の表情がほんの少しだけ変わった。
予想外ではあったが、歓迎できないわけでもない。
ただ、本気かどうかを測る顔だ。
「承知いたしました。では、登録前にいくつか確認事項がございます」
「こちらからも確認したいことがあるの」
ナタリアはカウンターに肘をつかず、きちんと立ったまま言う。
「登録に必要な身分確認」
「初回登録料の有無」
「受注条件と報酬の支払い規定」
「負傷時の扱い」
「素材の帰属」
「単独登録で受けられる依頼の範囲」
「それと、初期ランクの扱いを先に伺っても?」
受付嬢が一瞬だけ目を瞬かせた。
こういう客は珍しいのだろう。
新人ならたいてい、勢いだけで登録しようとするか、逆におどおどと受け身になる。
だがナタリアは違う。
必要事項を最初に並べる。
夢ではなく、仕事として入る顔だ。
「……承知いたしました」
受付嬢の声も、少しだけ引き締まる。
「順にご説明いたします」
それからしばらく、ナタリアはかなり真面目に話を聞いた。
登録料。
身分確認。
ギルド規約。
依頼受注の基本。
違反時の処分。
素材持ち込みと買い取り率。
死亡時の遺品処理。
単独行動の制限。
未熟なまま高ランク依頼へ手を出せないよう設けられた規定の数々。
ナタリアは途中で何度か確認を挟む。
「討伐対象の部位切り取りは、依頼達成証明として扱うのね」
「素材を持ち込まず達成証明だけの場合、報酬は減額される?」
「負傷時の治療斡旋はあるけれど、費用は基本自己負担」
「なるほど」
受付嬢はもう完全に“本気の客”として対応していた。
周囲のざわめきの中で、カウンターの前だけ少し仕事の空気になる。
「初期ランクについてですが」
受付嬢が最後に説明する。
「原則として、新規登録者は一律でFランクからの開始となります」
「実力や技能があっても、依頼遂行実績がありませんので」
「ただし、登録後の簡易査定や初回依頼の達成状況次第では、早期昇格もございます」
ナタリアはすぐに頷いた。
「妥当ね。ではFからで」
その返答に、受付嬢の目がもう一度だけ少し開く。
不満を言わないのか、という驚きだろう。
ナタリアの内心では、かなり自然な判断だった。
実力があっても、実績がないなら最低位から。
その方がむしろ健全だ。
未経験者を最初から上へ置く方が危ない。
「お名前を」
「ナタリア・ヴォルディア」
隠さない。
今さら隠す場面でもない。
受付嬢の羽根ペンが一瞬止まり、それから改めて紙へ走る。
「……ヴォルディア侯爵家の?」
「ええ」
「承知いたしました」
その“承知”には驚きも戸惑いも含まれていたが、受付嬢は仕事を崩さなかった。
むしろ、だからこそナタリアは少しだけその女を高く見た。
手続きが終わり、最後に小さな金属板の登録証が差し出される。
粗いがしっかりした作りだ。
Fランク。
冒険者ナタリア・ヴォルディア。
王子妃候補だった名が、今度は最下位ランクの登録証へ刻まれる。
「これで登録完了です」
受付嬢が言う。
「依頼票閲覧はあちらの掲示板で」
「Fランクで受注可能なものには色札がついております」
「ご不明点があれば、また窓口へ」
「分かったわ」
ナタリアは登録証を受け取り、きちんと礼を返した。
その瞬間、背後の空気が少しだけ変わる。
最初から見ていた何人かが、いまははっきりこちらを見ている。
見惚れていた視線ではない。
もっと実務的で、もっと下品な値踏み。
Fランク登録したての女。
しかも一人。
貴族令嬢めいた顔立ちと所作。
世間知らずかもしれない。
組めるかもしれない。
からかえるかもしれない。
いけるかもしれない。
振り返らなくても分かった。
登録完了。
そして、もう次の面倒が来るのね。
登録証の重みを指先で確かめながら、ナタリアは内心でそう切った。
現場に入った途端、声の大きいのが寄ってくる。
どこでも同じね。
背後で椅子が一つ、ぎ、と鳴った。




