3-5
「な、なんだ……いきなり金をバラ撒きやが――ぐほぉっ!?」
行商の悲鳴にも似た叫びが、厚い雲を貫く勢いで響いた。
人垣の隙間からようやく騒ぎの全容を覗き見ると、石畳の上に大量にぶちまけられた緑色のガラスの破片と、その中に佇む姫様、そしてそれにしがみ付いて目を見開いたマルグリット。彼女らの足元に股間を抑えて蹲る大男と、辺りに散らばった金貨が、何とも言えない絵画的な風景となって広がっていた。
「――おい、拾えよ。テメェの金だ、ブタ」
鈴の音のように軽やかながらもドスの利いた、そう、まるで切れ味のよい美しい刃のような声が、辺り一帯を切り裂いた。
「おっ……うぐっ……な、なにを……」
汗と涙と涎で顔面をぐちゃぐちゃにしながら、地面に這いつくばる男は震える声で口にする。何が起きたのか分かっていないマルグリットの手を姫様は笑顔で優しく払うと、男を一瞥、鋭い目つきで見下ろして、その後頭部を思いっきり踏みつけた。
「さっきから聞いてりゃぴーぴーぴーぴー、雛鳥か! 鳴いてりゃ餌が貰えると思ってんのかテメェは! あぁ!?」
言いながらぐりぐりと足裏を擦りつけ、無理やり男の顔面を地面に擦り付ける。
ああ……止められなかった……すまない、行商のオッサン。
「見た所、西のルタードから来た行商人だな? 東の国じゃ金貨一枚だって……テメェの目はどんだけ節穴なんだっ! 確かにガラス器に間違いはねぇがな、透過度が低すぎるんだよ! 職人の腕が悪いか、粗悪な原料を使っている証拠だろうがっ! んな事も分からねぇのか、今の時代の船乗りはよ!?」
予想通りの事態になってしまった……あのままにしたら、絶対にこうなると分かっていたんだ。粗雑で、乱暴で、でもそれが美しい。僕の知っているシルフェリア様は、『この』シルフェリア様だから。
この城で再びお会いした時は、ずいぶん清楚になられたと思っていた。だが、その視線や表情の節々に感じていた。きっとあれは、『猫を被っているだけである』と。十年前の、あの日のシルフェリア様は、まだ彼女の中で生きていた。
「ち、ちがっ……俺はの目は節穴じゃ――」
「じゃあ、言ってみろ! ホントは幾らで仕入れた……?」
姫様は大男をぐいぐいと足でしばき倒しながら、ガンを飛ばして睨みつける。
あの自信と迫力に気圧されれば、どんな男だって彼女の前に跪くだろう。
「その……貨……枚だ」
「ああっ? 声が小さいっ!」
「並んでいる物も含めて、金貨十五枚ですぅっ!」
並んでいるもの、というの露店の他の商品の事だろう。同じようなガラス品を含め、他にもアクセサリーやらよく分からない置物やら、東の国から持ってきたのであろう物品が多く並んでいた。
「だろうな。そもそもガラスが出回ってる国でこれ一枚が金一枚すらするハズがねぇ。それを金十五でこれだけ仕入れたってんなら……確かにアンタの目利きは優秀だ」
ようや行商の頭の上から足をどけて、姫様は彼の全身の身なりを改めて、舐めまわすように確認する。
「大方、祭り景気にあやかって、ひと儲けしようって腹だったんだろう」
「……それが商売人だ。文句あるかよ」
行商は起き上がって汚れまくった顔を袖でゴシゴシと擦りながら言い捨てる。
「悪かねぇよ。ただ、この国を甘く見てると、今日みたいに痛い目を見るぜ。物理的にな。それと――」
言い添えるようにして、姫様は散らばった金貨を指さした。
「――その逞しい商魂に免じて割った分を金二十で買ってやる。これに懲りずに、次はもっと良い商品を持ってこい」
そう言い切ると、姫様はいつもの華やかな表情でにっこりと笑みを作って見せた。正直、何を言われたのかよく分かっていなかったのだろう。商人はぽかんと口を開けて、何とも言えない表情で彼女を見つめることしかできなかった。
「ねぇ……あの女の子、どこかで見たことない?」
「――っ!」
すぐ傍の野次馬からそんな声が聞こえて、僕は思わず息を飲んだ。
「今度こそまずい……っ」
僕は雑踏の中から騒ぎの輪の中へ踏み出すと、男が呆気に取られている内に姫様とマルグリットの手を取った。
「ルーフェン様!」
「お、おい、何する――」
「人目に付きすぎました。バレる前に立ち去ります!」
不敬ながらも姫様の言葉を遮って、二人を強引に喧騒の外へと連れ出した。
息が上がるほどに路地を駆け抜けて、できるだけ人の少ない方へと彼女たちを引き連れる。仮にもお忍びなのだ。姫様の存在がバレる事は非常にまずい。
とは言え……普段の体面の彼女の姿しか知らない人々からすれば、先ほどの彼女を同一人物とは信じない気もするが。
「はぁ……はぁ……この辺りまで来れば良いでしょう」
いい感じに息が上がるまで走った所で、二人から手を放して改めて向き直った。
髪を乱しながら息を切らせるマルグリットと、全く息が上がっていない、しかも身なりも整ったままの姫様を前にして、一度深く頭を下げる。
「火急の事で、失礼いたしました」
自身の非礼を詫びるように口にすると、顎からぽたりと汗の滴が地面に落ちた。
「ふ……ふふ……はは……あははははっ」
どやされるのを覚悟した。が、代わりに帰って来たのはカラカラとした姫様の笑い声だった。
「見たかよさっきの男のアホ面! ガキに説教されてぽかーんとしてやんの! まあ、ナメた度胸でこの国来たんなら多少お灸は据えてやらねぇとな」
「シルフェリア様、お怪我はありませんか?」
「誰に聞いてんだ。見ての通り、ぴんぴんしてるよ。あと――」
姫様は言いながら下げたままの僕の頭を掴んで、そのままぐいぐいと上下に髪を引っ張った。
「街に、居る時は、シルフィだっ、つってんだろっ!」
「も、申し訳ありません。あ、あと……もういつもの口調に戻られても大丈夫ですよ。その……オードリィ様が怯えていらっしゃいます」
ちらりと二人で視線を向けると、肩を抱くようにしてカタカタと震えるマルグリットの姿がそこにはあった。
「あー……こほん」
姫様はちいさく咳ばらいをすると、ニッコリと天使の笑みを作って見せた。
「先ほどは怖い思いをしてしまいましたね。もう、大丈夫ですよ。オードリィ様」
「は、はい……あの」
マルグリットは何を言ったら良いのか、目を四方に泳がせながら胸の内の言葉を探すように口をもごもごとさせると、やがて恐る恐る震える口を開く。
「シルフィ様……さっきのって……その……」
「びっくりなさいましたよね……申し訳ございません」
ほほを染めて恥じらいながら答えた姫様に、マルグリットは余裕のない表情でただ小さく頷いて見せる。
「実はその、ちょっとキレ――いえ、気分が高揚すると、昔の癖が出てしまいまして」
「癖、ですか……?」
「はい。小さい頃によく遊んでくださったおと――おじ様の口調をよく真似していたもので、その癖が」
その答えはきっと半分嘘で、半分本当だ。
口調そのものに関していえば、確かにその通りかもしれない。あの日出会った大男の影響を受けたのだという話は頷ける。
だが、『あの姫様』こそ本当のシルフェリア様であると、僕は信じて疑わない。感情のままに国を愛し、国民を愛する。等身大の彼女の姿。
僕の憧れの、姫様の姿だ。
「正そうと試みているのですけれど、とっさの時はつい」
それもおそらく嘘だ。とても改善を試みている方の所作ではない。
それでも、事情をよく知らないマルグリットにはそれで納得のいく答えが得られたようで、小刻みに震えるように何度も頷いてみせていた。怯えた目は変わらなかったが。
「シルフィ様、今日は帰りましょう。流石にあの騒ぎを起こされた後では、城下に居るのは危険です」
「ああ? これからちゃんと案内を始める所だった――」
ギロリと睨まれた姫様の鼻頭にぽつりと、一滴の滴が滴り落ちた。
それを皮切りにひとつ、またひとつと、幾重にも滴が降り注ぐ。やがて、それは大粒の雨となって僕らの頭上に降り注いでいた。
「あー……この雨では仕方がないですね。ごめんなさい、オードリィ様。案内はまた今度にいたしましょう」
「は……はい。楽しみにしております」
雨は全力疾走で火照った身体から瞬く間に熱を奪い、僅かに寒気も感じてくる。
それでも胸の熱さだけは、いつまでも芯に残り続けていた。




