7.図書館での出会い
次の日。
俺は朝から家の近くの図書館に来ていた。ここに来るのは受験勉強をしていた時以来だ。
平日だが夏休みということもあって、館内は涼を求めてやってきた学生達や親子連れで、それなりに混雑していた。自習室に至ってはほぼ満杯だ。まぁ、宿題を集中してやるにはもってこいの場所だしなあ。
「悠護、ここは何じゃ。人が一杯じゃのう。」
キョロキョロと辺りを見回しながら、チュンが俺に尋ねてきた。
「図書館だよ。この町の住人なら、タダでここの本を借りられるんだ」
他の利用者の邪魔にならないよう、俺はチュンの質問にできる限り小声で答える。
「ほぅ。それは面白そうじゃな。それで何の本を借りるんじゃ」
「いや、今日は本を借りに来たわけじゃないんだ」
「じゃあ何しに来たんじゃ?」
「ちょっと調べ物をしようと思って……」
俺は図書館の一角を目指して歩き続ける。 確かあそこには、地元の新聞を縮小印刷して冊子にした物が置いてあったはずだ。
記憶を頼りに足を進めると、呆気なく目的の物を見つけることができた。ずらりと並ぶ冊子を前に、俺はどれから手を付けてよいのかわからず、しばし立ち尽くす。
「見んのんか?」
「あ、あぁ……」
俺は歯切れの悪い返事をすることしかできなかった。さすがに全ての縮刷版に目を通すわけにもいかない。思った以上に骨のある作業になりそうだ。
「悠護、あそこが面白そうじゃから、ちぃと見に行ってくるわ。絵がいっぱいじゃ」
チュンはそう言うと、絵本コーナーのある方へふわふわと飛んで行った。小さな子供達の方へ嬉しそうに向かう着物姿の女の子は、座敷童を彷彿とさせた。
チュンの後ろ姿を見送った俺は、再び眼前の本棚と対峙する。
俺がここに来たのは、トラの家族の手掛かりを知るためだった。
あの家族が人知れず、夜逃げ同然で他所の土地へと移ったのなら、ただの高校生である俺にはどうしようもない。
でも……。もし。
もしあの家族が不幸な事故に合い、そのせいで帰って来ることができなくなったのなら。もしそうならば、俺はあの妖怪猫、トラに真実を伝えてあげたい。
お前の家族は、お前を見捨てたわけではないのだと。本当は、お前の元に帰って来たかったのだと。そうあって欲しかったし、そう言いたかった。
これは、俺の勝手な願望だとわかっている。それでも、俺は見たし聞いたんだ。あの女の子がトラを触れる手は愛に溢れていた。そして何より『帰ってくる』と言ったんだ。
俺は意を決し、まずは去年の一冊を取り出した。だが、その表紙の「一月」に違和感を覚えた俺は、中を見ることなく棚に戻す。
玄関で見た女の子は、薄着の長袖という格好だったはずだ。真冬の寒さに耐えられるような服装ではなかった。ならば十二~二月の季節では無いだろう。六~八月も、この辺の気候では半袖で過ごす季節なので却下だ。となると、季節の変わり目も考慮して、三~五月、九~十一月辺りか。
俺が見たトラの記憶が、どれほど前の物だったのかはわからない。俺が見たのは大昔の映像の可能性もあるが、家の中や女の子の服装は、俺が違和感を覚えるほど古臭くはなかった。だとしたら二十年以上前ではない気がする。今当たりを付けた月を、十年ほど順に遡って見ていくのが確実か。
そう決めた俺は早速数冊を取り出し、近くの椅子に腰掛けたのだった。
二時間くらい経っただろうか。突然、絵本コーナーからチュンが一冊の本を抱え、慌てた様子で俺の所まで走り寄ってきた。漆黒の目の端には、ちょっと涙まで浮かんでいる。
「ゆゆゆゆゆゆ悠護!」
「どうしたんだよ? そんなに動揺して」
「こっ、こっ、この本は何じゃ!?」
チュンが持っていた絵本の表紙を俺に向ける。その本の表紙には、涙目になっている雀と、おばあさんの絵が描かれていた。
なるほど。『舌きりすずめ』か……。
「これは、昔話だよ」
「む、昔話? 昔、本当にこんな話があったということか?」
「そういう意味じゃなくて、架空のお話だよ。うーん、何て言えばいいのかな。教訓というかなんというか」
人間の昔話の定義を妖怪に説明するのも、なかなか難しい。俺はそこで言葉を詰まらせてしまった。
「えっと……よくわからんが、人間は道楽で雀の舌を切るわけじゃねぇんじゃな?」
「うん、切らないよ。ていうか無理」
雀の回避能力の高さはかなりのものだ。子供の頃に捕まえようとして、何度失敗したことか。
「そ、それなら良いんじゃ……」
ホッと胸を撫で下ろした後、チュンはまた絵本コーナーへと戻って行った。
字が読めないからか、文字の少ない絵本に、チュンはすっかりはまったようだ。小さな子供の隣で目を輝かせながらページを捲るその様子は、なかなかに微笑ましい。思わずこちらの口元も緩んでしまう。
さて、また記事を探そうと目を冊子に戻した、その時だった。
パサリ。
俺の鼓膜を震わせたのは、何かが落ちる音だった。反射的に音のした方に目をやると、濃い緑色の小さな手帳が床に転がっていた。
どうやら落とした主は、長い髪をポニーテールに纏めた女の子らしい。周りにその子以外歩いている人がいなかったので、俺はそう判断した。
可愛らしい犬の絵がプリントされたピンクのTシャツに、七部丈のカーゴパンツといったいでたちのその女の子は、踵の低いミュールを履いていた。女の子は手に持ったスマートフォンに集中しているせいか、落としたことに気づいていないみたいだ。
俺は慌てて椅子から立ち上がり、その手帳を拾う。見覚えのある手帳だと思ったら、これはうちの学校の生徒手帳じゃないか。てことは、この子は俺と同じ学校の生徒なのか。
その生徒手帳の名前欄を確認すると『一年三組 金剛地 絵梨』という文字が書かれていた。
こんごうじえり。
脳内で名前を読んだ俺は、そこであることを思い出す。確か幽霊の爺さんが探していた孫の名前って、『えり』じゃなかったか?
俺がそう考えている間に、既に女の子は出口に近い所まで移動していた。慌てて俺は後を追いかけ、彼女の肩を軽く叩く。その瞬間「ひぅっ!?」という悲鳴と共に肩をピクリと震わせ、女の子は足を止めた。
そんなに驚かせてしまうとは。ちょっと罪悪感。
「あの、これ落としたよ」
「あっ!? ありがとう」
視線を俺と生徒手帳に忙しく往来させつつ、女の子は手帳を受け取った。
どうしよう。爺さんが探しているっていう孫が、この女の子の可能性がある。でも違うかもしれない。『えり』という名前の人は結構な確立で存在していそうだし。何か良い探り方はないか? お爺さんはもう亡くなっている? と聞いてみるとか。
っていやいや! それはいくらなんでも失礼すぎるだろ!?
脳内で頭を抱える俺に、金剛地絵梨は訝しげな視線を送ってきていた。
「どうしたの?」
「い、いや。なんでもない。ごめん」
「……?」
金剛地絵梨は肩から提げていた鞄に生徒手帳を仕舞うと、またスマートフォンに目を落とし、図書館から出て行ってしまった。
まぁ、同じ学校の同じ学年の子みたいだし、いずれ聞いてみればいいか。俺は踵を返し、先ほどまで座っていた椅子へと、また戻ったのだった。
結局その日は、図書館でそれらしい記事を見つけることができなかった。
家に帰った後は、パソコンで交通事故の記事の検索もしてみた。それらの記事を片っ端から読もうと試みたものの、記事がありすぎて眩暈がした。交通事故って、結構毎日起こっているものなんだな……。そしてついつい横に表示された関係のないリンク先をクリックしてしまい、何度も脇道に逸れてしまう羽目に。
ダメだ。どうも俺はパソコンだと、こういう調べものに集中できない。それに、新聞の有料会員でないと見ることのできないページも多々あったのだ。やはり、明日も図書館で探してみよう。
俺は腕を組み伸びをした後、朝に手をつけてそのままにしていた宿題に手を伸ばした。まずは数学のプリントから終わらせるか。
「ん……」
シャーペンを手にしたその時、俺のベッドの端で丸くなっていたチュンから、吐息混じりの声が漏れた。チュンも普通の雀同様に、日が沈むと眠くなるらしい。最初は妖怪にも眠気があることに驚いたものだ。
俺は机から離れ、ベッドの端に腰掛ける。ギシ、とベッドの軋む音が響くが、チュンは全く起きそうにない。俺はチュンの濃い茶色の髪に手を伸ばし、そっと指で梳いてみた。サラサラとした心地良い感触。そして、無垢な寝顔。これが幻術だということが、にわかには信じ難い。
チュンは一体何が目的で、俺に取り憑いたのだろう。
今のところ生活を共にしているだけで、取り立てて何かのお願いをしてくる様子もない。チュンが現れた時『俺が抱いたままの、チュンに対する罪悪感が消えるまで取り憑く』と彼女は言った。しかし、俺はその言葉を全面的に鵜呑みにはしていない。
俺が踏み殺したことについて、チュンは怒っていないと言った。
だが、本当だろうか?
もしかして、本当は俺に復讐する機会を伺っているのではないか?
チュンが言ったことを疑いたくはない。でも、俺は少し怖かった。自らのことを「妖怪」と呼ぶチュンのことが、まだ怖かったんだ。
「本当に俺のこと、怒っていないのか……?」
気付いたら蚊の鳴くような声を、チュンに投げ掛けていた。その声に反応してしまったのだろうか。そこでチュンが寝返りを打った。
「……ご…………す……」
言葉になっていない寝言を洩らした後、チュンはまた夢の世界へと戻って行った。