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5.雀の幻術

 俺は全身から汗を流し、息が整うのを待っていた。

 心臓はまだ、普段の倍の早さで脈打っている。顔からは汗がとめどなく溢れてきては、顎を伝ってポタポタと下に垂れていく。

 あんなに全力のまま走り続けたのは、体育のマラソンの時にも経験がない。記録にしていたら、間違いなく結構な好タイムが出ていたはずだ。

 喉の奥から血のような味がせり上がってきて、口の中を不快にしていく。体はなかなか通常状態に戻らない。

 あれから俺は、チュンの助言通り学校へと向かった。そして部活に勤しむ野球部を尻目に、俺達は校舎の中へ一目散に入り、屋上へと続く階段の踊り場で息を潜めているところだった。

 チュンが言うには、学校は遮る物がたくさんあるので外よりは都合が良いらしい。


「悠護、しばらく動くな」


 チュンが階下を警戒しながら俺に言う。俺は走っている間まったく後ろを振り返らなかったので、妖怪猫を振り切れたかとちょっと期待していたのだが。チュンのこの様子を見ると、まだ油断できない状況らしい。

 そこで突然、チュンは右手を着物の左袖の中に突っ込み、何かを漁るようにごそごそとし始める。しばらくした後、袖の中から出てきたのは鈴の付いた竹製の編み笠だった。

 お前、そんな物をどこに隠し持っていたんだ!? 着物の袖に何かあるような気配はなかったぞ!? と俺が驚愕している間に、チュンは笠を両手でしっかりと持ち、真上に掲げた。

 それは、小学校低学年の子が運動会でダンスを披露するような――そんな微笑ましい光景だったが、チュンの顔の真剣さがこれは遊びではないということを物語っていた。

 チュンは笠を持ったまま、まるで蝶が舞うようにヒラヒラと俺の回りを飛び跳ねだした。

 シャンシャン、シャララン。

 チュンの動きに合わせ、笠にぶら下がる鈴の音が響く。笠から光の軌跡を残し、チュンは優雅に舞い続ける。

 幻想的な光景にしばしの間目を奪われていたが、ここで大切なことを思い出した。

 今俺達は、あの妖怪猫から逃げている最中じゃないか。こんな音を出してしまったらまずいんじゃないのか?


「チュン――」

「もう終わる! 静かにせぇ!」


 言い終わる前に一喝されてしまった。何かチュンには考えがあるのだろう。ここはチュンを信じて、おとなしくしておくしかなさそうだ。

 シャン、シャララン、シャララン――。

 俺の周りを二周したところで、チュンは動きを止める。鈴の音が消えると同時に、突如俺達の周りに白い(もや)が発生した。靄は俺とチュンの姿を隠すようにして広がっていく。徐々に濃さも増し、数秒後には視界が完全に白濁してしまった。


「チュン。これは?」

「幻術じゃ。今のわしらの姿は、誰からも見えておらんはずじゃ」

「そうなんだ。で、今のあの踊りは何だったの?」

「幻術の儀式じゃ。おめぇに見せとるみたいに、わし一人の姿を違うものに見せるならあの儀式はせんでもええんじゃけどな。対象がでかい場合や広い場合、あれをせにゃならんのじゃ」


 わし、低級妖怪じゃけん、と小さくはにかむチュンのその顔は、少しだけ憂いを帯びていた。


「それにしても、どうしてあの妖怪猫は俺達を追いかけてきたんだ?」

「おめぇが『見える』からじゃろうな。妖怪も幽霊も、自分の存在がこっちの世界の者に認識してもらえる、ということは嬉しいもんなんじゃ」

「てことは、チュンのせいじゃん……」


 しかしあの猫、俺に向かってずっと「クワセロ」って言っていたのですが。『嬉しい』の意味が、俺の感覚と違うような気がするんですけれど……。


「仕方ねえじゃろうが。おめぇに取り憑いとるんじゃけん」


 そう言って口を尖らせるチュンだったが、突然その表情が緊迫したものに変わる。


「……来た。悠護、喋るなよ。やり過ごすんじゃ」


 階下へと視線を向けると、既に妖怪猫がヒタヒタと階段を上ってこちらに向かってきていた。 

 距離が近いので、先ほどより鮮明に顔を認識することができた。黄色の目は、まるで茶渋がこびりついているかのように濁っている。そして大きく裂けた口が、この世の猫ではないことを如実に語っていた。

 近くで見る妖怪猫は、不気味という他なかった。

 恐怖のあまり声が洩れてしまいそうになってしまったので、俺は慌てて口を押さえた。落ち着きを取り戻しかけていた心臓が、また早さを増し始める。

 妖怪猫は息を潜める俺達の前を通り過ぎ、半開きにしていた屋上へと続く扉へ向かい――かけて、突如ピタリと足を止めた。

 そして、ゆっくりと振り返る。俺達の方へ。

 目が、合った――気がした。猫からは、俺達の姿は見えていないはずなのに。

 猫はまた大きく口を裂け、ニイと笑った。その瞬間、全身に鳥肌が立った。

 もうダメだ。見つかってしまった……。

 俺の動物としての本能が、全力で叫んだ。逃げろ、と。

 今まで感じたことのない恐怖心。腹の底に一気に氷を詰め込まれたような、冷えた感覚が瞬時に全身を走り抜ける。

 気付いた時には、俺はチュンの警告を無視し、目の前の扉から屋上に飛び出してしまっていた。


「悠護!?」

「クワセロ……クワセロ……クワセロ!」


 結界から出た俺の姿を見つけたのか、猫は俺を追いかけてくる。

 どこか逃げる場所は?

 いや、ダメだ。ここは屋上だ。下りなきゃ。下に行かなきゃ。

 どこから? さっきの階段から。

 でも、行く手には猫が――。

 俺がパニックに陥っている間に、猫は俺との距離を詰め、牙を向き飛びかかってきた。俺はまるで脚を何かにがっしりと掴まれたかのように、身動き一つとれないでいた。まるでスローモーションのように猫の動きがよく見えていたのに、まったく動けなかった。


「悠護!」


 慌てて駆けてきたチュンが、俺に向かって腕を伸ばす。だがチュンの腕が俺に触れるほんの手前で、視界一面に漆黒の闇が広がった。


「うわああああああっ!」

「悠護っ!」


 すぐ側にいたはずのチュンの叫びが、瞬く間に遠くなっていく。

 一面の闇は渦を巻きながら目の前で収束し、今度は太陽のような眩しい光の塊が急激に弾け、そして散った。

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