第7話 三つ数えたら
そして、次の日の夜。
診察室の窓ガラスを、激しい雨が叩きつけていた。
稲妻が走るたび、机の上に並べられた三枚の写真が青白く浮かび上がる。
少年。
美咲。
透。
結城先生は椅子に座っていた。
静かだった。あまりにも静かだった。
「……透くん?」
返事はない。
先生は時計を見る。約束の時間を過ぎている。
けれど、来るはずだった。
昨日の夜。透は笑っていた。
『明日も来ます』
そう言っていた。
先生は立ち上がった。
「透くん?」
診察室の外へ出る。
廊下には誰もいない。
受付にも人はいない。
静まり返ったクリニック。
その奥から。
小さな音が聞こえた。
カチ。カチ。カチ。
シャープペンシルを机に当てるような音。
先生は振り返った。
「……誰だ?」
返事はない。
診察室へ戻る。
三枚の写真を見る。
少年。美咲。透。
先生は一枚ずつ手に取った。
「君たちは……」
そこで言葉が止まった。
三枚目。透の写真。
写真の隅に、見覚えのない文字が書かれている。
先生は眉を寄せた。
そこには一行だけ。
『先生、ありがとう』
「……透くん?」
その瞬間。
背後でドアが開いた。
先生が振り返る。
「透――」
そこに立っていた人物を見て。先生は言葉を失った。
目の前の男は、静かに笑っていた。
透と同じ顔。
透と同じ声。
それなのに。先生には分かった。
「……君は」
「こんばんは、先生」
男は穏やかに頭を下げた。
「今日は、最後の診察ですよね」
先生の顔から血の気が引いていく。
「……どうして」
「何がです?」
「その目……」
男は笑った。
「変ですか?」
「いや……」
先生は後ずさった。机に手をつく。
「君は、透じゃない」
男は少しだけ首を傾げた。
「僕は透ですよ」
「違う」
「先生」
一歩。男が近づく。
「あなたが言ったんですよ」
「……何を」
「僕は、僕だって」
先生は黙った。
男は机の上の三枚の写真を見た。
少年。美咲。透。
「この二人は、もういません」
先生が息を呑む。
「でも」
男は三枚目の写真を手に取った。
「僕は残りました」
「……」
「だから、先生の治療は成功です」
先生の手が震える。
「そんなはずは……」
「どうして?」
「君は……」
先生は言葉を探した。
「君は、透を守るために生まれたはずだ」
男は微笑んだ。
「そうですよ」
「なら、なぜ――」
「だから残ったんです」
静かな声だった。
「透を守るために」
先生の顔が強張った。
男は写真を机に戻した。
「先生」
「……何だ」
「一つだけ、聞きたいことがあります」
「……」
「もし僕が透じゃないと知っていたら」
男は笑った。
「先生は、僕を消しますか?」
沈黙。
先生は答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
男は頷いた。
「そうですか」
「待て」
先生が言った。
「君は……何をするつもりだ?」
「何もしません」
「……」
「僕はただ、生きたいだけです」
男はそう言った。
そして。
ポケットから取り出したナイフを握り、ゆっくりと先生へ近づいた。
窓の外で雷が光り、二人の影を床に伸ばしていく。
一つ。
二つ。
やがて影が重なった。
「先生」
「……何だ」
「これで、本当に最後です」
時計の音がした。
カチ。カチ。カチ。
「……何をするつもりですか」
先生は答えなかった。
ただ、静かに僕を見ていた。
「私の声を聞いて」
時計の音が、遠くなっていく。
「一つ」
「……やめて」
「二つ」
まぶたが重くなる。
「三つ」
「……先生……」
もう、声を出すこともできなかった。
視界が暗くなる。
その後。
診察室から、物音が聞こえた。
一度だけ。何かが倒れる音。
そして。
静寂。
雷が鳴った。
窓の外で白い光が弾け、診察室が一瞬だけ昼間のように明るくなる——。




