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第6話 いつもの診察室

目を覚ました。


白い天井が見えた。

鼻の奥に、消毒液の匂いが残っている。

身体を起こそうとすると、頭の奥が鈍く痛んだ。


……遠くから、現実の時計の音が聞こえる。


「……ここは」


見慣れた部屋だった。

白い壁。本棚。窓際の観葉植物。

結城先生の診察室。


僕はしばらく、その景色を眺めていた。

不思議だった。

ここにいることが、少しも怖くない。

以前なら、この部屋に入るだけで胸が締めつけられていた。


先生の前では、いつも自分の言葉を選んでいた。

嫌われないように。見捨てられないように。

そんなことばかり考えていた。


でも今は。

何も感じない。


「……僕、寝てたんですか?」


声がした。


「そうだよ」


振り返る。結城先生がいた。

机の向こう側に座っている。

白衣。銀縁の眼鏡。穏やかな表情。

いつもの先生だった。


「先生……」


「気分はどう?」


「悪くないです」


「頭痛は?」


「少しだけ」


「そうか」


先生はカルテに何かを書いた。

その仕草を見ていると、奇妙な安心感があった。

僕は辺りを見回した。


「……僕、ここに来る前は何をしてました?」


「覚えていない?」


「はい」


先生は少し考えた。


「最後に覚えていることは?」


「先生と話していたことです」


「何を話していた?」


「……治療のこと」


そこから先が曖昧だった。

暗闇。少年。美咲。血。ナイフ。

先生が倒れている。

そして、自分の手。


(あれは……治療中の、幻覚?)


今思い出してみると、どこかがおかしい。

あのときの恐怖がない。先生を殺したと思っていたはずなのに。


先生が目の前にいることに、驚きはあっても、安堵はなかった。

むしろ。ずっと前から、こうなることを知っていたような気がした。


「先生」


「うん?」


「僕の名前って……」


先生が顔を上げる。


「透くん」


その呼び方を聞いた。

僕は自然に答えた。


「はい」


「自分の名前は?」


少し考える。答えはすぐに出た。


「透です」


先生は微笑んだ。


「そうだね」


その笑顔を見て、何かが胸の奥で動いた。

けれど、それが何なのかは分からない。


「……先生」


「どうした?」


「僕、変じゃないですか?」


「何が?」


「前と違う気がする」


先生は少しだけ目を細めた。


「そう感じる?」


「はい」


「どんなところが?」


「分かりません」


僕は自分の手を見た。


「ただ……怖くないんです」


先生のペンが止まった。


「怖くない?」


「はい」


「何が?」


「先生が」


その瞬間、先生の表情がわずかに変わった。

けれど、すぐにいつもの穏やかな顔に戻った。


「そうか」


「前は、先生に嫌われるのが怖かった」


「……」


「でも今は、別に嫌われてもいいと思う」


先生は何も言わなかった。僕は笑った。


「変ですよね」


「いや」


先生は静かに首を振った。


「それは、良い変化かもしれない」


「良い変化?」


「君は今まで、誰かに見捨てられることを極端に恐れていた」


「……はい」


「でも今は違う」


「そうですね」


「自分一人で立てるようになった」


その言葉を聞いて、僕は少しだけ笑った。


「一人で?」


「ああ」


先生はカルテを閉じた。


「これで、もう一人で生きていける」


その言葉を聞いた瞬間。

頭の奥に、誰かの声がした。


『一人じゃない』


少年。続いて、美咲。


『忘れないで』


僕は目を閉じた。

でも、二人の姿は浮かばなかった。

ただ、遠い記憶のような感覚だけが残っている。


「……何か、変な感じがします」


「無理に思い出そうとしなくていい」


「はい」


先生は優しく言った。


「君の中にいた二人は、君を守るために存在していた」


「二人……」


「少年と、美咲」


その名前を聞いても、以前ほどの混乱はなかった。


「僕とは違う人ですよね?」


「違う」


先生は答えた。


「少なくとも、これまで君はそう感じていた」


「……」


「でも実際には、君自身の一部だった」


先生はゆっくりと言葉を選んだ。


「君が子供の頃に受けた強い恐怖を、あの少年が引き受けた」


僕は黙って聞いていた。


「そして、美咲は冷静に判断する役割を担った」


「役割……」


「君が日常生活を送るために、必要だったんだ」


「じゃあ、僕は?」


先生は微笑んだ。


「君は、普通に生きるための部分だった」


普通。

その言葉が妙に心地よかった。


「だから先生は……」


「三人を一つに戻そうとした」


「統合……」


先生が頷く。


「誰かを消すためではない。君を一人の人間として生きられるようにするためだ」


僕は先生を見た。


「少年も、美咲も?」


「必要な役割を終えれば、自然に一つへ戻っていく」


「消えるんじゃなくて?」


「消えるわけじゃない」


先生はそう答えた。

その言葉を聞いても。なぜか、僕は納得できなかった。

けれど、反論する気にもならなかった。


「……先生」


「うん」


「僕は、治ったんですか?」


「治ったというより――」


先生は少し考えた。


「戻ってきたんだよ」


「どこから?」


「君自身のところへ」


その言葉に。僕は笑った。


「そうですか」


「ああ」


先生も笑う。

その表情は、初めて会った頃と同じだった。

穏やかで。優しくて。僕を安心させる笑顔。


「先生」


「うん?」


「ありがとうございました」


先生が少し驚いたように僕を見る。


「何が?」


「ずっと、僕を助けてくれていたんですよね」


「……」


「僕、先生のことを信じてよかった」


先生は何も言わなかった。ただ、少しだけ目を伏せた。


「透くん」


「はい」


「これからは、自分で生きていける」


「はい」


「もう、私がいなくても大丈夫だ」


その言葉を聞いた。

以前の僕なら、胸が締めつけられていたはずだ。


先生にいなくなってほしくない。

見捨てられたくない。

ずっとそばにいてほしい。そう思っていた。


でも今は。

何も感じなかった。


「そうですね」


僕は答えた。

先生が微笑む。


「おかえり、透くん」


「……ただいま、先生」


その瞬間。

時計の秒針が、一度だけ大きく響いた。

カチ。


診察室の時計は、午後九時を指していた。


僕は立ち上がった。


机の上に、三枚の写真が置かれている。

少年。美咲。そして、僕。


先生はそれを見て、安心したように微笑んだ。

僕も写真を見た。

少年。美咲。透。


不思議だった。

もう、彼らのことを怖いとは思わない。

むしろ。遠い昔の友人を見ているような気がした。


僕は三枚の写真を重ねた。

そして、机の上へ戻す。


「先生」


「何だい?」


「僕、これから何をすればいいですか?」


「まずは家に帰ろう」


「そうですね」


先生が立ち上がる。


「今日はもう遅い、明日にしよう」


「はい」


先生がドアを開ける。

僕はその後ろを歩いた。

廊下に出る。


足音が二つ。先生。僕。

それだけ。

そのはずなのに。

背後から、もう一つ。小さな足音が聞こえた気がした。


僕は振り返った。

誰もいない。

先生がこちらを見る。


「どうした?」


「……いえ」


僕は首を振った。


「何でもありません」


そして笑った。先生も笑った。

僕は診察室を出た。

ドアが静かに閉まる。


誰もいなくなった部屋の中で。

三枚の写真だけが、机の上に残された。

少年。美咲。透。


そして。

三枚目の写真だけが、少しだけ傾いていた。

写真の中の「透」は、こちらを見ている。


その表情には――。

もう、以前のような怯えも、優しさもなかった。

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