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第5話 透は、もういない

目を覚ましたとき、僕は診察室にいた。


窓の外は暗い。雨は止んでいた。

けれど、部屋の中には、まだひんやりとした雨の匂いが残っている。


「……ここは」


身体を起こす。頭が重い。

ふと、自分の服を見た。乾いている。

あんなに激しい雨の中を走ったはずなのに、どこも濡れていない。


僕は自分の服を見つめた。

靴も乾いている。

バッグも濡れていない。


「僕……」


何かがおかしい。

目の前に、結城先生が座っていた。


「おはよう、透くん」


「……先生?」


先生はいつものように微笑んでいた。


白衣。銀縁の眼鏡。

机の上には、いつものカルテ。


何も変わっていない。

何も起きていないように見えた。


僕は立ち上がろうとした。

けれど、身体が鉛のように重く、動かなかった。


「……どうして」


「少し疲れているんだよ」


「先生……」


僕は先生を見つめた。

胸の奥に、言葉にできない違和感がある。

何か大切なことを忘れている。

そんな感覚。


「僕……ここに来る前、何をしていました?」


先生は答えなかった。


「透くん」


「はい」


「今、何を覚えている?」


「……先生が死んだこと」


先生の表情が止まった。


「僕が先生を殺したかもしれないって思って……」


「そうか」


「それから逃げて……」


そこまで話したところで、頭が割れるように痛くなった。


「写真を見つけました」


「写真?」


「少年と、美咲という女性、それから僕の写真」


先生は黙っている。


「二人とも、僕の知らない人です」


「……そうだね」


「でも、僕は二人の記憶を知っている」


先生が眼鏡を外した。

レンズを布で拭きながら、静かに言う。


「それは、君の記憶だよ」


「……違います」


「なぜ?」


「僕には、あんな記憶はない」


「記憶がないことと、自分のものではないことは同じじゃない」


その言葉に、胸がざわついた。


「先生は、全部知ってるんですか?」


「……知っている」


「じゃあ、教えてください」


先生は僕を見た。


「僕は誰なんですか?」


長い沈黙。

時計の針が進んでいく。

カチ。カチ。カチ。


先生は、ゆっくり息を吐いた。


「透くん」


「はい」


「君は、君だよ」


「そんな答えが聞きたいんじゃない!」


声を荒げた。自分でも驚いた。

先生に怒鳴ったことなんて、一度もない。


「すみません……」


すぐに頭を下げる。


「僕が悪いんです」


先生は何も言わなかった。


「僕は……何かおかしいんです」


「おかしい?」


「だって、自分の知らない記憶がある。知らない人の声が聞こえる。自分が何をしたのかも覚えていない」


喉が震える。


「先生を殺したかもしれない」


「……」


「怖いです」


先生は静かに僕を見ていた。

その目を見ていると、少しだけ安心した。

昔からそうだった。

先生だけは、僕を否定しなかった。


「先生」


「うん」


「僕を助けてください」


先生の表情が、ほんの少しだけ曇った。


「……もちろんだ」


その言葉を聞いて、涙が出そうになった。

やっぱり先生は、僕を見捨てない。

そう思った。


その瞬間だった。


『嘘』


「……え?」


頭の中で声がした。美咲。


『その人を信じないで』


「やめろ」


声に出してしまった。先生が眉をひそめる。


「どうした?」


「……何でもありません」


『透』


少年の声も聞こえた。


『怖いよ』


「やめてくれ……」


僕は頭を押さえた。


『先生がいる』

『先生は僕たちを消そうとしてる』


「違う!」


思わず叫んだ。先生が立ち上がった。


「透くん、落ち着いて」


「来ないで!」


先生の足が止まった。


「……そうか」


先生が呟く。

その声に、初めて聞いたことのない感情が混じっていた。


「もう、ここまで来たんだね」


「何がですか?」


「君自身が、気づき始めた」


「何に?」


先生は答えない。


「教えてください!」


「……君の中には、君だけではない」


時間が止まったような気がした。


「……何を言っているんですか」


「君を守るために、いくつかの部分が分かれている」


「部分?」


「恐怖を引き受ける部分」


彼は幼すぎたから、名前すら持たなかった。


「判断する部分」


自分と透を切り離し、客観的に守るために、彼女は自ら名前を持った。


「そして、日常を生きる部分」


「それが……僕?」


「そう。君は、透の日常を守るために、透の記憶をすべて共有しているんだ」


「じゃあ、あの二人は……」


先生は目を伏せた。


「君の一部だ。透自身が切り離し、心の奥底に隔離した存在だから、透の記憶しか持たない君が二人を知らないのも当然なんだよ」


頭の中で、何かが崩れた。


「……嘘だ」


「透くん」


「嘘だ!」


僕は叫んだ。


「僕は僕だ!」


涙が出た。


「僕にはちゃんと家があって、仕事があって、友達がいて……」


「そうだね」


「僕は普通に生きてきた!」


「そうだ」


「なのに……」


声が詰まる。


「じゃあ、今まで僕が生きてきたのは何だったんですか?」

「僕が笑ったことも」涙を拭う。

「悲しかったことも」


「うん」


「先生を信じていたことも」


「……全部、君のものだよ。」


その言葉だけは、優しかった。

だからこそ、苦しかった。


「では、今ここにいる僕は――誰なんですか?」


先生は答えなかった。


「じゃあ……二人は?」


「君を守るために必要だった」


「必要だった?」


「もう、役目を終えようとしている」


僕は息を呑んだ。


「役目を……終える?」


「君が一つに戻れば――」


その瞬間。


『嫌だ!』


少年の声が響いた。


『僕は消えたくない!』


「……!」


僕の視界が揺れる。

少年の記憶が流れ込んでくる。


暗い物置。鍵のかかった扉。

怒鳴り声。膝を抱えた小さな身体。


怖い。寒い。

誰かに見つかる。殴られる。

逃げたい。でも、逃げられない。


『僕が怖がれば、透は大丈夫』


少年の声。


『だから僕が怖がる』


胸が締めつけられた。


「もういい……」


僕は呟いた。


「もう、怖がらなくていい」


『本当に?』


「ああ」


『じゃあ……僕、いなくなっていい?』


「……」


答えられなかった。


少年は、僕のためにずっと怖がっていた。


僕が普通に生きるために。

僕が笑えるように。

僕が何も知らずにいられるように。

その恐怖を、全部引き受けていた。


「ありがとう」


涙が頬を流れた。


「もう、いいんだ」


『……うん』


少年の声が小さくなる。


『透が、怖くないなら』


最後に。ほんの少し笑ったような声がした。


『よかった』


胸の奥に、ふっと温かいものが広がり――消えた。


「……」


僕は目を閉じた。

静かだった。

頭の中から、少年の気配が完全になくなっている。


「一人、消えた」


先生が呟いた。


「違う」


僕は首を振った。


「消えたんじゃない」


「……」


「僕の中に残ってる」


先生は答えなかった。

そのとき。


『透』


美咲の声。


「……美咲?」


『分かってるわ』


「何を?」


『私は、あなたより先に気づいていた』


「何に?」


『私たちは、ずっと一人だった』


僕は黙った。


『でも、それぞれが別々に生きてきた』


「……」


『だから怖い』


初めて、美咲の声が震えた。


『私が消えたら、誰があなたを守るの?』


「僕が守る」


『できる?』


「……分からない」


『正直ね』


少しだけ笑った。


『だから、あなたに託す』


「何を?」


『考えること』


その言葉と同時に、知らない記憶が流れ込んできた。

机。ノート。大量の文字。


冷静に状況を分析する自分。

誰かに怒鳴られても動じない。

危険を感じた瞬間に、出口を確認する。

感情より先に、答えを探す。


それは全部、美咲だった。

でも。全部、僕でもあった。


「……ありがとう」


『あなたなら大丈夫』


「美咲」


『何?』


「死ぬな」


沈黙。


『それは無理』


「……」


『でも、忘れないで』


「何を?」


『私たちが、あなたを守ったこと』


声が遠くなる。


『あなたは、一人じゃなかった』


「美咲!」


叫んだ。

けれど、返事はなかった。


頭の中が静かになる。

少年もいない。美咲もいない。

残っているのは、僕だけ。


「……僕だけ」


その言葉を口にした瞬間。

猛烈な罪悪感が襲ってきた。

僕は二人を消した。僕が。

二人がいなくなった。


先生の言う「統合」が、こんなことだったのか。


「先生……」


僕は顔を上げた。

結城先生は、悲しそうな目で僕を見ている。


「僕が……二人を消したんですか?」


「違う」


「でも!」


「君は選んだんだ」


「選んでなんか……」


その言葉が止まった。

少年の最後の声。美咲の最後の声。

二人とも、僕に託した。僕が生きるために。


「……僕は、生きていいんですか?」


先生は静かに頷いた。


「もちろんだ」


「二人がいなくなっても?」


「君は生きていい」


その瞬間。

何かが切れた。


先生の声。白い診察室。時計。机。

全部が遠ざかっていく。


「……先生」


「うん」


「僕は、先生を信じていいですか?」


「……ああ」


「本当に?」


「本当だ」


僕は笑った。久しぶりに、心から笑った気がした。


「よかった」


そして。

胸の奥に、何かが生まれた。

静かな感覚。温度がない。感情もない。

ただ、目の前の先生を見ている。

先生が微笑む。


「透くん」


その声を聞いた瞬間。

僕の中で、最後の何かが切れた。


「……先生」


自分の声なのに。自分の声ではない。

ひどく冷たい、機械のような声だった。

先生の表情がわずかに変わった。


「どうした?」


「僕は、透です」


「そうだね」


「でも」


僕は先生を見つめた。


「透は、もういません」


沈黙。

時計の音だけが響く。

カチ。カチ。カチ。


「……何を言っているんだ」


「先生」


僕は立ち上がった。


「あなたは、間違えた」


「透くん?」


「僕たちを一つにしたんじゃない」


先生が後ずさる。


「君は……誰だ?」


僕は笑った。初めて見る笑い方だった。


「それを知りたかったんでしょう?」


先生の目が見開かれる。


「君は……」


「僕は、僕です」


それだけ言って。

僕は棚に置かれていたナイフを見た。

先生も、その視線を追った。


「待て」


声が震えた。


「君に危害を加えるつもりはない」


「知っています」


「なら――」


「でも」


ナイフを手に取る。

金属の冷たい感触が、僕の手のひらにぴったりと馴染んだ。


「あなたは、僕を消そうとした」


「違う!」


先生が叫んだ。初めてだった。

先生が、僕に向かって声を荒らげたのは。


「私は君を救おうとした!」


「……」


「透くんを救いたかっただけだ!」


僕は先生を見つめた。


「それなら、どうして」


一歩、近づく。


「僕を残してくれなかったんですか?」


先生の顔が歪んだ。


「君は……」


「僕は、透を守るために必要だった」


先生が息を呑む。


この人は、僕たちを消そうとしている。

自分でも分かっていた。

怒っているわけではない。

憎んでいるわけでもない。


ただ。生きなければならない。

その感覚だけが、異様なほど強かった。


「先生」


僕はナイフを握った。


「透は、もういない」

そして――。


僕は先生へ歩み寄った。

カチ。カチ。カチ。


部屋の時計が、午後七時を告げた。

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