第4話 時計が刻むもの
雨が止んだ。
廃工場の屋根から、溜まった水が一滴ずつ落ちている。
ぽたり。
ぽたり。
静かになったせいで、かえって落ち着かなかった。
僕は床に三枚の写真を並べていた。
一枚目。少年。
二枚目。美咲。
三枚目。僕。
別人にしか見えない。年齢も違う。
表情も違う。服装も違う。
それなのに、何度見比べても気になるところがあった。
手。少年の右手。美咲の右手。僕の右手。
指の長さや形が、妙に似ている。
写真の角度のせいだ。そう思おうとした。
けれど、手だけじゃない。
耳の形。首筋。左の鎖骨の近くにある小さな傷。
どれも、ほとんど同じ場所にある。
無意識に、自分の左の鎖骨に触れていた。
小さな傷跡がある。
指先が震えた。
「……偶然だろ」
そう呟いた。
声にしてみても、納得できなかった。
僕は先生の手帳を開いた。
何度も読んだページ。
そこには、僕自身についての記録がある。
『恐怖』
『防衛』
『分離』
『統合』
四つの言葉。
最初に見たときは、ただの専門用語だと思っていた。
けれど、美咲の言葉を聞いた今なら、この言葉が意味するものが嫌でも分かってしまう。
その下には、日付がいくつも並んでいた。
「……何の治療なんだよ」
ページをめくる。
すると、先生の文字が急に乱れている箇所があった。
『本人に説明する必要あり』
その下に、
『しかし、透はまだ――』
そこから先が黒く塗り潰されている。
「透はまだ……何だ?」
指で黒い部分をなぞる。もちろん、文字は戻らない。
僕はページを閉じた。
そのとき。
バッグの中で、ボイスレコーダーが小さく鳴った。
どこかで聞いたことのある時計の音が、かすかに混じっていた。
「……?」
僕は取り出した。
画面には、見覚えのないトラックが表示されている。
――トラック4。
録音中の表示ではない。
未再生の音声データだった。
僕はしばらく迷った。聞きたくない。そう思った。
でも。ここまで来た以上、知らなければならない。
再生する。
ザーッ。
最初はノイズだけだった。やがて、聞き慣れた声がした。
『透くん』
「……先生」
胸が痛くなる。
先生の声。死んだと思っている人の声。録音だと分かっているのに、懐かしさが込み上げてきた。
『今から話すことは、君にとって受け入れがたいかもしれない』
少し間がある。
『それでも、最後まで聞いてほしい』
僕は息を止めた。
『君の中には、君を守るために生まれたものがある』
「……」
意味が分からない。
『あの子も』
少年の写真を見る。
『彼女も』
美咲の写真。
『君も』
最後に、僕の写真。
レコーダーから聞こえる先生の声が、ひどく遠くなった。
『三人とも、君を守るために必要だった』
「三人……」
僕は呟いた。
『恐怖を感じること』
『冷静に考えること』
『日常を生きること』
そこで先生は一度、言葉を切った。
『それぞれが、それぞれの役割を担ってきた』
「役割……?」
僕の背中を冷たいものが走った。
『だから、もう一度一つに戻す』
その言葉を聞いた瞬間。
頭の中で何かが弾けた。
――暗い部屋。
少年が膝を抱えている。
『怖い……』
次の瞬間。
白い壁。机。
シャープペンシルを一定の間隔で叩く音。
カチ。カチ。カチ。
『まず状況を整理しましょう』
美咲の声。
そして――。
僕。
仕事帰りの道。コンビニの袋。
誰かに笑いかける自分。
三つの景色が、同時に頭へ流れ込んできた。
「やめろ……!」
僕は頭を押さえた。
映像が止まらない。
少年が泣いている。
美咲が何かを書いている。
僕が笑っている。
それぞれ別の人生。別の記憶。
なのに、全部が自分の中にある。
「僕じゃない……」
そう言い聞かせる。
「こんなの、僕の記憶じゃない」
すると。
少年の声が聞こえた。
『透……』
「……!」
僕は顔を上げた。
『怖いよ』
「……」
『先生が、僕を消すって』
「先生はそんなことしない」
反射的に答えた。
『でも……』
「先生は僕を助けてくれた」
『……』
「先生だけは、僕を見捨てなかった」
自分でも驚くほど強い声だった。
その瞬間。別の声が重なった。
『本当に?』
「……美咲?」
『先生は、あなたを助けようとしている』
「なら、何が問題なんだ」
『助けることと、残すことは同じじゃない』
言葉の意味が分からない。
『先生は私たちを一つにしようとしている』
「それの何が悪い?」
『私たちが、それぞれ何のために存在しているかを考えて』
僕は黙った。
『あの子は恐怖を引き受けている』
少年の声が聞こえる。
『私は判断する』
美咲の声。
『そしてあなたは、普通に生きる』
「……」
『もし一つになったら』
美咲の声が低くなる。
『誰が何を引き受けるの?』
答えられない。
レコーダーから、先生の声が続いていた。
『統合は、失うことではない』
『すべてを一つに戻すことだ』
その言葉に、少年が怯えた。
『僕、いなくならない?』
美咲が黙る。先生は答えない。
『先生……』
少年の声が震える。
『僕、いなくなるの?』
ザーッ。
そこで録音が乱れた。音が遠ざかる。
そして最後に。
先生の声が聞こえた。
『透くん。今日で最後にしよう』
僕はレコーダーを落とした。
乾いた音が響いた。
「……今日で、最後」
聞き覚えがある。
最初に先生と会った夜。いや。違う。
あの血の海で目覚める直前だ。
僕が覚えている最後の言葉。
『透くん。今日で最後にしよう』
そして、その後の記憶がない。
先生は僕に何をした?
僕は何をした?
少年は。美咲は。そして僕は。
どういう関係なんだ?
頭の中で三つの声が重なった。
『怖い』
『考えて』
『逃げて』
誰の声か分からない。いや。全部、自分の声に聞こえる。
「……僕は」
自分の胸に手を当てる。
「僕は、誰なんだ?」
返事はなかった。
代わりに、床に落ちた写真が目に入った。
三枚。少年。美咲。僕。
僕はゆっくりと三枚を重ねた。
光に透かしてみる。顔は重ならない。
それでも。
目の位置。鼻の高さ。口元。
少しずつ角度を変えると、まるで同じ顔の上に別の顔を重ねているように見えた。
「……そんなはずない」
写真を放した。
一枚が床に落ちる。少年の写真だった。
その目が、こちらを見ている。
怯えている。泣きそうな顔。
僕は写真を拾った。
「大丈夫だ」
自分でもなぜそんな言葉を口にしたのか分からなかった。
「君は……大丈夫だから」
その瞬間。
少年の写真の裏側から、紙が擦れるような音がした。
何かが挟まっている。
写真を裏返す。小さな紙片だった。
そこには先生の字で、短く書かれていた。
『最後の扉を開ける前に、必ず本人に選ばせること』
僕は息を止めた。
本人。誰のことだ。
僕か。少年か。美咲か。
その下には、さらに一行。
『ただし、彼が選べるとは限らない』
「……何だよ、それ」
紙を握り潰した。
もう、何も考えたくなかった。
先生は死んだ。それだけでいい。僕はそう思おうとした。
けれど。
頭の奥で、また何かが蘇った。
白い部屋。先生。少年。美咲。
そして、もう一人。
誰かが立っている。
顔が見えない。
ただ、その人だけが笑っていた。
楽しそうに。何も恐れていないように。
何も悲しんでいないように。
そして。
僕の耳元で囁いた。
『僕は、消えない』
「……誰だ?」
目を開ける。廃工場には誰もいない。
僕は荒い息を吐いた。
手を見る。震えている。
写真を見る。三枚の写真。
もう、別人には見えなかった。
少年も。美咲も。僕も。
どこかでつながっている。
そして、その中心には結城先生がいる。
先生は何かを知っていた。
僕が知らない、僕自身のことを。
「……先生」
声が震える。
「あなたは、僕を何にしようとしてたんですか?」
答える者はいない。
静まり返った廃工場で、時計の針だけが進んでいく。
カチ。カチ。カチ。
その音を聞いた瞬間。
少年の声がした。
『透……』
美咲の声が重なる。
『もう、戻れない』
そして最後に。聞いたことのない声がした。
『だったら、僕が残る』
僕は目を閉じた。
意識の底へ、何かが沈んでいく。




