第3話 写真の中の彼女
雨は、まだ降り続いていた。
廃工場の屋根を叩く音が、一定の間隔で響いている。
僕は壁に背を預けたまま、二枚目の写真を見つめていた。
眼鏡をかけた女。
ストライプのブラウス。
肘掛けを握りしめ、まっすぐカメラを睨んでいる。
少年の写真とは、まるで違う。
あの少年から感じたのは、恐怖だった。
この女から感じるのは――怒り。
「……誰なんだ」
写真の裏をもう一度確認する。
何も書かれていない。
けれど、さっき見た手帳には名前があった。
美咲。
それだけだった。
姓もない。年齢もない。
ただ、「第二症例」という文字の下に、その名前が残されている。
「第二症例……」
僕は呟いた。
第一症例は、あの少年。
そして第二が、この女。
なら――。
三枚目の写真を見る。
そこには、僕が写っていた。
「……なんで、僕の写真が?」
その顔を見ていると、不思議な違和感があった。
僕なのに、僕を見ている気がする。
そう考えた瞬間、頭の奥がズキリと痛んだ。
「……っ」
カチ。
反射的に顔を上げる。
その音を聞いていると、頭の痛みが少しずつ薄れていく。
目を閉じる。
何かが浮かびそうだった。
でも、思い出せない。
僕は写真を伏せた。
これ以上考えると、また何かが壊れそうな気がした。
代わりに、ボイスレコーダーを手に取る。
トラック番号を確認する。
まだ聞いていないものがあった。
「……トラック3」
再生ボタンを押した。
ザーッ。
最初に聞こえたのは、耳障りなノイズだった。
しばらくすると、声が入ってくる。
『私のいない時間に、何をしているの?』
女の声。写真の女だ。間違いない。
僕は無意識に背筋を伸ばした。
『あなたの未来を取り戻しているんですよ』
結城先生の声。聞き慣れた声だった。
けれど、少年との録音と同じように、どこか違う。
優しい。それなのに、妙に冷たい。
『それを治療と呼ぶの?』
『ええ』
『記憶を消して、別の人間に作り変えることが?』
僕の手が止まった。
「記憶を……消す?」
レコーダーから先生の声が続く。
『あなたは傷つきすぎた』
『だから何?』
女の声には怒りが混じっている。
『私から何を奪うつもり?』
『奪うつもりはありません』
『嘘』
短い沈黙。
『あなたは私を消そうとしている』
僕は息を呑んだ。
消す。
その言葉だけが、頭に残った。
少年の録音でも似たような言葉があった。
――僕が死んだら、透は助かる?
この女も、自分が消されることを恐れている。
どうして?
先生は二人に何をしていた?
僕はレコーダーを握る手に力を込めた。
『あなたが持っているものを、あなた自身が使えるようにする』
『それが、私を消すことになる』
『違います』
『じゃあ、何なの?』
先生は答えない。
しばらくして、静かな声が返ってきた。
『あなたが必要なくなるだけです』
「……」
背中に冷たいものが走った。
必要なくなる。
そんな言い方を、先生がするとは思えなかった。
僕の知っている結城先生は、そんな人じゃない。
いつだって患者を否定しなかった。
なのに、録音の中では、人を物のように扱っている。
『先生……』
女の声が、少しだけ震えた。
『あなたは私を殺そうとしている』
『違います』
先生の声は異常なほど静かだった。
『あなたを殺すのではない』
そこで一拍。
『あなたが必要と――』
突然、激しいノイズが走った。
ザーッ。
音が歪む。
『……っ』
女の声。
何かが倒れる音。
そして、録音が途切れた。
「……なんだよ」
僕はレコーダーを見つめた。
途中で切れている。肝心なところだけ。あとは、ザーッという無機質なノイズが録音され続けているだけだ。
「先生は何を言おうとした?」
答えはない。
僕は苛立ちとともに、停止ボタンを押した。
その瞬間だった。
頭の奥で、何かが弾けた。
――カチ。
――カチ。
――カチ。
「……?」
目を開ける。
目の前にあるのは廃工場の壁。
なのに、聞こえる。
シャープペンシルのノック音。
一定の間隔。
カチ。カチ。カチ。
「なんだ……これ」
音が、頭の中で大きくなる。
そして。
景色が変わった。
図書室。
古い机。窓から差し込む午後の光。
僕は――いや。
誰かが、机に座っている。
『気持ち悪いんだよ』
男子の声。
『何考えてるか分からない』
『何か喋れよ』
机の上に置かれた手が震えている。
逃げたい。でも、動けない。
そのとき。
別の声がした。
『黙ってていい』
女の声。
静かだった。冷静で、少しも震えていない。
『あいつらに従う必要はないわ』
僕は顔を上げた。
誰もいない。
それなのに、声だけが聞こえる。
『怖いなら、怖いって言えばいい』
その声を聞いた瞬間。
身体の震えがぴたりと止まった。
――場面が消える。
「……っ!」
僕は廃工場に戻っていた。
荒い呼吸が聞こえる。自分のものだ。
「今の……何だ?」
額を押さえる。
知らない記憶。
僕は高校時代、図書室で何をしていた?
あんな出来事は覚えていない。
いや。覚えていないというより――。
「……僕が知らないだけ?」
怖くなった。
自分の過去なのに、自分が知らない。
そんなことがあるのか。
僕はもう一度、女の写真を見る。
「美咲……」
名前を口にした。
その瞬間。
『呼んだ?』
「……!」
声がした。
今度は、はっきり聞こえた。女の声。
廃工場の中を見回す。
誰もいない。
「誰だ!」
返事はない。ただ雨の音。
僕は立ち上がった。
「誰かいるのか?」
自分でも馬鹿げていると思った。
ここには僕しかいない。
なのに。
『落ち着いて』
また聞こえた。
今度は、すぐそば。
耳元ではない。もっと近い。
頭蓋骨の内側から、直接響いてくるような感覚。
「……お前、誰だ」
『あなたこそ、誰?』
「僕は……透だ」
『そう』
女は短く答えた。
『なら、どうして私のことを知らないの?』
「……」
答えられない。
『どうして、私の記憶を持っているの?』
「僕が……?」
『図書室のこと』
「……」
頭の中に、さっきの光景が蘇る。
机。ノック音。男子生徒。そして、女の声。
『あれは私の記憶よ』
「じゃあ……」
喉が乾いた。
「お前が、美咲なのか?」
『そう』
あまりにも簡単に返された。
僕は言葉を失った。
「どうして……僕の頭の中にいる?」
『それは、私にも全部は分からない』
「何だよ、それ」
『でも、一つだけ分かってる』
「何が?」
女は少し黙った。
そして。
『先生は、私たちを一つにしようとしてる』
「私たち?」
『あなたと、あの子と、私』
三人。
僕は写真を床に並べた。
少年。美咲。僕。
確かに、三人いる。
でも、それだけだ。
「別人だろ」
『本当に?』
「だって、顔が違う」
『顔だけで人間を判断するの?』
「……」
『なら、あなたの記憶は誰のもの?』
答えられない。
『あなたが書いたノートは?』
「……」
『あなたが知らない専門書の知識は?』
胸がざわつく。
大学時代。僕は精神分析なんて勉強していない。
なのに、家の机には見覚えのない専門書が増えていた。
ノートには、自分では書いた覚えのない文章。
あの頃、先生に相談した。
『僕の中に、誰かがいる気がします』
先生は否定しなかった。
『そう感じるんだね』
あの言葉。僕は救われたと思っていた。
でも。もし先生が最初から知っていたとしたら?
「……先生は、何をしてたんだ」
『治療』
「本当に?」
『あなたは、先生を信じてる』
「……ああ」
『だから危ないの』
その言葉だけは、妙に強かった。
「どういう意味だ?」
『先生は悪い人じゃない』
「じゃあ――」
『でも、自分が正しいと思ってる人間ほど危ないことがある』
僕は黙った。
『先生は、私たちを一つに戻そうとしてる』
「それの何が悪い?」
『私たちが、それぞれ生きるために必要だったことを理解していない』
「私たち?」
『あの子も。私も。あなたも』
「……僕も?」
『そう』
「じゃあ、僕は何なんだ?」
美咲は答えなかった。
僕は自分の手を見た。
何も変わっていない。
普通の手。普通の身体。普通の僕。
なのに。
『私たちは、あなたが生きるために必要だった』
「……だった?」
『今も必要かどうかは、分からない』
「どうして?」
『先生が決めようとしているから』
その言葉に、不安が広がった。
先生。
結城先生。
僕を救ってくれた人。
僕を見捨てなかった人。
その先生が、僕の中にいる何かを消そうとしている。
そう考えると、胸が痛くなった。
「先生は、僕を助けようとしてるんだ」
『そうね』
「なら、信じていいだろ」
『……あなたは、本当にそう思ってる?』
「え?」
『その言葉は、あなた自身のもの?』
返事ができなかった。
頭の奥で、また別の声がした。
『怖い……』
少年だった。
「……やめろ」
『先生、怖い……』
「やめろ!」
僕は頭を抱えた。
少年の声。美咲の声。先生の声。
全部が重なっていく。
『逃げて』
美咲が言った。
「どこへ?」
『先生から』
「でも……」
『透』
その呼び方が変わった。
初めて、優しい声だった。
『あなたは、先生を信じすぎてる』
そこで意識が途切れた。
気がつくと、床に倒れていた。
「……はぁ……」
どれくらい時間が経ったのか分からない。
窓の外を見る。雨は少し弱くなっていた。
僕は立ち上がった。
写真が一枚、床に落ちている。
美咲の写真。
拾い上げる。
そのとき、写真の裏側に小さな文字があることに気づいた。
「……?」
さっきは何もなかった。
なのに。今は、確かに書かれている。
震えるような筆跡で。
『私は死んでいない』
「……」
息が止まる。
次の瞬間。文字の下に、もう一行あることに気づいた。
『死んだのは、私を必要とした人』
「何だよ……これ」
僕は写真を裏返した。
もう一度、表を見る。
美咲がこちらを睨んでいる。
その瞳は、写真なのに生きているように見えた。
そして僕は、ふと思った。
もし美咲が本当に死んでいるなら。
なぜ、僕は彼女の声を聞いた?
もし少年も死んでいるなら。
なぜ、あの子は僕の名前を呼んだ?
そして――。
もし二人が僕とは無関係なら。
なぜ僕の頭に、二人の記憶が流れ込んでくる?
答えは出なかった。
ただ一つだけ。確かなことがある。
結城先生は、僕が知らない僕を知っている。
そしてその秘密は。
僕自身の中にある。
遠くで雷が鳴った。
僕は三枚の写真をバッグへ戻した。
そのとき。
頭の奥で、美咲の声がした。
『次は、三枚目を見て』
「三枚目?」
『あなた自身の写真』
「何が写ってる?」
少しの沈黙。
そして。
『あなたが知らない、あなた』
そこで声が消えた。
僕はバッグの中から、三枚目の写真を取り出した。
そこに写っている自分の顔を、じっと見つめる。
写真の中の僕は、目を閉じている。
誰かに抱きしめられている。
その顔は、眠っているようにも見える。
けれど――。
写真を傾けた瞬間。
僕は気づいた。
閉じていたはずの写真の中の僕の目が。
ほんの少しだけ。
開いているように見えた。




