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第2話 名を持たない少年

逃げ込んだのは、街外れの廃工場だった。

昔は何かを作っていたらしい。今は機械も動いていない。

割れた窓から雨が吹き込み、錆びた鉄骨を濡らしていた。


僕は壁際に座り込んだ。

息が苦しい。走ったせいだけじゃない。

頭の中で、何度も同じ光景が繰り返されている。


血。

床。

結城先生。

そして――血塗られた右手。


「……先生」


口にしただけで、胸が締めつけられた。

先生は死んだ。そう思っている。

なのに、どうしても現実だと認められない。


僕が殺したのかもしれない。

その考えが浮かぶたび、胃の奥が冷たくなった。


そのとき。

どこかで、音がした。


カチ。


その音を聞いていると胸のざわつきが少しずつ薄れていく。


僕は目を開けた。

時計の針が、いつの間にか進んでいた。

何分経ったのか、分からない。


廃工場を見回す。

錆びた機械。割れた窓。濡れた床。


「違う……」


小さく呟く。


「僕じゃない」


そう言いながら、バッグを開いた。

中には、あの三枚の写真。

黒いボイスレコーダー。

そして、結城先生の手帳。


何のために持ち出したのか、自分でも分からない。

ただ、置いていけなかった。先生が死んだ理由を知りたかった。

もしかしたら、そこに何かが残っているかもしれない。


僕は手帳を開いた。

見慣れた文字が並んでいる。ほとんど癖のない文字。

診察のとき、先生が書いていたものと同じだった。


最初の数ページは普通の記録だった。

薬の名前。診察日。僕との会話。


けれど、途中から様子がおかしくなった。

ページの余白に、短い言葉が並んでいる。


『精神の解体』

『再構築』

『主体』

『防衛』

『分離』


「……何だよ、これ」


ページをめくる。

さらに下には、日付とともに僕の名前が書かれていた。


『透』


その横に、いくつかの文章。

僕の幼少期についての記録だった。

叔父の家。階段下の物置。暗い部屋。怒鳴り声。

ページを追うだけで、頭の奥がズキリと痛み始めた。


「……やめろ」


手帳を閉じようとする。

しかし、指が止まった。

一行だけ、目に入った。


『切り離された反応が形成されている可能性』


「切り離された……?」


意味が分からない。

僕には、そんなものはない。僕は僕だ。当たり前のことだ。


それなのに。

なぜか、その言葉を見た瞬間、胸の奥に嫌な感覚が生まれた。

知っている。そんな気がした。


僕は急いで手帳を閉じた。

代わりに、ボイスレコーダーを手に取る。


「これを聞けば……何か分かるかもしれない」


再生ボタンを押した。

ザーッ。


最初に聞こえたのは、激しいノイズだった。

録音状態が悪いのかもしれない。耳を近づける。

しばらくして、音が変わった。


足音。ゆっくりと、一定の間隔で続いている。


ギィ。

……ミシ。

ギィ。

……ミシ。


「……っ」


息が止まった。

この音を知っている。忘れていたはずなのに。


階段。古い木の階段を、誰かが降りてくる音。

叔父の家。子供の頃。暗い物置。

誰かの足音。


「違う……」


僕はレコーダーから耳を離した。

けれど、もう遅かった。頭の中に強制的に映像が浮かび上がる。


暗い。狭い。

身体を小さく丸めている。

外から誰かが怒鳴っている。


『おとなしくしろ』


知らない男の声。

なのに、本能が知っていると告げている。


『お前はもう、この家にはいないものと思え』


「やめろ……」


僕は耳を塞いだ。録音を止めようとした。

その瞬間。別の声が聞こえた。


『そこに隠れても無駄だよ』


「……え?」


結城先生だった。間違いない。

けれど、いつもの先生とは違う。

感情が抜け落ちている。どこか冷たい。


『早く、こちらへおいで』


次の瞬間。


『いやだ!』


子供の声だった。

僕の身体がこわばった。

幼い。泣き叫ぶような、酷く怯えた声。


『先生、いやだ!』

『大丈夫』

『いやだ!』

『もう、怖がらなくていい』


ドン、と何かが倒れる音。

続いて、荒い呼吸。小さなすすり泣き。


僕は再生を止めた。

静かになった廃工場に、自分の荒い呼吸だけが響く。


「……誰だ」


誰に問いかけたのか分からない。

録音の少年か。それとも、先生か。

答えはなかった。


僕は震える手で、もう一度再生した。

最後に、乾いた音が入っている。


カシャ。

カメラのシャッター音。

そこで録音は終わっていた。


「写真……」


バッグから三枚の写真を取り出す。

少年。女性。そして僕。


最初の写真を見る。

十歳くらいの少年。黄色いシャツ。床にしゃがみ込んでいる。

目を大きく見開き、怯えたようにこちらを見ている。


「……この子」


どこかで見たことがある。

いや。見たことがあるはずがない。

こんな子、知らない。


写真の裏側を見る。

何も書かれていない。


僕は二枚目、三枚目と見比べた。

女性。僕。誰なのか分からない。


ただ、少年の写真を見ると胸が締めつけられる。

まるで、この子がずっと助けを求めているような気がした。


僕はもう一度、レコーダーを再生した。

別のトラックが残っている。


ザーッ。

しばらくして、少年の声が聞こえた。


『先生……』


僕は息を止めた。


『透は怒られない?』


「……透?」


自分の名前。


僕はレコーダーを見つめた。

少年は、確かにそう言った。


『透は怒られない?』


少し間が空く。結城先生の声が返ってきた。


『君が怖がっているから、透くんは大丈夫なんだ』


「……何だよ、それ」


意味が分からない。僕は眉を寄せた。


『じゃあ……僕が怖がっていれば、透は大丈夫?』

『そうだよ』

『ずっと?』

『ずっと』


少年が黙り込む。

やがて、震える声で言った。


『先生』

『うん』

『僕が死んだら、透は助かる?』


心臓を鷲掴みにされたような感覚がした。


「……っ」


僕は停止ボタンに指を置いた。

それでも、止められなかった。


先生の声が続く。


『君は死ななくていい』


少年が小さく息を吸う。


『でも、先生は……僕がいなくなったら、透が普通に戻れるって言った』


沈黙。


『僕がいなくなれば、透は笑える?』


先生はすぐには答えなかった。


『……君は、透くんを守ってきた』

『うん』

『だから、君が悪いわけじゃない』

『じゃあ、僕はどうなるの?』


そこで、録音が乱れた。


ザーッ。

声が遠ざかる。

そして――


カシャ。

またシャッター音。

ザーッという無機質なノイズ。


「……」


僕はレコーダーを停止して、膝の上に置いた。

少年の言葉が頭から離れない。


僕が怖がっていれば、透は大丈夫。

僕がいなくなれば、透は助かる。


「透って……誰だ?」


自分でも馬鹿なことを言っていると思った。

僕は透だ。


それなのに。あの少年は、僕とは別に「透」という誰かがいるように話していた。


「……僕のことじゃないのか?」


考えようとすると、頭が割れるように痛くなった。

僕は写真を見る。


少年の目。怯えている。助けを求めている。

なぜだろう。

その目を見ていると、胸が締めつけられる。


「……君は、誰なんだ」


写真の中の少年に問いかける。

当然、答えはない。

冷たい雨音だけが返ってくる。


僕は手帳をもう一度開いた。

さっきのページを探す。少年についての記録があるはずだ。

何ページか戻る。

そこに、小さく書かれていた。


『第一症例』


その下に日付。十年前。

さらに、その下には――


『死亡』


「……」


僕は目を疑った。ページを近づける。

間違いない。

その少年は、記録の中ではすでに死んでいる。


「この子が……死んでる?」


写真を見る。

黄色いシャツ。怯えた目。

そして、録音に残された声。生きているように聞こえる。

なのに。先生の手帳には、死亡と書かれている。


「どういうことだよ……」


指先が震える。

さらにページをめくった。

次の記録には、別の文字があった。


『第二症例』


僕は息を止めた。

その横に、短い名前が書かれている。

――美咲。


僕は二枚目の写真を見た。

眼鏡をかけた女。鋭い目。知らない女性。

それなのに。

その名前を見た瞬間、頭の奥で何かが弾けた。


「……美咲」


口から自然に名前がこぼれた。

知らない。絶対に知らない名前のはずなのに。

なぜか、ひどく懐かしかった。

そして、恐ろしかった。


僕は手帳を閉じた。

これ以上は見たくない。

けれど、もう気づいてしまった。

結城先生は、僕が知らない何かを知っている。


少年。美咲。そして、僕。

三人の間には、何かがある。

しかも先生は、それを知っていた。


僕はボイスレコーダーを握りしめた。


「先生……」


死んだはずの先生に問いかける。


「あなたは、僕に何を隠してたんですか?」


返事の代わりに、レコーダーから小さなノイズが漏れた。


ザーッ。

その奥から。

ほんの一瞬だけ。少年の声が聞こえた。


『……透』


僕は顔を上げた。


「……今、誰か」


廃工場には、僕しかいない。

それでも。

確かに聞こえた。

自分を呼ぶ声が。


雨の向こうから。

ずっと昔から僕の中にいたような声が。


――「透」と。

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