第1話 血に濡れた記憶
なぜ先生は殺された?
景色が反転した時、必ず第1話へ戻る。
雷が鳴った。
窓の外で白い光が弾け、診察室が一瞬だけ昼間のように明るくなる。
次の瞬間には、何も見えなくなった。
暗闇の中で、雨の音だけが聞こえている。
窓ガラスを激しく叩く雨。
遠くで唸る雷鳴。
そして――自分の荒い呼吸。
「……はぁ……」
何かがおかしい。そう思った。
けれど、何がおかしいのか分からない。
身体を起こそうとして、右手を床につく。
ぬるり、とした感触が手のひらにまとわりついた。
鼻を突く、鉄が錆びたような強烈な匂い。
消毒液の匂いと混ざり合い、胃の奥がせり上がる。
「……え?」
次の雷が光った。
床が赤かった。
いや。
赤いというより、黒い。
診察室の白い床に、血が広がっていた。
「……なんだ、これ」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
視線を下げる。
右手。
手のひらから指先まで、赤く濡れている。
「……血?」
指を開く。
震えている。
どうして。
どうして僕の手が、血で濡れている?
顔を上げた。
そのとき、三度目の雷が鳴った。
白い閃光が診察室を照らす。
床に倒れている男の姿が浮かび上がった。
白衣。
銀縁の眼鏡。
少しだけ白髪の混じった髪。
「……先生?」
返事はなかった。
僕は立ち上がった。
膝が笑っている。
一歩。
また一歩。
男に近づいていく。
「先生……?」
結城先生だった。
何年も僕を診てくれていた精神科医。
僕が何を話しても、途中で遮らなかった。
僕が何十分黙っていても、急かさなかった。
僕が「自分がおかしいんじゃないか」と言ったときも、先生は笑わなかった。
『透くん』
その呼び方を思い出す。
いつも先生は、少しだけ柔らかい声で僕の名前を呼んだ。
その先生が。
今、床に倒れている。
「先生……」
近づいて、息を呑んだ。
胸元に、一本のナイフが刺さっている。
「……っ」
喉の奥から、変な音が漏れた。
足が床に縫い付けられたように動かない。
伸ばそうとした手は空中で震え、どうしても触れることができなかった。
頭の中が真っ白になった。
先生が死んでいる。
そんなはずがない。
「……」
ずっと。
張りつめていた何かがあった。
何かを守らなければならない。
けれど。
先生が死んでいる。
そう理解した瞬間。
誰かに。
知らせなければならない。
そう思った。
カチ。
時計の音。
僕は目を閉じた。
ほんの一瞬。深い場所へ。
そして。
目を開けた。
「……先生」
その名前を呼んだ瞬間。
胸の奥が。
どうしようもなく痛んだ。
先生が死んでいる。
そんなはずがない。
ついさっきまで、ここにいたはずだ。
僕と話していた。
いつもと同じ椅子に座って。
いつもと同じ顔で。
そして――。
「……最後に、何を言った?」
思い出そうとする。
頭の奥に、ひどい痛みが走った。
先生。机。雨の音。
そして、先生の声。
『透くん。今日は、少し大事な話をしようか』
「……」
そこから先がない。記憶が、途切れている。
何分前なのか。何時間前なのか。
何を話したのか。何をしたのか。
何も思い出せない。
「どうして……」
胸が苦しい。僕は頭を押さえた。
「どうして、何も覚えてないんだ……」
先生の身体を見る。
ナイフを見る。
そして、自分の手を見る。
血。
その三つを見比べる。
嫌な考えが浮かんだ。
「……僕が?」
声が震えた。
「僕が、先生を……?」
違う。そんなことをするはずがない。
先生は、僕にとって一番信頼できる人だった。
僕を見捨てなかった。何度も助けてくれた。
そんな先生を、僕が殺すなんて。
「違う……僕じゃない……」
何度も首を振る。そう言い聞かせる。
けれど。
記憶がない。手は血で濡れている。
目の前には、先生が倒れている。
それだけは事実だった。
そのとき。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
「……っ!」
身体が跳ねる。慌てて取り出した。
画面には、知らない番号。
こんな状況で電話に出る気にはなれなかった。
それでも、なぜか指が通話ボタンを押していた。
「……もしもし」
『もしもし。結城メンタルクリニックにいらっしゃる方ですか?』
女性の声だった。
「……はい」
『先ほど、こちらの電話番号から警察へ通報が入っています』
「……僕が?」
『はい』
息が止まる。
「何を……言ったんですか?」
少しの沈黙。
『「先生が死んでいる」と』
「……え?」
頭の中が白くなる。
僕が電話した?
そんな記憶はない。
スマートフォンの画面を見る。
確かに、少し前に110番へ発信した履歴が残っていた。
僕が通報した。なのに、その記憶がない。
どうして電話をしたことだけ、覚えていないんだろう。まるで、その時間だけ僕の中から切り取られているようだった。
『警察官がそちらへ向かっています。現場から動かないでください』
「待ってください」
『はい』
「僕は……」
言葉が出てこない。
自分が何をしたのか。
何を覚えていて、何を覚えていないのか。
何も分からない。
「僕は、先生を……」
そこで通話が切れた。
雨音が急に大きくなった気がした。
遠くから、サイレンが聞こえる。
「……警察」
僕は立ち上がった。
逃げなければ。そう思った。
けれど、先生を置いていくことに強い抵抗があった。
もう一度、先生を見る。
「……ごめんなさい」
誰に謝っているのか、自分でも分からなかった。
先生に。自分に。それとも、別の誰かに。
そのときだった。
床の上に、見慣れないものが並んでいることに気づいた。
「……何だ、これ」
写真が三枚。そして、黒いボイスレコーダー。
妙だった。
血の付いた診察室の床に、まるで誰かが意図的に置いたように、きれいに並べられている。
一枚目を拾った。
「……子供?」
十歳くらいだろうか。
黄色い服を着た少年が写っている。
椅子に囲まれた狭い場所で、身体を小さく縮めている。
こちらを見ている。怯えた目。
その顔を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。
「……誰だ?」
知らない。見覚えなんてない。
なのに。どうして、こんなに苦しい。
二枚目。
若い女だった。眼鏡をかけている。
腕を組み、カメラを睨むように見つめている。
少年とは正反対の表情だった。
冷たい目。強い意志を感じる。
「この人も……知らない」
写真を裏返す。何も書かれていない。
三枚目を手に取る。
「……え?」
そこに写っていたのは、僕だった。
椅子に座っている。目を閉じている。
背後には、白衣の腕が見える。
誰かが後ろから僕を抱きしめているようだった。
「……先生?」
写真を近づける。
白衣。間違いない。結城先生だ。
けれど、こんな写真を撮った記憶はない。
そもそも――。
「僕は、いつ……こんな写真を?」
答えはない。
雷が鳴った。その音に、身体がびくりと震えた。写真を落としそうになる。
その瞬間。
どこかで、時計の音がした。
カチ。
顔を上げた。
「……?」
診察室を見回す。
雨の音に混じって、妙に鮮明に聞こえた。
少年。女。そして、自分。
三枚の写真を並べてみる。別人にしか見えない。
それなのに、三人を見ていると胸の奥がざわついた。
まるで、ずっと昔から知っているような。
忘れてはいけない何かを、思い出せそうなような。
「……何なんだよ」
サイレンが近づいてくる。
もう時間がない。
僕は三枚の写真とボイスレコーダーをバッグに入れた。
そのとき、バッグの底に硬いものが当たった。
「……?」
取り出してみる。
黒い革の手帳だった。見覚えのある表紙。
何度も診察室で見た。
「先生の……」
なぜこれが僕のバッグに入っている?
自分で持ち出した記憶なんて、絶対にないのに。
ページを開く。
最初の数ページには、診療に関する簡単な記録が並んでいた。
けれど、途中から文字の雰囲気が変わっている。
短い言葉。意味の分からない記録。
そして――。
『恐怖』
『防衛』
『分離』
『統合』
「……何だよ、これ」
次のページを開こうとした。
その瞬間。
廊下の向こうから、足音が聞こえた。
それも複数。警察だ。
「……!」
手帳を閉じる。
逃げなければ。
理由なんて分からない。
何をしたのかも分からない。
ただ、このままここにいたら、僕は先生を殺した人間になる。
僕はバッグを抱えた。
「先生……」
最後に一度だけ振り返る。
倒れた先生。床に広がる血。
その光景を頭に焼き付ける。
「……ごめんなさい」
それでも、最後に何をしたのかだけは、どうしても思い出せなかった。
僕は診察室を飛び出した。
外は、激しい雨だった。




