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金烏の花嫁  作者: 朱音ゆうひ@8/5『桜の嫁入り』コミカライズ連載スタート
1章、姉妹と兄弟

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8、ごきげんよう、お兄さん

 唇を尖らせる波美子にため息をつき、琢朗は「お父様は心配してるんだ」と墨絵を丸めた。

 

「芦屋家の庇護下にいれば安全だと思いたいが、気をつけなさい。不安にさせてすまないね」


 父が申し訳なさそうに頭を垂れるので、葵は慌てて場を取り繕った。

 

「お父様。私、危ないことはしません。帝都に行くの、楽しみです。知らない景色を自分の目で見たいし、芦屋家の書庫にある本をありったけ読んでみたい」 


 明るい調子で言うと、琢朗はほっとした顔でうなずいた。


「二人とも。私はこれから芦屋家の助けも借りて、尭司家の在り方を改善していこうと思う。幸か不幸か、我が家は有力者の多くを失い、ぼろぼろだ。跡継ぎさえいない……変わらざるを得ないと誰でもわかる」


 そういえば、と葵は家の現状を考えた。

 琢朗は復調したが、夫人は投獄され、娘二人は嫁いでしまう。この家には嫡男がいない。親族の中から跡継ぎを探すことになるにしても、親族もかなり少ない。


 これから大変だ。眉を寄せていると、波美子が妙案を思いついたように両手を叩く。

 

「それじゃあお父様。わたくしたちが男児をいっぱい産んで、尭司家に分けてあげますわ」

「ごほっ」 

 

 琢朗が薬湯を吹き出し、咳き込む。葵は波美子を睨みながら琢朗の背を撫でた。

 

 波美子はくすくすと鈴が転がるような愛らしい笑い声を立てて、葵に小指を向けた。

 

「葵。わたくしたち、幸せになりましょうね」


 小指を小指を絡ませて約束すると、ぜったいに幸せになってやろうという気持ちが湧いてくる。波美子ってすごい。元気をくれる。

 私も、波美子に元気をあげられる姉でいたい。

 

 葵はそんなことを考え、ふと大切なことを思い出した。


「お父様。私、令嬢教育や花嫁修業を満足にできていません。少しでも身に着けて嫁ぎたいです」


 琢朗は「確かに」とうなずいた。


「あちらも我が家の特殊な事情はご存じだが、だからと言って上流社会で場にそぐわぬ野蛮人が許されるわけがない。今から急いで必要最低限の立ち居振る舞いや常識を詰め込み学習するのがいいだろうな」

「お父様? 今、私のことを野蛮人っておっしゃいました?」

「あっ……」

 

 葵は決意した。

 

 必ずや父が見違えるような、理想の令嬢——とびきり洗練された立ち居振る舞いの上品な令嬢になろう、と。

 一点だけ気になるとしたら、夫になる青年が、もしかしたら変な好みなのかもしれない、という点だけだ。


 ◇


 葵が思うに、可愛らしく、世間知らずで、上品なお嬢様には、二種類いる。

 一種類目は、天然もの。裏表なく、純真な娘だ。

 では二種類目はというと、葵のようにお嬢様っぽい自分を演じるものだ。


 天然ものは幼少期からの家庭環境と教育によって大切に育まれてできあがる。そんなものは目指すには、手遅れだ。

 

 葵は波美子や礼儀作法の先生に教わり、お嬢様の真似事を練習した。ひとりの時間も鏡を見て自主的に特訓したし、夢にまで見た。

 夢に見たあとで「さすがに寝ているときくらい休みたい」と思ったのは秘密だけど。

 そんなわけで、真似事は上達した。

 着物や化粧にも慣れた。成せば成る。葵の信条である。

 

「お父様、いかがでしょうか?」


 琢朗が縁側で湯呑みを手に見守る中、真っ白な日傘を手に淑やかに庭を歩き、傘を畳んで一礼する。袖が見苦しく揺れないよう、手で押さえる。


「葵。短期間で随分と所作がさまになったのだな。お前は物覚えがいいと礼儀作法の先生も絶賛していたよ」


 父からの賛辞に葵はにっこりとした。

 

「お父様の自慢の娘になろうと思います」

「すでになってるよ」

「いえいえ、まだです。自慢の娘はちょっと練習の成果を試してきますね」

「葵?」

 

 葵は日傘を手に踵を返した。待たせておいた供回りを連れて向かう先は、尭司家の外だ。

 鏡の前で練習しているうちに、ふと思いついたのだ。


 ——あの漁師のお兄さんにもこの姿を見せてお別れしよう、と。


 高台にある尭司家の屋敷から長い下り坂を降りて港へ近づいていくにつれ、潮の香りが強くなっていく。

 

 風に煽られて小花模様の袖が揺れる。道の脇には大きな赤い花が咲いていて、蝶々が羽休め中だ。

 この景色は葵の日常風景で、小さなころから変わらない。


 悲しくてたまらなかったときも、お兄さんと話した余韻に浸る甘酸っぱい時間も、この道と共にあった。

 目を瞑っても歩けるくらいのこの場所が、もうすぐ当たり前に来られる場所ではなくなってしまうというのは、なんだか不思議だ。

 切ない感じもする。

 

 ——あ。お兄さんだ……。

  

 漁師のお兄さんは、仲間と一緒に港で網を繕っていた。 

 葵はその姿を目に焼き付けるように見つめ、背筋を伸ばした。

 歩幅を揃え、顎を少し引く。

 日傘の下で口元へ上品な笑みを浮かべ、すれ違いざまに軽く会釈した。声は、いつもよりも少し高く。


「ごきげんよう」

「……あ、どうも」


 お兄さんは少し驚いた顔で頭を下げた。その隣を通り過ぎるのは、一瞬だった。

 

 葵は落ち着きをなくした心臓をなだめながら、振り向くのを堪えて歩き続ける。潮風はその耳に漁師たちの囁きを届けてくれた。


「どちらのお嬢さんだ?」

「高台のお屋敷のお嬢様じゃないか」


 お兄さんが仲間に返す言葉も聞こえる。

 

「あんなお嬢様、初めて見たよ。お綺麗だったなあ」

 

 葵は堪えきれず、袖で口元を押さえた。


 気づかれなかった。

 本当に、まったく。

 これなら、帝都でも尭司家の娘としてやっていけそうだ。


 目尻にいつの間にか滲んだ涙をハンカチでそっと拭った。上を見ると、晴れ渡る青空に一羽の鳶がゆったりと輪を描いている。


 ——そういえば、丙様の瞳は、綺麗な鳶色だったっけ。

 

 足元に転がる形のいびつな小石をよけて、群れ咲く花に目を留めて、揺れる梢から聞こえる鳥のさえずりを聞きながら歩む坂道は、強い陽射しに明るく照らされている。

 

 葵は港に背を向け、屋敷に続く上り坂を戻った。

 ゆっくり、ゆったりと。

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