7、あやかしの王
事件のあと、蝶子夫人は投獄され、のちに死亡した。
取り調べを経て処罰を受ける予定だったのだが、琢朗が健康を取り戻すにつれて蝶子夫人からは生気が抜け落ちていき、最後は魂が抜けたようになって亡くなってしまったのだとか。
けれど、葵には実感が湧かない。
実は魂だけ逃げて、闇に潜んで復讐してくるんじゃないかとか、怨霊として出てくるんじゃないかとか、暗がりを見るたびに警戒してしまう。
波美子は不気味そうにその知らせを話題にする。
「呪術って使用者の魂を蝕むんですって。そのせいかしら」
「そう……かもね」
男装の必要がなくなったし、嫁に行くので女性の装いをしましょう、と言われた葵は、波美子の着せ替え人形になっていた。
「葵。親というのは神様とは違うのよ。どんなに怖くても、ただの人間なのだわ。もっと言うと、子供とは違う世代の他人よ」
同意を求めるように呟きながら、波美子は葵の唇を口紅で彩る。
相槌を打とうにも、唇を合わせているので言葉を返せない上に、首を動かすわけにもいかない。
葵は瞬きをして共感を示した。
「だからね、葵。あの人はあなたを虐げていた他人なの。継母だからと言って悲しむ義務なんて、ないのだわ」
波美子が伏せた睫毛が影を落とす。
術者亡き後も首に残った呪いの跡が痛々しい。葵は唇を噛みたくなった。
——くそったれが。
令嬢らしからぬ罵詈雑言が飲み込まれる。化粧中でよかった。
これからは尭司家の令嬢であの丙の妻として生きるのだから、令嬢らしくならないと。
波美子に頼んで唇を糸で縫い合わせてもらった方がいいかもしれない。
葵がもやもやしている間に、波美子は化粧を終えた。
「……できたわ。可愛いわよ、葵」
「ありがとう、波美子」
肌に粉や塗料を塗るのは違和感がある。べたべたするし、口に入ると苦い。匂いもする。でも、鏡に映った自分の肌が滑らかで頬が淡く色づき、唇が綺麗な色をしているのを見ると、うれしくなった。
「波美子って化粧が上手だね。私が可愛くなってる」
「ばかね。葵は最初から可愛いのよ。丙様って見る目があるわね。葵が可愛いってわかって見初めてくださったのよ」
波美子は樹宮兄弟を気に入った様子で、しきりに褒めていた。
「波美子、男性の中にはね、身分が低くて扱いやすい女に手を出して遊ぶのが好きな人もいるんだって」
「あら。葵は身分が低くないわよ。馬鹿でもないわ」
「だから、残念そうにしてたんじゃないかなぁ……」
彼、明らかに私が尭司家の令嬢だとわかって後悔していた。葵は苦笑いした。
求婚を撤回したそうだったけど、腹が立つからさせてあげない。
そんな意地悪な気持ちが湧いてくる。
「波美子。私、丙様に愛されないと思うんだよね」
「もしそうなったら、わたくしが丙様の首を絞めてあげるわ」
波美子は花のような着物を何着も葵に当てて吟味したあと、明るい色調の一着を着せてくれた。
「わたくしの着物を何枚かあげる。裾や袖を詰めたら着られると思うの。お古で申し訳ないけど、嫁入り道具にしてちょうだい」
「最高の嫁入り道具だよ。ありがとう」
澄み渡る空のような青緑を基調に、朱、珊瑚、若草、白が大胆に重なり合う布地は、たっぷりとした贅沢な長さ。咲き誇る菊や牡丹、梅の花々の中を豪奢な御所車が巡る柄は華やかだ。汚してしまわないか心配になる。
「葵、すごく素敵よ。お姫様みたい」
「私も今そう思ってたところ。波美子と並んだら姉妹に見えるかな」
「当たり前じゃない。姉妹だもの。お馬鹿さん」
あの漁師のお兄さんの前で淑やかに手を振ったら、果たして葵だと気づくだろうか。
葵はよほど「ちょっと外に行ってくる」と言いたくなったが、我慢した。
「葵。次はこれを着てみて」
「うん。波美子もこれを着て」
「わたくしたち、お揃いの着物で並ぶととても素敵ね」
二人で秘密の着せ替え遊びを楽しんでいると、父の部屋に呼ばれた。
父、琢朗は、まだ万全の体調ではないが尭司家の当主として復帰している。
「葵、お父様のお部屋に行くなら喪服のほうがいいわよね。わたくしたち、良識あるお嬢様だもの」
「うん、うん。その方が絶対いい」
揃って着替えて琢朗の部屋を尋ねると、琢朗はこの家を助けてくれた兄弟についての情報を共有してくれた。貧民窟育ちとか、芦屋家の養子とか、すでに知っている話だ。
「前例のない話で驚いたよ」
琢朗が言うと、波美子は浮かれきった顔になる。
「わたくしの旦那様って、とっても高貴な方なのね。貧民窟育ちというのも面白いわ」
「ま、まあ、波美子は相手の方が気に入ったようだな。よいことだ」
琢朗は、娘たちを送り出すために花嫁道具を用意してくれた。
失われた七年を取り戻すように、葵と波美子は嫁に行くまでの短い期間を父と過ごした。
「葵。波美子。縁談は急な話だが、悪い話ではない。立場上、私には拒否することもできない……今まですまなかった。これからは幸せになりなさい」
琢朗は、「若い頃には都会暮らしに憧れて家出したことがあるのだ」と教えてくれた。
都会暮らしに憧れていたのは自分も同じだ。他ならぬ琢朗の日記を読んだから——葵は「そういえば」と打ち明けた。
「お父様。私、書庫でお父様の日記を見つけたんです。個人的な日記を読んでしまってごめんなさい」
「あの日記を読んだのか。若気の至りというしかない冒険記録だが、当時の私は本当に帝都が刺激的で楽しくて仕方なかったよ」
琢朗は筆を執り、半紙にさらさらと墨絵を描く。
描かれたのは、人の輪郭を取る陰のようなあやかしで、手には煙管を持ち、足元に花びらが散っている。
「葵、波美子。帝都は怖いところでもある。日記には書かなかったが、葵の母は、あやかしの王に祟り殺されたようなのだ。都の名家の間では有名な奴で、『墨染の王』と呼ばれている。古い時代から姿や名を変え、人に紛れて暗躍し続けている厄介な奴だ」
琢朗は流れるような筆致で墨絵に説明の文字を足していく。感情を餌にする、人に化ける、そのあやかしが立ち去ったあとには、墨で染められたような桜の花弁が残る……。
「奴は妻を殺したあと、葵を狙っていた。理由はわからないが、奴の縄張りは帝都限定だ。もし、それらしいあやかしを見たら、逃げなさい」
——そんな過去があったなんて。
母があやかしに殺された、というのは、まったくもって愉快ではない情報だった。
「あやかしの、王様……」
葵と波美子は顔を見合わせた。
波美子は拳を握り、怒ったような目をしている。
「ぜったいに許せない。葵のお母様の仇なら、わたくしの仇も同然だわ。そんなあやかし、わたくしがやっつけてあげるわね」
溌溂と「わたくしの旦那になる男も強いようだし、頼れる」と言う波美子は、本気半分、冗談半分。
葵はそれを見て、拳を握った。
——怯えたり悲観するより、「やっつけてやる」くらいの気概でいたほうが、きっといい。
「ありがと、波美子。一緒に探して退治するのもいいかもしれないね」
琢朗は娘二人に頭を抱えた。
「こら、お前たち。仲がいいのは素晴らしいことだが、ふざけるのはいかん。自分から危ないことに首を突っ込もうとするんじゃない」
「あら、お父様が葵を怖がらせるようなことをおっしゃるからよ」




