5、砕け、金烏
「ねえ葵さん。さっき、実は君たちの会話をこっそり盗み聞きしたんだ。あのご令嬢がおっしゃっていたけど、葵さんは彼女の世話係を辞めてしまうのかい」
「あれ、聞いてたんですか。まあ、たぶん辞めるのかなって思ってますよ」
蜻蛉の言葉に葵は驚いた。
蜻蛉が盗み聞きしていたなんて、まったく気づかなかったのだ。
「偵察役に向いてないと思ったけど、ちゃんとできてて偉いですね」
「ちょっと見下されてるよね、僕。別にいいけど……君と令嬢って仲がよさそうなのに、なんだかもったいないな」
「もったいない?」
話しているうちに、寝室の前にたどり着く。
葵は少し緊張気味に、金色尾っぽの蜻蛉に囁いた。
「ここが琢朗様の寝室です」
「ご案内ありがとう」
蜻蛉はひらりと肩から飛び立ち、高らかに言った。
「さて、兄さん。そろそろ働いてもらおうかな」
葵の耳には、蜻蛉が呪文のようなものを唱えるのが聞こえた。
完全には理解できないが、精霊の霊力を借りるとか、召喚するとか、そんな意味の呪文だ。
呪文が終わると、視界いっぱいに金色の光が広がる。
まぶしい——目を閉じた葵は、数秒後にそっと目を開けて仰天した。
「ひ、ひと……?」
そこにはもう、蜻蛉はいなかった。
代わりに立っていたのは、二人の青年だった。
軍服姿の筋骨隆々とした大男と、大きめのゆったりした白衣をまとい、眼鏡をかけた痩身の青年だ。
「おお、本当に現地に出たのか。さすが丙。兄さんにはさっぱり理屈がわからんが、金烏はすごいな」
「兄さん、威厳が失われるから黙っててよ」
一匹の蜻蛉が二人の人間に変わるなんて、あり得ない。
けれど、そのあり得ないことを成すのが異能であり、古代から系統立てて技術継承されてきた名家秘伝の術なのだ。
——こんなこと、できる術師がいるんだ。すごいな。
葵が目を奪われているうちに、軍服姿の大男は、刀の柄へ手を掛けている。
この黒髪の大男は、波美子の縁談相手である武政に違いない。姿絵で見たのと同じ容姿だ。
そして、その隣にいるのは武政と対照的に色白で、優美な白衣の青年。
銀縁眼鏡をかけていて、亜麻色の長髪を首の横で緩く結えた、弟の丙だ。
いたずらっぽい笑顔を浮かべる端正な顔立ちは、美しさよりも温かさや親近感が勝る——不思議な安心感のある柔和さだった。
「民を守るのは皇族の務め。僕は君の望みを叶え、幸せにすると誓うよ」
丙の言葉に応えるように、武政が腰に履いていた刀を抜き放つ。
その刀は、素人目にも妖刀とか霊刀と呼ばれる類だとわかる業物だった。
「砕け、金烏」
傲然と命じながら、武政は刀をすぱりと一閃させた。
葵の目には、その軌跡が金色に輝いて見えた。
——なんて、綺麗。
黄金の刀が虚空に後を引く線を引いたのは、瞬きするほどの短い時間。
虚空に向けて一閃された刀は、見えない何かを打ち砕いたようなパリィンという硬質な破壊音を立てて、気づいた時には鞘に収まっていた。
刀が呼び起こしたように、視界に金色の花びらがひらひらと舞っている。少し怖くて――けれど、美しい。
神秘的な技に圧倒されながら、葵は理解した。
結界はたった今、破られたのだ。
◇
華麗に舞う金色の花びらは、その空間に閉じ込められていた思い出を掘り起こす。
思い出は、虚空に幻影として映し出された。
ひとひらは、夫を呪う蝶子夫人と、倒れる琢朗を映した。
『あの娘にあんなに強力な守護の術をかけるなんて』
『何のことだ蝶子? それより、お前は娘たちに自分が何をしたのか自覚があるのか?』
またひとひらは、倒れた夫を甲斐甲斐しく看病しながら愛を説く蝶子夫人を見せた。
『あたくしはずっと愛しておりますのよ。いつになったらあたくしを見てくださるのでしょう。ねえ、あなた……』
「ちっ、胸糞悪い」
武政が鼻に皺を寄せて言い捨て、襖を開け放つ。
途端に、中に充満していた濃い黒煙が吹き出し、生臭い匂いが鼻を突いた。けれど、それを打ち消すように柚子を思わせる爽やかな香りが葵を包む。
「葵さんは、僕の近くに」
丙が葵を抱き寄せて、守ってくれている。
葵は蝶子夫人を睨みつけた。
「なっ……なんです、あなたたち!」
琢朗の寝室は、異様だった。
畳には無数の金魚鉢が並び、金魚が何匹も浮いている。鳥や獣、虫に耳の絵が描かれた木箱が転がっていて、薬のような粉も散乱している。
布団の上では、琢朗が死人のように痩せ細って横たわっていて、ぴくりとも動かない。
その枕元に寄り添っていた蝶子夫人は腰を浮かせ、殺意濃厚に呪術を練り上げた。
——昨日、今日と結界を張り続けて疲れているだろうに、まだ余力があるんだ。
葵は改めて蝶子夫人が恐ろしいと思った。
「おのれ。あたくしたちの愛を邪魔する下郎が」
ぱりん、ぱりんと金魚鉢が一斉に割れる。
蝶子夫人の右手からは、呪術で編まれた黒い鎖がじゃらりと放たれた。鎖はまるで蛇のように武政に襲いかかる。
「あいにく、束縛されるのは嫌いだ」
武政は難なく鎖を刀で断ち切り、あっという間に距離を詰めて蝶子夫人を押さえ込む。
「痛いっ、放して。放しなさい!」
暴れる蝶子夫人の目から黒い涙が溢れて、黒い刃に変化して武政の首を狙う。武政は、なんとそれを歯で食い止めた。
「兄さん、これを使いなよ。術封じだ」
丙が護符のようなものが付いた縄を放る。それを片手で受け止めて、武政は蝶子夫人を縛り上げた。丙は眼鏡を片手で持ちあげ、得意満面、縄について解説する。
「芦屋家の当主様が夜なべして作ってくださったんだよ。ほら、呪術の刃が消えた」
「丙。便利なものがあるなら先に渡せ。いつも言っているだろう」
武政は自由になった口で弟に文句を言いながら手刀を蝶子夫人の首に叩き込み、気絶させた。
——あっという間だ。この人たち、あの蝶子夫人を本当に倒しちゃった……!
「さて、尭司家のご当主を診ようか」
丙は葵の肩をぽんと叩き、琢朗に近寄った。葵は震える足でそのあとについていき、痛々しい姿の父の近くに膝をつく。
「助かりますよね」
思わず訊ねると、丙は「うん」と微笑んでくれた。
「間に合うさ。僕が言うのだから、間違いない」
丙は琢朗の脈を取り、診察鞄を開いた。
そして、琢朗の手にどんぐりのようなものを握らせた。
葵の目には、どんぐりから淡く発光する黄緑色の蔦が伸びて琢朗の全身を繭のように包み込む幻想的な光景が見えた。
きっと、治療してくれているのだ。そんな優しくて温かい気配がする。
「ありがとうございます……どんぐり、すごい」
「君のおかげで、琢朗殿を救うのが間に合ったんだ。僕は救える命は救いたい性格だから、今とても気分がいい。ありがとうね」
丙は部屋の中を検分し、蝶子夫人が使っていたらしき紙包みの中身を確認して、嘆かわしげに呟いた。
「おっと。これは国が使用を禁じている薬物だ。金魚や箱を用いて試みていたのも、禁じられた外法かな。現場を保持して専門家に見てもらいたいね」
金色の花びらがひとひら、彼女の悪事を見せつける。声も。
『あなた。あたくしと一緒に不老不死になりましょう。早くお元気になって、ずっとずっと、ふたりで愛し合いましょうね』
夫に口づけを繰り返す蝶子夫人と、魂を抜かれたようにぼんやりとしている琢朗の幻影は、見るに堪えないものだった。
「目の毒だ。もういいよ」
丙が手を振ると、花びらと幻影はおさまり、代わりに小さな金色の烏が一羽、現れた。
烏は丙の手に留まり、その頬にくちばしで挨拶するような仕草をして、消えた。
——あれがきっと、金烏なんだ。なんて美しいんだろう。
葵は思わず両手を合わせて拝んでしまった。
遅れて、部屋の外から足音が近づいてくる。人の声も一緒だ。
「お待ちください、お客様……」
「この部屋だ。間違いない。入るぞ」
部屋に次々と人が入ってくる。芦屋家が派遣したらしき陰陽師風だったり軍人風だったりな人たちだ。
家に踏み込んできた彼らに困惑したり焦ったりしている尭司家の使用人もいる。
彼らを迎え入れて、武政は告げた。
「蝶子夫人は、尭司家当主の琢朗殿に禁制の薬物を投与し、外法を施した疑いがある。それと、皇族に呪術の刃を向けた現行犯も」
金風に蝶は落ちて、この日、尭司家は解放されたのだった。




