4、僕は大人げない男だな
むかしむかし、あるところに、名門名家の跡継ぎの琢朗様と、幼馴染の蝶子さんがいました。
狭い島の領地で、琢朗様と年齢や神通力の強さが釣り合っているのは、蝶子さんのみ。
蝶子さんは優秀で、気に入らないものは何事も力でねじ伏せて、なんでも思い通りにする娘でした。
両親や親族からは、「蝶子は強い娘だ、さぞ頼もしい女主人になるだろう」と期待されていました。
そんな中、一族を困らせる事件が起きました。
琢朗様が家出をしたのです。
ただの家出ではありません。蝶子さんの恋敵だった令嬢と船に乗り、帝都へ渡ったのです。一族は仕方なく弟君を当主にすることに決定しました。
蝶子さんは、やがて琢朗様の弟君の妻になりました。
しかし、琢朗様は島に戻ってきました。
赤子の葵をその腕に抱き、その子を産んだ妻は亡くなったと言って。
「蝶子夫人は夫を呪殺し、急病で亡くなったのだと周囲に信じ込ませました。そして、周囲を欺いたまま、琢朗様を新当主にして、自分は後妻へと収まったのです」
「あらま、なんだか、どろどろだね。琢朗殿も島に戻らなければよかったのに」
蜻蛉が不思議そうに言うので、葵はうなずいた。
「不思議なことばかりです。理不尽なことも、いっぱい」
「そうだねえ。世の中は度し難い」
尭司家のお屋敷は高台にあるので、窓の外へと視線を巡らすと、遠景に青々とした海が望める。
肩に留まっている蜻蛉は、あの海の向こうから来たのだ。葵は帝都に強く興味を惹かれた。
「そういえば、あなたのお名前は?」
ふと気になって尋ねれば、蜻蛉は陽だまりのような声で名を告げた。
「僕は芦屋……じゃなくて、樹宮丙。武政兄さんの引き立て役みたいなものだよ」
最近名乗る名前が変わったんだ、まだ慣れなくてね——と苦笑する声は、親みやすそうだ。
しかし、それってつまり金烏の軍神の弟君ということではないか。
とっても高貴で偉い人では?
葵は穴が開くほど蜻蛉を凝視した。
◇
——驚いてる、困ってる。
目の前の娘が微笑ましくて、丙は透き通った翅をくっくっと震わせた。
この体は、神通力を喰わせて主従契約を結んだ精霊蜻蛉のものだ。
主人の生命が尽きない限り死なず、呼びつけるまでは奔放に自然界で遊んでいる。
今回のように体に精神の一部をお邪魔させてもらうのは初めてだが、これがなかなか楽しかった。
丙は冒険中だ。
太陽の陽ざしを受けて白波がまぶしく輝く大海原を渡り、初めて訪れる南方の島へと上陸して、呪術師が支配する旧家の屋敷を偵察している。大冒険だ。
断絶した名家として語り継がれていた尭司家が現在も存在する——芦屋家当主から教えられたときは、驚いたものだ。
兄は帝位を手に入れたような喜びようだった。
「丙の金烏だけでも俺は並ぶものなき特別な存在になれているが、伝説の一族を娶ったらもっと箔が付くぞ」
「兄さん。手紙によると令嬢は異能持ちだってさ」
「最強じゃないか」
兄の夢は、次の帝になることだ。
丙の趣味ではない莫迦げた野心だが、兄が馬鹿やっているのを見るのは結構楽しい。
兄が呪術師退治と嫁取りの冒険に乗り出したので、丙は同行したのだった。
呪術師が支配しているというのは悍ましいが、それさえなければ島は都会の煩わしさから離れて羽根を伸ばすのによさげな土地だ。
海は雄大で、陸上は緑豊か。
空気は肺を洗うように澄み渡り、植物も昆虫も都会より目立つ。
島の娘も身のこなしが機敏で、男装をして少年のごとく走り回る。
遠目には紅顔の美少年めいて見える葵は、実に目がいい。
その能力もだが、射抜くように鋭く丙を見る瞳は冬の夜空のように澄んでいて、少し冷えている。
動物に例えると野生の猫だろうか。
その姿は、幼少期に貧民窟で育った丙には親しみが湧くものだった。
当主の寝室に近づくにつれて結界が幾重にも張られているらしく、葵は「ちょっと待って」と言っては、結界を弄り、丙を屋敷深くへと導いてくれる。術者に気取られたりしないのかと心配になるが、上手く処理しているのか、気づかれる気配がない。
「葵さん、ここにも結界があるのかい」
「そうだよ。見えない? ……ああ、失礼。もっとうやうやしく接遇するべきですよね?」
「楽に話して構わないよ、気を使わせてごめんね。あと、僕には、ちいとも見えない」
娘は感知系の異能を持っていて、優れた案内役だった。感知だけではなく、上級の呪術師の敷いた結界を変容させる奇術まで使える。
常人には不可能なことをしているのに、本人にそれを誇る様子がない。
ただし、丙を頼りないと考えているみたいだ。
名乗ると面白いほどわかりやすく反応してくれたが、それは能力ではなく身分に対する驚きだ。
驚かせて喜んでしまった自分が低俗に思えてくる。
僕は大人げない男だな。
大人げない僕は、この子をもっと驚かせてやろう。
蜻蛉に乗り移らせていた精神をちょっとだけ切り離して、遠くにある自分の体を意識する。丙の肉体は、停泊中の船の一室にあった。
眠ったようになっている体の指先を動かし、呼吸する。
「ふう……」
なんか、臭うな。汗臭い。むさくるしい感じだ。
重い瞼を苦労して持ち上げると、兄の武政が半裸になり、部屋のど真ん中で腹筋をしていた。
「おお、丙」
武政は丙と目が合うと、テーブルの上の皿から串に刺さった烏賊焼きを手に取り、差し出してきた。八重歯が目を引くニカッとした笑顔だ。
「偵察は順調か? 令嬢は可愛いか? 烏賊焼き食うか? バナナもあるぞ。バナナ食うか?」
「兄さん、当主が監禁されている場所に辿り着けそうだよ」
せっかくなのでバナナはいただいた。腹ごなしは大事だ。
それにしても、このゴリラのごとき兄が令嬢を娶る、というのが、丙にはピンとこない。
色気より食い気、あとは筋力と権力。男の浪漫。
そんな野生味あふれる兄を、令嬢はお気に召すだろうか。
弟は心配なのである。
◇
あれ、と葵は目を擦った。見間違いでなければ、金色尾っぽの蜻蛉がゆらりと輪郭をぶらしたような。
「蜻蛉さん、じゃなくて丙様だっけ。あのう、今お姿が揺らいでたけど、何かありました? 疲れちゃったとか?」
「君は本当に目ざといな。今ちょっと栄養補給をしていたんだ。気にしないでおくれ。ちなみに、バナナは好き?」
「ふざけてるんですか?」
「あ……うん。ごめんね……」
よくわからないが、大丈夫そうだ。
葵は気を取り直し、通路をまっすぐに進んだ。目指すは、父の寝室だ。




