3、金色尾っぽの蜻蛉さん
「このあたりに結界があるのかな。僕、そういうの見えなくて」
結界の内側に入ろうとして壁にぶつかったように押し戻されている蜻蛉の姿には、愛嬌があった。なんか、弱そう。
「君は手紙をくれた子だろうか。手紙と同じ匂いがする。僕は帝都から来た一行の偵察係なのだけど」
「葵です。蜻蛉さんは、式神みたいな存在ですか?」
「うん。そんな存在だよ」
なんとなく気の抜ける柔和な口調だ。
「偵察おつかれさまです。ようこそ尭司家へ。私は一族のものとして芦屋家の皆さんを歓迎します」
「ありがとう。ここは、よい島だね。自然豊かで僕好みだ」
「どうぞ、お入りください。入れるはずです」
「うん? 入れるようになったのかい?」
——売れる恩は売っておくべし。
葵は蜻蛉を中へと招き入れ、先ほど結界の術式を読み解いたことと、もっと凶悪な結界もあったけど書き換えて無効化したことを教えた。
すると、蜻蛉は大袈裟なほど感激して褒めてくれる。
「君はすごいね。まだ十五歳ぐらいだろうに、結界の術式を読んだり書き換えたりできるとは。帝都でもそんなことができる人は希少だよ」
「私、十七です。書庫の本を読んで学びました」
「それでは僕の三つ下か。とてもすごいよ」
素直な声色で言われて、葵はうれしくなった。
「僕たち、仲よくなれそうだね」
「そうかもしれません」
「きっとそうさ」
緊張感に欠けるおっとりとした風情で言い、蜻蛉は屋敷の中へと飛んでいこうとして、ふと止まる。
どうしたんだろう、空中でもぞもぞとしている。
「すまない、葵さん。ちょっと来てくれないかな」
「どうしたの」
近づくと、蜻蛉は蜘蛛の巣に引っかかっていた。葵の胸に不安が湧く。
「それ、呪術の罠でもなんでもない、ただの蜘蛛の巣だよ。密偵さん……」
この密偵、だめかもしれない。
「心配させてごめんね。僕は実は、ちょっと目が悪い。あまり頼りにならないかもしれない」
「自信なさそうに言わないでください。がんばって」
葵は金色尾っぽをつまんで蜻蛉を蜘蛛の巣から救出してあげた。
感謝するように飛び回る蜻蛉は、親しみは湧くが、頼りない。
「気をつけて偵察してね……」
蜻蛉に手を振り、葵は背を向けた。
向かう先は、波美子の部屋だ。
曲がり角を過ぎてそっと振り返り、蜻蛉がどこかへと姿を消しているのを確認して、ひとりごつ。
「あの蜻蛉さん、蝶子夫人に見つかったら揚げ物にされて食べられちゃいそう」
一抹の不安を抱えつつ、葵は波美子の部屋の襖を開けた。
波美子の部屋は、結界の糸が幾重にも張り巡らされ、鳥籠のようだった。
蝶子夫人が新しく張ったのだろう。効能が守護だけなので、この結界は書き換えたりせず、放置することにした。
「波美子。帝都から船が来たよ。式神にも会ったんだけど、式神はあんまり頼りにならないみたい」
「式神?」
芦屋家から縁談を申し込まれた令嬢である波美子は、桃色の振袖姿に着飾っている。その姿は春の化身のように愛らしかったが、細腕に赤ん坊のおくるみを抱いているのがおかしい。
これから縁談だと言うのに、その腕に抱いた赤ちゃんはなんだ?
葵は半眼になった。
おくるみに包まれた赤ん坊は、げこげこと鳴いている。その正体は、蛙だ。つやつやの緑肌、つぶらな瞳。可愛いが、意味がわからない。
「波美子、その蛙はどうしたの」
「これを見せて武政様の反応を見てみようと思うの。冗談が通じるかどうかは大事でしょう?」
頭痛がする。葵は手で頭を抑えた。
「変な女だと思われて破談になるんじゃないかな……」
「それならそれで、構わないわ」
実際、波美子は変な女だ。葵も他人のことをとやかく言えないが。多少、おかしくならないとやってられない環境だったのだもの。
「葵、式神に会ったと言うけど、武政様は見たの?」
「ううん。そっちはまだ」
武政というのは、波美子の縁談相手だ。正式な呼称は樹宮武政。宮様である。
『金烏の軍神』という立派な二つ名まであるらしく、送られてきた肖像写真では筋骨隆々とした体躯を禁欲的な軍服に包んだ偉丈夫だった。
「葵、わたくし、紹介状を読んだのだけど、変なのよ。元が貧民窟育ちで、そこから芦屋家の養子になって、数年前に皇族認定されたとか書いてあったの。からかわれてるのかしら」
「たぶんそれ、本当だよ。帝都もいろいろあるみたい」
波美子は肖像写真を穴が開くほど眺めている。
縁談相手が気に入っている様子なのだが、「それなら蛙の赤ちゃんはやめておけ」と言いたい。
——言おう。
思っているだけでは、伝わらないので。
「波美子、蛙の赤ちゃんはやめておいたら」
「うふふ。葵は優しいわね。お父様が助かったら、葵はもうわたくしの世話係ではなくなるのよね。それって良いことだけど、嫁いだら一緒にいられなくなっちゃう。寂しいわ」
波美子は長いまつ毛に彩られた瞳で葵を見つめた。
その首には、呪いのあざを隠すための黒いチョーカーがある。
ずっと一緒に夫人の独裁下で過ごしてきた戦友のような妹は、姉想いで、いじらしい。
葵は心から妹の幸せを願った。
「波美子。武政様って絶対、いい人だよ。まずは、お父様を助けてもらおうね」
「ありがとう、葵。お父様……きっと大丈夫よね」
「うん。蝶子夫人は、お命までは奪っていないはずだよ」
この七年、琢朗はずっと寝室に閉じ込められて、誰もその姿を見ていない。
葵は不安を飲み込み、笑顔を作った。
「私、様子を見てくるね。危険な結界が追加されてるかもしれないし、式神が困ってたら手伝ってあげようと思う」
「わたくしは、お母様を部屋に呼んで結界を増やすのを邪魔できないか試してみるわね。無理だと思うけど」
「無理しなくていいよ、気をつけて」
「お互いに」
◇
窓から差し込む陽射しが足元にモザイク模様を生み出している。葵は影を選んで踏みながら歩みを進めた。
蝶子夫人の支配下を生き残った使用人たちは、どこか浮ついた様子で仕事をしていた。
少しでも女主人の機嫌を損ねれば殺される屋敷だ。忠誠心よりも変革への期待が上回っても無理はない。
りん、りん、りん。
長い回廊を歩む葵の耳には、心が洗われるような涼やかな風鈴の音が聞こえてくる。
「金烏の軍神って名前が格好いいよな。波美子、好きそう」
商船の乗組員に聞いた噂によると、帝都では、皇族が大量にご逝去あそばし、遠縁を名乗る者が次々と現れているらしい。
もっとも、名乗っただけで皇族になれるほど世の中は甘くない。武政は異例の存在なのだ。
「肖像写真も凛々しかったなあ」
そんな軍神殿下が波美子に縁談を申し込んだ理由は、異能持ちだと手紙に書いたからだろう。
尭司家は人魚の末裔を謳っている。
先祖には人魚のように体を転身させたり、体液が治癒能力を持っているような異才もいたらしい。
旧家の令嬢で異能持ちの波美子は、政略結婚する価値があるのだ。
「波美子が幸せになれるなら、いいんじゃないかな……」
軍神殿下にお姫様抱っこされる波美子を思い描いて「お似合いだな」と思っていると、通路の奥から金色尾っぽの蜻蛉が飛んできた。
「蜻蛉さん。偵察は順調?」
「葵さん。琢朗殿の寝室はどちらかな。どうも僕は方向音痴で」
おっとりと言うので、葵は呆れ果てた。
「方向音痴なのに偵察役なんですか? 私がお連れしましょうか」
「助かるよ。僕、実は普段は町医者をしているんだ。こういうお仕事は初めてなのさ」
「ま、町医者? 式神だと思ってたんですけど、違うのでしょうか?」
「蜻蛉は式神のようなものだけど、喋ってる僕は人間だよ」
どうやら、葵はずっと術者と会話をしていたらしい。
——普段は町医者をしている陰陽師って、なに?
葵は戸惑いながらも蜻蛉に指を差し出した。
「君は気がきくね。僕、ちょっと飛ぶのに疲れたなと思ってた」
「もっと偵察に向いてる人、いなかったんですか」
葵が思わず言うと、蜻蛉からは苦笑する気配が伝わってくる。
「あいにく異能持ちは希少でね。こちらの一族では違うのかな。よかったら、君たちのことを教えておくれよ」
葵は少し考えて、歩きながら昔話をしてあげた。
琢朗の日記や古株の使用人仲間から仕入れて自分なりに理解した、親世代のお話だ。




