2、芦屋家の陰陽師は溺れない
七年が経ち、葵は十七歳に成長した。
蝶子夫人から「母親に似ている」と憎悪のまなざしを向けられるので、男装するようにしている。黒瑪瑙のような瞳は凛として美しく、短く切り揃えられた髪はどこか潔癖な印象で、痩せ気味の体型もあって、白皙の美少年といった風情。
これが意外と効果的で、夫人は葵に態度を軟化させた。
現在の身分は、使用人。波美子の世話係を主にしつつ、家事手伝いをしている。
令嬢教育は十歳以降、受けていない。代わりに働きながら掃除や洗濯、料理や着付け、裁縫などを覚えた。
家の書庫を掃除していると、貴重な知識も学ぶことができた。
歴史ある尭司家の書庫には、先祖が集めた貴重な書物が山のように眠っている。宝の山だ。
葵は掃除役をよく志願して入り浸った。
ちなみに、書物の海に溺れながら最初に思ったことは「とっても強い術を身に着けて、あの蝶子夫人を倒したい」という甘美な夢だった。
でも、陰陽術や呪術の本を読んで試しても、神秘的な現象はひとつも起こらなかった。
波美子にも見せてみたが、波美子は「術を使おうとすると首のあざが疼く」と言う。
——悔しい。
けれど、状況は打開できそうだ。
というのも、先日、葵は書庫の掃除中に隠し部屋の入り口を見つけたのだ。
隠し部屋には父、琢朗の日記があった。
日記には青年時代の父が海を越えて帝都に行ったことが記されている。なぜか墨で塗りつぶされているページや文字もあったが、読み取れる部分も多い。
琢朗が帝都で知り合った陰陽師系の名家の当主、芦屋怜士と交わした手紙が最後のほうのページに挟まれていて、封筒に住所があったので、葵は「これだ」と思った。
——強い陰陽師を帝都から呼んで、蝶子夫人を倒してもらえばいいんだ……!
葵はさっそく芦屋怜士へと手紙を書き、定期的に島を訪れる食料や日用品を運ぶ商船に近づいて、手紙を運んでもらった。
島には尭司家の存在を秘匿するための守護結界が張られていて、島の外に出た一族以外の人は尭司家のことを忘れてしまう。
でも、手紙の文字は消えないので、島の外の人に秘密を伝えられる。
実際、その狙いは正しかったようで、ある日、尭司家に芦屋家からの手紙が届けられた。
「なぜ我が家に帝都の名家から手紙が来たの?」
蝶子夫人は驚き、慌てふためいた。
それだけでも、やった甲斐があったというものだ。動揺する蝶子夫人に、家令が頭を下げている。
「令嬢と縁談を希望し、さっそく訪問したいですって。芦屋家は有名な陰陽師、芦屋道満の子孫よね?」
「理由はわかりかねますが、間違いなく我が家の住所をご存じのようです、奥様」
葵は給仕しながら会話に聞き入る。
縁談相手は芦屋家が後ろ盾になっている皇位継承権持ちの軍人で、『金烏の軍神』という二つ名もあるのだとか。
よくわからないが、すごい相手だ。
「お断りよ。訪問も縁談も、お断りするわ」
「それが奥様。先ほど追加で知らせがまいり、すでに芦屋家の方々は船に乗って島に向かっておいでです」
「なんですって」
蝶子夫人は天地がひっくり返ったように驚き、座っていた椅子から立ち上がって、絨毯につまづいて転びかけた。家令が支えて立ち上がったあとは、忙しく屋敷中をめぐって札を貼ったり結界をめぐらせたりしていく。
——迎え撃つつもりなんだ。
「たとえ伝説級の陰陽師の子孫が来ても、あたくしが万全の備えをすれば撃退できるわ」
もともと尭司家の敷地内には怨霊やあやかしといった善からぬものから家内を守る結界がある。蝶子夫人は、その上に呪術をかけ足した。
招かれざる客が結界の内側に入ると、まるで陸に上がった魚のように呼吸困難に陥る呪いだ。
「溺れるがいいわ、おほほほほ」
さすが蝶子夫人。
書庫の本で知識を付けた葵には、それが平凡な術者には不可能な高度な仕掛けだと理解できる。
放置していれば本当に芦屋家の陰陽師が陸で溺れてしまうかもしれない。
……術が作動すれば、ね。
深夜を待ち、葵は呪いの術式を書き換えた。
『招かれざる柿が結界の内側に入ると、まるで陸に上がった魚のように呼吸困難に陥る』と。
蝶子夫人の呪術とも長い付き合いだ。
ほんのひとつの単語を書き換える程度なら、ばれずにできる。
——これで芦屋家の陰陽師は、溺れない。
外から攻めてくる敵を内側にいる仲間が手引きするのは、琢朗の愛読書の歴史物語でもよくあることだ。
葵は今まさに自分がその役割をしているのだと実感して、胸をときめかせた。
◇
そして、初夏の朝。
客人が島への到着を予告した時刻が近づいてくる。
浅葱色のお仕着せに身を包んだ葵はお屋敷を飛び出し、海岸近くの高台にある大島桜の木に登った。真っ青な絨毯みたいに広がる太平洋の水平線を眺めていると、船影が見えてくる。
「船だ。本当に来てくれたんだ……」
それは、定期的に島を訪れる商船よりもずっと大きくて立派な船だった。
葵はひゅうと口笛を吹き、大島桜の木から身軽に跳び降りた。
「やった、やった。やってみるもんだな」
抜けるような青空を鳥が飛び交い、潮の香りを含んだ風が威勢よく吹いている。
——今日は特別な日だ。波美子にも教えてあげなきゃ。
お屋敷に帰ろうとしたとき、葵は漁師のお兄さんに呼び止められた。
「葵君、おはよう。ここ数日、お屋敷のほうが騒がしいみたいだね。何かあったのかな」
「あ、お兄さん。おはようございます。ええと、お仕えしているお嬢様が帝都に嫁ぐかもしれないんですよ」
「へえ、それじゃあ、葵君も島を出るかもしれないのかな。寂しくなるなあ」
そう告げたお兄さんは、数年前にふらりと島に移住してきて、葵を見かけるたびに気さくに話しかけたり、飴をくれたりしていた良い人だ。
お兄さんに別れを惜しまれて、葵は首をかしげた。
縁談が進めば、波美子は帝都に嫁ぐだろう。世話係なら付いていくかもしれない。
けれど、葵は本来、世話係ではなく波美子の姉で、尭司家の令嬢なので……?
「どうだろう。場合によっては付いていくかもしれないですけど」
「葵君も美少年だし、きっと都で良い縁があるよ」
お兄さんは葵を『お屋敷で住み込みの下働きをしている男の子』として認識している。
いつか女の子だと気づいてもらえたら。
そんな淡い気持ちが恋の始まりに似た感情だったと気づいたのは、彼がうれしそうに「実は俺も結婚するんだ」と打ち明けてからだった。
「あ、さようでしたか。おめでとうございます。……お幸せに」
胸の奥が、少しだけ痛む。別の痛みで気をそらすために、葵は指先で自分の耳たぶをつまんだ。
「えっと、それでは私、お屋敷に戻ってお仕事をするので」
「うん。またね、葵君」
一、二、三と数をかぞえて深呼吸すると、心が落ち着く。
「さようなら、お兄さん」
葵は笑顔で別れを告げて、お屋敷までの道を駆け出した。
——走るって、不思議だ。
力いっぱい地面を蹴って、全身で風を切るようにすると、生きている感じがする。
ぜえぜえと息が切れると、自分がとてもがんばっている感じがする。
上り坂の途中で足を止めて、「馬鹿みたいだ」と汗を拭う。
これが涙じゃなくてよかった。
めそめそ泣く自分なんて、みじめったらしくていやになるもの。
尭司家の門が見えてくる。
結界が増えているのが見えて、葵は眉を寄せた。蝶子夫人は家の防衛のため、朝から働いているらしい。
『一族に招かれざるものは門の内側に入ることができない』——結界の術式を読んでいると、耳元で青年の声がした。
「さっきの彼は見る目がないね。君は女の子だろうに」
「え……」
周囲を確認すると、金色尾っぽの蜻蛉が一匹、葵の反応を面白がるように翅を震わせて空中に漂っていた。
式神やあやかしの類だ——葵は目を丸くした。




