41、結婚って、いいものだ
一緒に暮らすうちに、葵のことをひとつ、またひとつ知っていく。
葵は髪を伸ばすつもりのようだ。
家庭環境のせいで男装をしていたのを考えると胸が痛む。不憫な娘だが、今から幸せになってほしい。
葵は怒らない。
これも育ちに由来するのだろうか。感情のままに振る舞っても現実が好転しないとわかっていて、衝動を堪えて理性的に振る舞える。賢い娘だ。
葵は意外と口が悪い。
けれど、本人はそれを隠そうとしていて、微笑ましい。
葵は、たまに耳たぶに触れている。
おそらく心を落ち着かせるための仕草だろう。赤くなった耳たぶが可愛くて、触れてみたくなる……。
葵は、たまに機嫌を急降下させる。
たぶん、丙が悪い。診療所の患者の親爺さんが言っていたが、夫というのは無自覚に妻の気持ちを逆なでしたり悲しませたりしてしまいがちらしい。気を付けないといけないと思うが、気が付かないのでやらかしてしまう、というのが問題だ。
今後の課題にしよう。
——兄さんが惚気る気持ちもわかる。
自分の心の中が、彼女でいっぱいになっていく。
「たぶん、だいぶ早い段階で、僕は君のことが好きになっていたのだと思う。君を逃がしたくないと思う。君を幸せにしたいと思っている……」
葵が望むなら、自分の在り方を変えることだって構わない。
兄のように、より有力な皇位継承者となる道を選び、多少無理してでも帝の位を望むことだって……。
「……ふふっ」
丙の告白に、葵は軽やかな笑い声を立てた。
「そんな向いていなそうで、ご自身でも望まれないことを、無理して頑張らなくて大丈夫です。私は、ありのままの丙様が好きですよ」
丙は目を見開いた。
朝の光を透かした黒髪を風に揺らして、葵が丙を見つめている。
まっすぐに丙に好意を届けてくれている。
——この娘は、僕を好いてくれているんだ。
そう理解した瞬間に、世界が今までの何倍も色鮮やかで明るく輝きだす。
丙は奇跡に出会ったような気になって、愛情いっぱい葵を抱きしめた。
控えめに薫る香りが、甘やかな気分を昂ぶらせる。
まるで、花束を抱きしめているみたいだ。
そうか、お嫁さんって、花束なんだな。僕は、この尊くて他の何にも代えられない花束のような妻を、世界でいちばん大切に愛そう。
ときめく心は、そのまま想い人の唇を奪う勇気へと変わった。
◇
端正な彼の顔が近づき、葵は胸を高鳴らせて目を閉じた。
鼻と鼻がこすれ合い、唇が優しく柔らかに触れ合った瞬間、頭が真っ白になって、何も考えられなくなる。
唇が離れて目を開けると、少し恥ずかしそうな、けれど満たされた表情で微笑む丙がいた。
葵は視線を落として彼の胸に顔をうずめる。
力いっぱい体重を預けても、倒れることがない安心感がある。目を閉じて眠ったら、きっとまた抱き上げて運んでくれるだろう。
この見た目よりも頼もしい彼の胸板は、葵を抱きしめてくれる彼の腕は、葵だけの旦那様のものなのだ。
葵は幸福感に溺れてしまいそうになった。
——ああ、人魚ってきっと、冷たい海をひとりぼっちで泳ぐことに慣れているに違いない。
けれど、こんな風に抱きしめられて、愛を伝え合う熱さには慣れていないんたろうな。
人魚の声は聞いたことがないけれど、泡になる心地は想像できる。
この深くて熱い愛に溺れるようになって、なすすべなく溶けてしまうのだろう。
葵が贅沢な幸福感に浸っていると、丙は指先で葵の顎を上を向かせる。
目が合うと、星のように煌めく綺麗な瞳が葵だけをひたむきに見つめていた。
その眼差しは、葵に呼吸の仕方を思い出させてくれる。
「君を守れなかったときは、自分が情けなくて仕方なくなった。君が失われてしまうと思うと、怖くて仕方なかった」
丙は少し迷ってから小さく呟く。
「恐ろしいことだけど、僕は蝶子夫人の気持ちが、ほんの少しだけ少しわかる気がしたんだ……」
その気持ちは、おそらく葵もわかる。
葵はますます彼が好きになった。
「丙様。私、どこにもいきません。これからも、ずっと」
——ずっとずっと。彼の目となり、耳となり、共に地に足をつけて生きていこう。
風が頬を優しく撫でて、後ろへと翔けていく。
庭師に水をもらった薬草が、揺れながらきらきらと水滴を煌めかせている。
地面に伸びた二人分の影が仲良く身を寄せ合って、溶けあうようにひとつの影になっている。
うれしくて、楽しくて、しかたない——結婚って、いいものだ。




