42、乾杯
後日、葵は丙に連れられて芦屋家の親族集会に参加することになった。
集会の場所は、本邸の大広間だ。
芦屋家の当主、芦屋怜士のことは、琢朗の日記にも書かれていた。
葵は記憶を探った。
——確か、帝都観光中の琢朗が芦屋家の門の外で「怪しい奴め!」と言われて捕まったのが、怜士との出会いだ。
素性を問われた琢朗は咄嗟に「金魚売りです」と名乗ったという。
そして、「お前は金魚を持っていないではないか」と指摘されると術を練り、金魚の式神を呼び出して驚かせたのだとか。
——面白かったな、あの日記。
招待状の出欠を書き入れる欄に丸をつけて、服装を考える。確か、琢朗はそのとき、買ったばかりの洋服を着ていたはずだ。
思い出していくうちに、いたずら心が湧いてくる。似たような色合いの洋装で金魚を見せて挨拶してやりたい。
実は、ちょうど衣装棚に丙と買い物に行ったときに買ってもらった洋服がある。
乳白色の波間から、浅瀬の水色、深海の青へと沈んでいくような色合いの、ぼかし染めの洋風ドレスだ。
生地と似た色で凝らされている細やかな刺繍の図柄は星座なので、夜空を表現しているのだろう。
——海と夜空は、少し似ている。
「親族会なら着物のほうがいいですよね? 洋服でもよかったりしますか?」
「もちろん。芦屋家は古い家だけど、洋装を好む人も結構いるよ。僕も馬鹿のひとつ覚えみたいにシャツとズボンばかりだ。動きやすいのが気に入っててね」
「丙様は今度、和装も見せてください」
◇
親族会の日は昼からよく晴れ、蒸し暑い夜となった。会場には日没後に入り、食事と歓談ののち解散予定となっている。
「気安い集まりだよ。そんなに肩肘張らなくていい。おいしい食事を食べて帰ってこよう」
「食事、豪勢なんだろうなあ」
「バナナもあるよ」
「丙様って、バナナお好きなんですか?」
洋装に身を包んで本邸に行くと、何人もの使用人が招待状の確認をしていた。
招待状を出すと、会場へと案内される。会場は和風の庭園に設えてあり、入り口には、赤い鳥居があった。
鳥居に一礼してくぐった先には、紅の欄干の太鼓橋を伴う蓮池と、その周りをぐるりと囲む畳敷きの客席がある。客席の外側には家紋入りの旗が東西南北に佇み、夜風に揺れていた。
畳敷きの客席には赤い夜天傘が添えられていて、灯篭が橙色の光をふんわりと咲かせている。
「僕たちの席は西側だよ。先に本家の方々にご挨拶だけしよう」
「はい、丙様」
北は他の座席より一段高く、本家直系の方々が集まっている。
立派な白ひげをたくわえた翁と、その傍らに寄り添う老夫人。それに、怜央坊ちゃまと、その両親。
「あのおじいさまが芦屋家当主の怜士様だよ。先日、夢に囚われた君を助ける手伝いをしてくれた方だ」
一段高くなった座敷へと近づくにつれ、周囲から囁きが零れる。
「あの娘が西屋敷の夫人か。綺麗な娘じゃないか」
「たいした術は使えないのでしょう?」
「別に珍しいことじゃない。お前の娘だって異能がないだろう」
そんな会場へ、怜士が視線をじろりと流す。視線を受けて、話し声はぴたりと止んだ。
丙が一歩前に出て、葵を紹介してくれる。
「妻の葵です。本日はお招きいただき、光栄に存じます」
「お初にお目にかかります。葵でございます」
葵は帝都に向かうときにフミからもらった金魚憑きの櫛を撫でた。
途端に、金魚が優雅に躍り出る。
長い尾を振り、身をくねらせて、鱗を明かりに煌めせて、気持ちよさそうに空中を回遊する。
「何かを出したぞ」
「え、なあに? 何を出したの?」
金魚が見える者、見えない者。両者の声で賑わう会場を見て、怜士は口元を綻ばせた。
唇を引き結んでいたときは厳しそうな印象だったのが、目尻が下がると、優しそうになる。
「琢朗殿と初めて会った日を思い出すわい。尊き令嬢を我が家に迎えられて実に喜ばしい」
怜士は深みのある声で言い、怜央坊ちゃまを呼ぶ。
「怜央よ。何か言うことがあるな」
サスペンダー付きの白いブラウスシャツと短い黒パンツ姿の怜央坊ちゃまは、金魚に目を輝かせていたが、祖父に呼ばれて夢から覚めたような顔で前に出た。
「おれは大人だから、もうイタズラを卒業する。だから今度、キューピーちゃんと一緒に遊びにこい……!」
元気よく言ってから、断られやしないかと不安そうに上目遣いで様子をうかがってくる姿は、天使のように可愛らしい。
葵はにっこりとした。
「怜央お坊ちゃまがお元気そうでなによりです。ぜひ、お伺いしたいです」
◇
挨拶を終えて丙と一緒に西屋敷の席へ着くと、波美子と武政がやってくる。二人は和装姿だった。
「葵。ずっと心配していたのよ。さっき何をしたの? みんなが驚いていたわよ」
「波美子、元気そうでよかった」
親しく名を呼び、抱き着いてくる波美子の背に腕をまわしながら、葵は心から安堵した。
波美子と今まで通り気安く話せて、心の中に嫌な感情が少しも見つからない。葵はこの日いちばんの笑顔を咲かせて、波美子に言葉を返した。
「私、波美子のことが大好き。本当だよ」
——どうか、この言葉が嘘になりませんように。
流れ星に願いを捧げると、叶うと聞いたことがある。
空の高いところから音もなく滑り落ちる星が見えて、葵は心から祈りを捧げた。
その耳に、怜士の朗々とした声が届く。
「皆の者。当家を含む神裔名家が古くから対立するあやかしの王が、ここのところ再び暗躍している。今後は、よりいっそう警戒し、他家とも協力して都の治安を守っていこうではないか」
会場のいたるところで、葡萄色の飲み物や白金に煌めく飲み物が杯に入れられて配られていた。
丙は葵に葡萄色の飲み物が入った杯を取り、自分は白金に煌めく飲み物が揺れる杯を揺らしてみせた。ふわりと夜風に乗って酒精の匂いが漂ってくる。
「芦屋家に代々伝わる祝いの杯だよ。神通力を高める効果があると言われているけど、本当に効果があるかは知らない」
「普通の葡萄水とは違うんですか? 丙様が持っていらっしゃる飲み物も、外国のお酒に似ているみたいですけど」
「僕は違うと聞いた覚えがあるけど、案外、実は普通の葡萄水かもね。これも単なる白葡萄酒かもしれない。僕や兄さんを含めて芦屋家は嘘つきだらけだから」
渡された葡萄色の飲み物は葡萄水に似た香りがしていて、おいしそうだ。
波美子も同じ飲み物を持っていて、目が合うと「これ、絶対、普通の葡萄水よ」と言う。
「飲み物ひとつ取っても嘘まみれ。嘘をつかないとやっていけないのかしら。これだから芦屋家って、いやになっちゃうわ」
「波美子。声が大きいよ」
満天の星空の下で、皆が乾杯のために杯を掲げる。
葵と波美子も、一瞬視線を交差させてから、皆に倣うように杯を掲げた。
共に掲げた杯の縁に照明が反射して、きらりと光る。
どこか導かれるような心地で上を見れば、煌めく星々の海を遊び泳ぐように、小さな黄金の烏が飛んでいた。
金烏だ。
あの鳥は大きくなったり小さくなったりできるんだ。なんて自由なんだろう。
「乾杯」
「乾杯!」
金魚や金烏が見えるものも見えないものも、皆が同じ「乾杯」の言葉を唱和する。
——ああ、私たちは揃って嫁入りして、ここに集う芦屋一族の仲間になったのだ。
丙も葵の肩に手を置き、杯を掲げている。
その温かみのある鳶色の瞳に自分が映っていて、葵はくすぐったい気分になった。
彼の薄い唇がひらいて、皆に少し遅れて「乾杯」と唱える。
控えめで、少しだけ何かを迷うような気配だ。
この人は、きっとまだ迷っている。自分自身の在り方や、これからのことを。
それはそうだ、と葵は思った。
平凡に生きようとするには、その身に流れる血は特別すぎるし、加護も強力すぎる。
彼は善良で真面目な気質なので、おそらくずっと迷ってしまうのだろう。
それでは、私は、そんな彼の伴侶として、何ができるだろう。
「乾杯」
乾杯の声を彼に寄り添わせ、葵は杯を口元に寄せた。
杯の中身にくちづけをするときは、なんだか神聖な儀式にのぞんでいるようで、不思議と胸がときめいた。
秋の実りを思わせる葡萄に似た飲み物は、甘くて豊かだ。
乾いていた喉に染みこむような味わいを楽しみながら、葵はそっと丙に寄って自分の影を彼のそれに近づけた。
二人分の影は賑わう会場の中で誰にも気づかれず、時折伸びたり縮んだり薄れたりしながら輪郭が曖昧な状態で溶け合うようにひっついている。
それがなんだか自分たちらしく思えて、葵はにっこりと微笑んだ。
ここまででひとまずの終了です。
続きを書こうと思えば書けるし、ここで完結でもいい、というスタイルで締めています。
最後まで読んでくださってありがとうございました!
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