40、結婚って、いいものだ
兄は幸せそうに祝言を挙げたが、丙は兄のように祝う気になれなかった。
「フミときたら、何度もしつこく馴れ初めを聞きたがるんだよ。しかも、渋ると照れていると解釈する。というか、何を言っても勝手に変な解釈をするような……なんだろうね、あれは」
貧民窟にいた頃からの知り合いである家令の茄子川に言うと、茄子川は同情してくれた。
「男性同士でしかわからないことがあるように、男には理解できない部分があるのが女性なのです」
「まあ、同性でもわかりあえないことはあるけどね」
「私は丙様のことをなんでも理解できます」
——それはそれで気持ち悪くないかな?
しかし、面と向かって言う感想でもない。丙は「ありがとう」とだけ言っておいた。
花嫁が来る日、丙は桔梗の花を注文して翌朝に届くように手配しておいた。けれど、急患が運ばれてきて、忙しくなってしまった。
原因は、自動車の事故だ。
大怪我をした男性に彼の婚約者がすがり、命を助けてくれと懇願してくる。そんな状況で見捨てて帰る医者がいるものか。
丙は診療所の仲間と共に手を尽くし、なんとか命を繋ぐことに成功したのだった。
家に帰ると、フミがかんかんに怒っていて、茄子川がその隣で頭を下げてくる。
「茄子川が屋敷を燃やすところだったのですよ。それに、無礼な発言もしていました」
「申し訳ございませんでした」
——な、なにがあったんだ……?
茄子川は貧民窟にいた頃からの知人だ。出会いはよく覚えていないが、気づけば毎日のように話をして、つるんでいた。
年上の茄子川は、どちらかと言うと兄弟を舎弟のように世話してくれたように思う。
茄子川だけが運よく炊き出しをもらえた冬の夜。武政と丙には黙ってひとりで食べることもできたのに、茄子川は「おい、もらえたぞ」と二人を呼び、分け与えた。
丙が医者を目指すと言ったときも、どこからか勉強の本を持ってきてくれた。
廃屋の屋根裏に連れていってくれて、「ここに住める」と言って襤褸布や木箱を運び入れて秘密基地にしたり、どこからか天体観測用望遠鏡を持ってきて一緒に星を眺めたりした。
当時のことを今になって思い返すと、茄子川は、いろいろなものを盗んできたのかもしれない。
盗まれた相手には申し訳ないが、今の丙があるのは彼のおかげだ。
丙は感謝しているし、仲間意識もある。
本当は「兄のことも僕のことも、子供のころみたいに呼び捨てで気安くしておくれよ」と言いたいくらいなのだ。
フミと茄子川に挟まれて、丙は頭が痛くなった。
「わ、わかった。詳しい話は後日にしよう。今夜は寝るよ。疲れてるんだ……」
彼女を起こさないように気を付けながら、寝室に忍び込む。
暗闇の中、布団に彼女が無防備に寝入っていると思うと、落ち着かない気分になった。
近づくのが躊躇われて、丙は壁に張り付いて座る。自分は何をしているんだろう、と思った。
けれど、あの布団に近寄って隣に潜り込むのは……。
丙の脳裏に、普段なら思いつきもしないような不埒な妄想がよぎる。
あの布団に潜り込めば、肩が触れるだろう。
寝返りを打った葵が無意識に寄り添ってきたらどうする。寝顔を間近で見てしまったら。
眠っている葵が寝ぼけて「丙様……」と袖をつかんできたら。安心しきった顔で身を預けられたら、自分は平静でいられるだろうか。
平静でいる必要があるだろうか。籍はもう入れていて、今日はいわゆる初夜……。
いや、待て。
不埒な考えはよそう。
相手は眠っているし、自分だって疲れている。
それに、知り合ってすぐ結婚を申し込んで、ろくに関係も築かずに初夜に及ぶというのは、野蛮なのではないか。そういうのは自分が嫌う上流階級の権力者がやりそうなことだ。
丙は哀れな母を思い出した。
貧民窟で男に怯えて警戒する女性たちを思い出した。
診療所に「亭主に乱暴された」とやってくる女性患者を思い出した。
最後に思い出したのは「大切な彼を助けてほしい」と懇願する急患の婚約者だった。
——僕と彼女の関係は、円満がいい。
日中の疲れも手伝って、丙は微睡みに浸かっていく。
意識が浮上したのは、それから少し経ってからだった。
——葵さんが、なにやら困っている。
僕が変なところで寝ているから、気にしているんだ。
気付いて起きると、久しぶりに会う彼女は雰囲気が少し変わっていて、寝乱れた寝間着姿は危なっかしい感じがした。
「先に休ませていただいてました。本日からよろしくお願いします」
三つ指ついてお辞儀をする所作は美しい。
お嫁さんを迎えたんだな、という実感が湧いてくる。
急患の男女を思い出すと、葵が可哀想に思えた。今から心を入れ替えよう。ちゃんと大切にするんだ。
どこか神聖な思いで居住まいを正して、丙は花嫁に頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします。葵さん、その……我が家へようこそ」
「お疲れでしょうし、寝ませんか?」
葵は布団に潜り込み、顔を半分隠して誘う。その姿に、丙は妙にそそられるものを感じて焦ってしまった。内心で動揺しつつ、ぎくしゃくと布団にお邪魔する。
「それでは寝かせてもらいます……」
肩の触れ合う距離を意識してしまって、目が冴えて仕方ない。静寂が気になる。
彼女はどうだ……ちらりと横を見ると、ぱちっと目が合ってしまう。大変、気まずい。
「帰ってきたときに君が寝てたから、今日から一緒なんだなぁとか、勝手に横に潜り込むのはどうだろうとか、でも起こすのもなぁとか考えていたんだよ」
気づけば、自分の舌が言い訳みたいなことを垂れ流している。
——おい、やめろ僕。葵さんに頼りない夫だと思われてしまうことを言うな。落ち着いて余裕を持った態度で接するんだよ。
「さようでしたか」
葵の返答は暗闇にひとすじだけ注ぐ月の光のようで、こころに染みわたる。
もっとたくさんの言葉をきいてみたくなる。
——もう喋らない方がいい。たぶん喋れば喋るほど情けなくなってしまう。
しかし、これが止まらない。
「寝相はいい方だし、いびきもかかないけど、嫌なことがあったら教えておくれ」
丙は焦ったが、葵は素直な声色で言葉を返してくれた。
「私も、大丈夫だとよいのですが……何かあれば申し訳ございません」
葵には、いやそうな気配がまったくなかった。
——葵さんは優しいな……。
翌朝、少し寝不足気味の目を擦って周囲を見ると、葵は先に起きたようだった。身支度をして食堂に向かうと、茄子川が新聞を渡してくれる。日常生活に欠かせない情報源だ。丙はざっと記事に目を通した。
『昨夜も倉庫の壁面だけが黒く焼ける奇妙な火災が発生、警察は放火や火属性の妖による災害の可能性も視野に入れて捜査中……』
——物騒だな。兄さんが関わってないといいけど。
兄の目標は次代の帝位だ。
奇跡を連続させなければ叶えられないほどに高い。ゆえに、兄は手段を選ばない傾向がある。
『墨を散らしたような花びらを見たという証言が相次ぐ……』
——これは、芦屋家が警戒しているあやかしだろうな。
『帝都で皇族方の社会事業が話題』『自動車事故が増加している。運転には十分注意されたし。あやかしによる災害という説もあり……』
情報の海に溺れていると、声がかけられた。
「おはようございます、丙様」
葵だ。そう思った瞬間、読んでいた文字がどうでもよく思えた。顔をあげると、彼女がいる。
「おはよう」
葵がフミと一緒に朝食を運んでくる。
味噌汁、出汁巻き卵、鯵の干物の焼き物、大根おろしに沢庵、それに炊きたての白飯。
朝食はとてもおいしくて、しかも葵の手作りだった。
味噌汁の温かな湯気は、なんだか幸せの象徴めいている。
——結婚って、いいものだな。




