38、丙の話
丙には、生まれた家の記憶がない。
気づいたときには、貧民窟の片隅で兄と肩を寄せ合い、暮らしていた。兄のことは物心ついてからずっと兄だと思っているが、血のつながりはない。けれど、血のつながりなんてどうでもよかった。兄は兄だ。
貧民窟には、二人の面倒を見てくれる優しいお婆さんがいた。
お婆さんは、そんなに生活に余裕がある人じゃなかった。それなのに子供二人を養おうと無理をしたので、体を壊して寝込んでしまった。
栄養のある食事も摂らせることができず、薬も手に入らず、医者は金がないと診てくれない。
兄弟が右往左往するうちに、お婆さんは亡くなってしまった。
——ちゃんと養生すれば、きっと治せたのに。悔しくてたまらなかった。
丙はそのとき、「自分は将来、医者になって、貧しい病人を断らずに診てやるんだ」と思ったのだった。
兄弟は生きるために日雇い労働などをしたけれど、貧しい子供に罵声を浴びせてくるような威張り散らした金持ちが、丙は本当に嫌だった。
馬鹿みたいに高価な服や煌びやかな宝飾品で身を飾っている。
懸命に働いても手が届かなかった薬の、何倍も値段が張る玩具を「安い」 と言う。彼らは病気になったときに、しっかりと治療を受けて養生できる。
腹が立って仕方なかった。
でも、一緒に育った兄は金持ちに憧れていた。
兄は愛想よく金持ちに媚を売り、施しをもらって 丙に分けてくれた。
兄はどんなに馬鹿にされても反抗的な態度を取らず、彼らがどんな風に接したら喜ぶのかを試行錯誤して、虚言を使う。
「俺たちのおっかさんは、実は名のある家の令嬢なんだ。だけど訳あって俺たちを捨てざるを得なかった。俺は捨てられたときのことを、ぼんやりと覚えているよ」
兄は、そこで一拍の間を設けて聞き手を焦らした。話し上手だ。
可哀想な子供の親がどんなふうに子を捨てたのか、大人たちは好奇心を刺激された様子で身を乗り出してくる。
「こっちの弟がまだ赤ん坊の時でさ」
そう言って丙に注目させるので、丙は決まって憐れみを誘う表情を作ったものだ。
つらくて仕方ない、その話をされると心が傷つく——そんな演技だ。
半分くらいは本当の気持ちだった。
けれど、「これは演技だ」と思うと、少し気が楽になる。
——自分を誤魔化して心を守るって、必要なことなんだ。
「おっかさんは『ごめんね』って言って逃げていったんだ。 弟を抱きしめてさ。よくわからないけど、俺たちがいなければ、おっかさんはきっと幸せになれるんだろうな、そうだったらいいな、なんて思ったよ」
この作り話はウケがよくて、同情してくれる金持ちが何人も現れた。
そのうち、芦屋家当主の怜士が兄弟に興味を持ち、養子に迎え入れた。
「お前たちの素性を探ってやろう」
怜士はそんなことを言って、兄弟を芦屋家の奥にある蓮池に連れて行った。
月がまんまるの夜だった。
怜士が呪文のようなものを唱えると、池の水面に過去が映った。
そこに映った内容は、なかなか醜悪だった。
許嫁がいる蜂須賀家の令嬢が、やんごとなき権力者に強引に寝所に連れ込まれる。
令嬢は権力者に嫁ぐよう命じられるも、許嫁と駆け落ちをする。
逃げているうちに、権力者の御子を孕んでいることがわかる……。令嬢はその子を産み、捨てた。
——兄は、捨てられた赤子が貧民窟で育てられるのを見て「俺の嘘は本当だったんだ」と興奮していた。
しかし、その子が成長していくと、丙だとわかっていく。兄だったらよかったのに、と、幼い丙は思った。
「そうか、これは俺じゃなくて丙の母親だったのか」
兄が落胆を滲ませて呟いたので、丙の心は罪悪感でいっぱいになった。
——兄に対して申し訳なくて仕方ない。
もしかしたら、兄との関係はこれきり気まずくなって、不仲になってしまうかもしれない。
そう思うと、不安で寂しくて、たまらなくなった。
兄は言った。
「丙の母親は可哀想だな。お前も不憫だ。大人の世界はどろどろしていて面倒くさい」
丙は悄然とうなずいた。
まったくもって同感だった。
そうだろうなと思っていたが、自分が親に望まれていなくて「いらない」という明確な結論の末に捨てられたのだ、と、まざまざと見せつけられたのだ。しかも、それで兄との関係に、ひびが。
「丙、お前、そんな顔するなよ」
兄はそんな丙の手を握り、目を覗き込んだ。そこには、負の感情はなかった。
その目には、普段通り、血の繋がりのない弟を思いやる温かな愛情があふれていた。
「高貴な弟がいて俺は鼻が高い。お前、もっと偉そうにしろよ。お前はすごいんだぞ」
「兄さん……」
兄弟を見守っていた怜士は、その様子に目を細める。
「お前たちは、これからも兄弟として生きるように」
そのあと二人は英才教育を受け、丙は母親から受け継いだらしき蜂須賀家の異能と父親から受け継いだらしき尊き金烏の力を発現させた。
その頃、都では皇族が集まる場で事件が起きて皇族の数が激減し、尊き血を存続させるためにこれまでは皇族として認められなかった子供たちを皇族として認定しようという議案が出てきたところだった。




