36、人魚憑きの誓い
母が消えたあとの空間を、はらりと一枚だけ、金色の花びらが舞い降りる。
金烏の奇跡は、泡沫のごとき過去の夢を、少しだけ見せてくれた。
◇
むかし、むかし。
大海原にぷかりと浮かぶ小さな島に、高貴な若様がいました。
若様は大きくて立派な家の跡取り息子でした。その身には先祖代々受け継がれてきた、人魚の血がすこしだけ流れています。
名門の家の教育はしっかりしていたので、若様は才能を開花させ、ふつうの人間にはできないような、不思議な術をたくさん使いこなすことができるように成長しました。
そんな若様には、お嫁さん候補がいました。
若様と同じぐらい才能にあふれた蝶子ちゃんです。
蝶子ちゃんは気に入らないものは何事も力でねじ伏せて、なんでも思い通りにする子でした。
蝶子ちゃんは若様が好きでしたので、若様の夫人の座を狙い、他の娘たちを牽制したり、いじめたりしました。
「汐穂子。あなた、さっき若様に色目を使っていたわね。ろくに能力もないくせに」
「ち、ちがいます」
私、汐穂子は、よく蝶子ちゃんのいじめの標的になっていました。島にいる、数少ない若様と同じ年ごろの娘だったから。そして、私が若様の奥方の座を取り合うライバルだから。
「蝶子! また汐穂子をいじめて。だめじゃないか」
若様は、私をよく庇ってくれました。私にとって若様は優しい、憧れの方でした。
私はあまり才能がないなりに術の勉強に励み、料理や行儀作法も向上するように努め、こっそり、ひっそりと若様の奥方の座を目指していました。けれど。
「汐穂子。お前さん、若様に憧れてがんばっているのを見ると、つらくなるよ。だって、蝶子ちゃんとの差が開きすぎていてねえ」
「汐穂子。無理しなくていいんだよ」
お父さんとお母さんはだんだんと「早めに諦めてしまうほうが楽になるよ」と諭すようになっていきました。
「私は諦めたくないのに」
だけど、努力で埋められない才能の差がある。
頑張れば頑張るほどそれがわかって、切なくなる。
「どうして私には才能がないのだろう」
眠れない夜に家を抜け出し、海辺を歩きながら呟いた、そのとき。海のほうから、歌声が聞こえたんです。
月から泳いでこの星にきて海が気に入ったから住み着いた。うさぎはどこにいったんだろう、真っ黒おてての可愛い子……そんな歌詞だったと思います。
私はそれを聞きながら、おそらく魅了されて海へと入っていきました。泳ぎは得意でしたが、途中で足がつったようになって、溺れたのを覚えています。
海の中を沈んでいく時間は陸にいたときよりも不思議と安らかで、苦しくなくて、夢のようでした。
私はその夢の中で、無数の泡沫を纏った幻想的な人魚姫を見ました。
人魚姫は珊瑚色の長くうねった髪をなびかせ、しなやかな腕を伸ばして、私の頬に手を当てて——口づけをしました。
柔らかい唇から空気が私の中に入ってきて、そこから人魚姫の言葉がいくつもいくつも咲きひらき、私の心に染みていきます。
「恋をしているの?」
うん……そうなの。
「でも、奪われてしまいそうなのね」
嫌だ。負けたくない。
「そうね。恋は、奪うもの。おとなしくしていては、奪われてしまうだけ」
私、奪われたくないの。
「それじゃあ、一緒にもぎ取りにいきましょうか」
夢から覚めたとき、私は海辺にいて、若様に抱きかかえられていました。若様は意識のない私に人工呼吸をしてくれて、私が目覚めると喜んでくれました。
私は浮かれあがってしまい、その場で若様に抱き着いて、告白をしたのです。そして、若様に自分から唇を寄せました。
若様は私の想いを受け入れてくださいました。
頭上では満天の星空と純白の満月が輝いていて、私は幸せな気持ちでいっぱいになりました。
めでたし、めでたし。
物語であれば、そこで終わったのかもしれません。
けれど、人生には続きがありました。
振り返ると、その夜の若様はまるで酒に酔っているみたいにふわふわとしていて、私も普段ならできないような大胆な告白ができました。
「琢朗様。ずっとお慕い申し上げておりました……」
もしかしたら、人魚が魅了の力を使っていたのかもしれない。
そう気づいたときには、二人揃って島から逃げ出し、駆け落ち同然で帝都にやってきたあとでした。
帝都に着いたあと、私はだんだんと体が弱っていきました。
まるで、海の中で生きてきた人魚が陸に上がって弱っていくよう。
そんな想像をして、私はすっかり怖くなってしまい、あの人魚のことを若様に打ち明けようとしたのです。
けれど、気味の悪いことに、人魚のことは何度試しても、誰にも伝えることができませんでした。
そうするうちに私が若様の御子を身ごもっていることが判明して——人魚の夢を見ました。
「激しい恋。恋敵を押しのけて成就させる恋。泡沫のごとき甘い夢。夢はいつか、終わるもの。恋敵の涙があなたを溶かす。そして、迎えがくるでしょう……」
人魚姫は、幸せな結末を許さない。
私は——人魚憑きは、泡になり、月へと還るさだめだったのです。
「愛しているよ、汐穂子」
「私も。私も、あなたのことが大好きです」
愛が深まるほどに幕引きは早まっていく……。けれど、彼にはそれを内緒にして、私は残された時間で彼の子を出産しました。
我が子を抱く彼を見て、ああ、幸せな人生だった、と、思ったのでした。
愛しい娘の成長を見守り、愛情を注いであげられないのだけが、心残り——それを思うと、涙があふれて止まらなくなるのです。
「わしと一緒になれば、泡にならんで済むで。まだ生きられるのに死に急がんでもよかろ。娘ちゃんもお母さんがおらんかったら、寂しいやろなあ」
あやかしの王は、いつからか私に付きまとうようになりました。
私の愛が、悲しみが、無力感が、彼にはさぞ美味しかったのでしょう。
泡となって消えるとき、私は、愛しい私の子を抱きしめて、全身全霊で「この子を守る」と誓ったのです。
誓いはきっと、ほんのわずかの奇跡をもたらし、遠い未来で娘を守ってくれるでしょう。
それが母親になれた私の、たったひとつの救いであり、祈りなのです。




