34、やっちゃえ、金烏
「【寂しいんやろ? 羨ましかったんやろ? 嫉妬してしまうんやろ? 醜い自分がわかってる、可愛い可愛い、ええ子やねえ】」
男は笑む。葵は自分が蝶子夫人になった錯覚に陥った。
夫人は愛が欲しかった。
手に入れるため、琢朗に抱き着いた。
琢朗が自分に笑いかけてくれると、ときめいた。
彼は自分の大切な居場所であってほしかった。
その場所に彼が他の女を招き入れると傷ついた。嫌だった……。
「【憎しみを燃やせ。奪われる前に奪え。独占してしまえ。衝動のままに暴れて、何もかもを思い通りにしてしまえ】」
呪詛が真っ黒な煙の鎖になって葵に向かってくる。
あれを受け入れれば、きっと呪術が使えるようになる。
強い力が手に入る。けれど、そうして手に入れた力は、葵自身の魂も傷つけ、がんじがらめにして闇に堕とすのだろう。
誘惑の波が身のうちで暴れる。
——波美子はなんでも持っている。言霊の異能も、うらやましい。私も特別な力を奮いたい。
「だめ……」
葵は震える指を手のひらに織り込み、手を握った。
視界いっぱいに光が咲いたのは、そのときだった。
「【私の娘に、手を出さないで】」
女性の声がして、子供の体が誰かに抱きしめられる。
初めて聞く女性の声は、よく響いた。
葵はこんな風に響かせる能力を知っている。
人の心にぐさりと刺さり、支配する強さがある——波美子が昔使った【言霊】といわれる異能だ。
長くて美しい艶髪が視界に零れて、心臓がとくんと脈打った。
女性は葵の耳元で、そよ風みたいに囁く。
「愛しているわ」
それが誰なのか、葵にはわかった。
「——お母様……!」
「あれは、墨染の王。心を明け渡しては駄目よ」
母はそう言って、空気に溶けるように消えた。
あとには優しく清らかな花の香りと、目の前で「ほう」と目を見開く墨染の王が残る。
気づけば、葵は成長した現在の姿になっていた。
立ち上がって墨染の王を睨むと、王は煙管を指先で弄んでまわし、ゆっくりと腰を上げる。
「【思い出したわ。お前の母は人魚憑きやったな】」
「人魚憑き……?」
「せや。想い人への愛情を厚くするほどに命が削られて、しまいには泡となって消える。消える際には強力な守護の力をひとりに授けられるんや」
葵は息を詰まらせた。
母は、きっと父と恋に落ちて——葵に守護を授けて、死んだのだ。
「わしはあの人魚憑き——人魚姫を救ってやろうとしたのになあ。人間ではなく、あやかしを愛せば、人魚の呪いは発現せぬ。せやから、わしと番おうと求婚したのに」
とうの昔に失くしたお気に入りの玩具を慈しみ、惜しむ声で言い、王は喉を鳴らす。
気分しだいで牙を剥く自由な猛獣に似た唸り声が、その喉から漏れた。
「【あれは、哀れで綺麗な人魚姫やった。失うてしもうたことを惜しいと思うていた】」
目の前にいるのは、父が教えてくれたあやかしだ。
このあやかしに、もしかしたら蝶子夫人も——ふと、葵はそう思った。
王の眼差しには色がある。
とろりと甘い蜜のように絡みつくその視線は、不快だった。
「【娘も美しく育ったもんやな。人魚の守護はうっとおしいが、可憐な薔薇には棘があるもんや。わしの花嫁に迎えてやろう。来い。永遠の夢を見せてやる】」
「お断りです」
葵は首を横に振った。
その耳に聞きなれた青年の声が届く。
「……さん。葵さん」
「丙様!」
後ろから聞こえる気がして、振り返る。けれど、背後には何も見えない。
——否。
金色に輝く弓矢が暗闇の中にぽっかりと生まれて、照準を定めようとしている。
「君は悪夢に囚われている。僕は今から夢魔を祓おうと思うのだが……」
「……はい!」
丙の声に、葵は懸命に返事をした。
やはり、ここは夢の世界なのだ。おそらく墨染の王の仕業だ。
「……ああ、葵さんの声が聞こえた。よかった。そこにいるんだね」
葵の返事が聞こえて安堵する気配を感じさせてから、丙は困った声になる。
「葵さん、敵はどこにいるの? 僕には見えないものだから……」
くっ、と笑いをこらえきれずに噴き出す墨染の王が腹立たしい。
——あいつめ、見てろ。
「葵さん?」
「あ、いえ」
葵は内心の毒が丙に伝わらないように取り繕い、弓の後ろにまわって矢に触れた。
神秘的な弓矢は、触れると手に馴染む。矢の持ち手を握ったときには、目に見えない丙の手がそこにあるように感じられた。
「私があなたの目になります」
矢の切っ先を墨染の王に向けると、王は肩を竦める。
葵の目には、泰然としていた王の細目に黄金の矢を厭う感情が垣間見えた。
「照準を合わせました、丙様」
「【やめ、やめ。金烏の嘴でつつかれるのは、ぞっとせんわ】」
矢が放たれる。
黄金の光がまっすぐに駆け抜ける。葵はふと武政の気持ちがわかる気がした。
「やっちゃえ、金烏!」
「【退散、退散——】」
視界が黄金の光で染まる。
——まぶしい。
矢が当たったのか、逃げられたのか、わからない。
目がくらんで、ぎゅっと閉じて、再び開けたとき、葵はするりと悪夢から覚めた。




