33、同じやね
「くすん、くすん……」
葵は夢を見ていた。
子供の夢だ。もっと言うなら、子供のころの自分になった夢。
——私、子供になってる。
子供の啜り泣く声を聞きながら、葵は視線を落とした。両手は小さくて、目元を拭うと濡れている。
——?
どうして私、自分が大人だと思っていたんだろう。私は子供なのに。
ふと湧いた違和感を振りきり、葵は周囲を見渡した。
ここは、どこだっけ。
「おかあしゃま、このえほんを読んでほしいの」
桜の化身のような女の子が母親と寄り添い、絵本を読んでいる。蝶子夫人と波美子だ。
葵は羨ましくてたまらなかった。
自分にはあのような母がいないのに、波美子には当たり前に存在するのだ。
葵は寂しくて仕方なかった。波美子が母親の手を繋ぎ、母親にあやされ、撫でられ、愛情を注がれる。
それを見るたびに胸がキュッとして、叫びたくなった。
……私も。
私も、あんな風にされたい。
あんなお母様がほしい。
「おねえしゃま?」
でも、葵は「お姉様」だった。
泣いて駄々を捏ねても、お母様は物心つく前に亡くなっていて、どうしようもないのだとわかっていた。
目が合うと、波美子は母の膝から立ち上がる。お気に入りのクマのぬいぐるみを大切そうに両手で抱きしめて、姉のもとへとやってくる。
「おねえしゃま、どこかいたい? いたいのいたいのとんでけえ」
懸命に言ってから、宝物のクマのぬいぐるみを葵に持たせてくれる。妹は優しくて、いい子だ。
「おねえしゃま、あのね、あのね。クマさんあげるね」
なぜ優しくていい子になったのか——それは、愛されているからだ。
守られてたくさん優しさを与えられたからだ。
自分がたっぷりとものをもらって持っているから、「はいどうぞ」と与えられるのだ。
葵には、そう思えてならなかった。
ものをもらったら、お礼を言うものだ。
優しくされたら、ありがとうと言うのが礼儀だ。
でも葵は、妹の押し付けてきた優しさが、憎らしかった。
「ぬいぐるみなんて、いらない」と怒って、可愛らしい頬を打ってやりたくなった。
こんな優しさで、私のつらさが、なかったことになるものか。
言ってやりたい、わからせてやりたい。
嫌いだと叫んでやりたい。
——そんなこと、ない。
葵の中の何かがその感情を否定する。
——私……いやだ。
こんな自分、いやだ。
嫌な自分を押し退けるように、葵はぬいぐるみを波美子の手に押し返した。
「あっ、おかあしゃま」
人懐こい笑顔で言う妹を後ろから抱き上げて、「お母様」が使用人を睨む。
「その子はどうして泣いているのかしら。絵本を読むのに楽しい雰囲気が削がれるわ。波美子も心配しているじゃない?」
「奥様、申し訳ございません」
「あたくし、その子を見たくないと言ったじゃない? 波美子にも悪影響を及ぼすから、近寄せないでちょうだい」
凍えるような言葉は、葵の胸を切り裂いたけれど、どこか安心させてくれたように思う。
——何もわかっていない子に優しくされるより、まし。
使用人に連れられて遠ざかる部屋は明るく光に溢れていた。
泣きじゃくっていると、廊下の向こうから父が顔を覗かせた。
「葵。どうしたんだ……」
まだ若い父、琢朗は葵の味方だ。葵はほっとした。
「おとうさま」
「泣いてるのか。お父様のお姫様は何が悲しいのかな?」
葵は言葉に詰まった。自分のお母様がいないのが寂しくて、お母様に愛されて幸せな妹が妬ましくて、妹に嫉妬する自分がいやなのだ、なんて、言える気がしなかった。
そんな心は隠さないといけないと思った。
お父様はきっと、葵のことをそんな娘だと思っていないから。波美子みたいな無邪気さを求めているから……そんな娘が理想だと、葵が思うから。
父が葵を抱き上げて、縁側に座り込む。
父は少し汗の匂いがした。
陽射しが風鈴の縁に当たってきらきらしている。
父の汗の匂いは、少しだけ苦手なはずなのに、なぜか安心した。
人間は匂う。生きているからだ。
それは、とても尊いことなのだと思った。
風鈴が揺れる。
透明で綺麗なそれは、触れると冷たいだろう。
美しいけれど、風鈴は優しくない。
風鈴よりも父がいい。
葵はぎゅっと父に抱きついた。父はそんな葵を愛しそうに撫でてくれる。
あったかい。ここには葵の居場所がある。
母親はいないけど、私にはお父様がいる……。
「おとうしゃまー」
——あ。
「おお、波美子か。どうしたんだい」
「あのね、えほんをよんでもらって、えをかいたの。あ、葵もいるのね」
あ。あ。あ。
「どれ。こっちに来て見せてくれるかな」
「あっ、おねえしゃまがいるう」
やめて。波美子。
「おねえしゃま、いたいの、なおった?」
私とお父様の世界に入ってこないで。
「【なんや。同じやね】」
場違いなほど明るい青年の声が言う。
「【愛する旦那さんと娘ちゃんと。幸せな家族団欒の夢に他所の女の娘が入るのが嫌やった蝶子ちゃんと、同じやね】
暗闇に視界が染まる。
ふわり、はらりと雪が降る。
冷たい雪は、下に落ちるほどに黒く染まった。
では、底に寝ている私は真っ黒なのだろうか。そんなことを考えながら、葵は悪夢の中で身を起こした。
小さな子供の葵の前に、男がしゃがみこんでいた。
男は黒い世界に溶け込むような着物を身に纏っていて、煙管を手にしている。
笑顔を張り付けているが、細い目の奥には底知れない暗さが澱んでいた。沼のようで、恐ろしい男だ。
近寄ってはいけない——足が勝手に後ずさる。蛇に睨まれた蛙とは、きっとこういう気持ちなのだろう。
「【葵ちゃん。可愛いねえ】」
男の声は、ぬるりとしていた。
どちらかと言えば美声だと思うが、湿り気を帯びていて鼓膜に絡みつく気持ち悪さがある。




