32、霊障の眠り
「何があったのかは、だいたい把握している。念のため帝都中を見張らせていた植物や蟲たちが知らせてくれたんだ。遅れちゃったけどね」
ごめん、と謝る声には芝居っぽくない悔しさが感じられて、葵はふるふると首を横に振った。
——なんと言葉を返したらいいのか。言葉がうまく出てこない。
「蝶子夫人は……もう、いなくなったんですよね、たぶん……」
「うん」
「あの……フミと車童君のおかげで助かりました。あと、たぶん金烏がとどめを刺したのかも……?」
「君はよく対処したね。怖かったろう」
丙は葵の頭に手を置き、道路へと視線をそらした。
そして、頭から手を放して道路に落ちている黒くて小さな花弁を拾い上げる。葵はそれを見てぞくりとした。
「丙様。その花弁って」
「風切が来るから、僕たちも帰ろう。……ああ、もう来たよ」
言いかけた言葉を遮るように丙が葵の手を握る。
視線を追うと、見慣れた車が近づいてくるところだった。
そっと周囲を窺うけれど、人間になりすましているあやかしがいるのかどうか、わからない。
みんな、普通に見える。
葵はそれが怖いと思いながら、丙の手を握りかえした。
西屋敷の車は二人のすぐ近くに停車して、運転手の風切がドアを開けて頭を下げる。
「遅くなりまして、申し訳ございません」
葵は丙の手を借りて車に乗り込んだ。
ドアが閉まると、疲労がどっと押し寄せてくる。車童が心配そうに肩に乗り、声をかけてくる。
「また危なかったでございます?」
「ああ……車童くん。私、ちゃんとぎゅーってしたよ」
「それは、えらかったでございます!」
「ありがとう。おかげで助かったよ」
葵はそのまま疲れに身を任せて目を閉じた。
車の揺れが心地よい。
張りつめていた糸がぷつりと切れ、意識は静かに闇へ沈んでいく。
◇
眠りに落ちた葵を受け止めて、丙は肩の力を抜いた。
ここ最近、墨染の王の出没情報が増えていた。もともと芦屋家を含む神裔名家の方針として、帝都の監視を強化するという話があったのに加えて、兄からの話だ。
「波美子が下手すると『一緒に家出しましょう』とか誘うかもしれんぞ」
彼女たちの身になると見張られるのは嫌だろう。
けれど、念のため、安全のため——と言い訳をして、丙は異能を使った。
葵と波美子の居場所や過ごしている様子などに異変があれば報告するように、と帝都中の植物や蟲たちに命じたのだ。
本当に異変が起きたと蟲の知らせがあったときには、肝を冷やした。
慌てて兄を呼びつけ、普段の何倍も派手に金烏の力を奮ったので、正直、疲労困憊だ。
自分には怪異が見えないが、兄は薄っすら、ぼんやりと『どのあたりに人外のものがいるか』がわかる。
それがいつもは頼もしく、今は少しだけ嫉妬の対象になっていた。
車は今日の悪夢を置き去りにするように、帝都の街を走り抜けていく。
やがて西屋敷へと到着すると、フミと茄子川が青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「まあ、葵様! だ、だ、大丈夫ですの……⁉」
「おかえりなさいませ……」
丙は二人に説明をして葵を大切に抱いたまま寝室へ運び、フミに寝間着へ着替えさせてもらって休ませた。
その後、葵はこんこんと眠りつづけた。
——疲労や精神的なショックのために休養を多く必要としているのか?
脈を取ったりしつつ見守っていたが、眠り始めて二日が経つと、恐ろしい予感に襲われた。
——もしや、これは霊障の症状ではないか?
霊障というのは、妖や悪霊、呪詛などの霊的干渉によって生じる異常現象だ。
軽度の体調不良から生命を脅かす呪いまで、その程度はさまざまである。
丙は金色尾っぽの蜻蛉を本家に飛ばして芦屋家当主の怜士を呼び、葵を霊的に診察してもらった。怜士は険しい顔つきになり、最悪の所見を教えてくれる。
「墨染の王の気配がする。間違いなく、奴の霊障じゃろう」
「そんな……!」
どうしてもっと早く気づかなかったんだ。
僕が安穏としている間に、葵さんは……。
表情が動かない無垢な寝顔の彼女の心は、恐ろしいあやかしの王に囚われて、虐げられ、今も苦痛の中で助けを求めているのかもしれない。
丙は激しい焦燥感と不安と後悔で頭がどうにかなってしまいそうだった。
もう、このまま目を覚まさないのではないか。
墨染の王に彼女を攫われて、二度とあの笑顔を見れないのではないか。あの鈴が鳴るような耳心地のいい声が、聞けないのではないか。
「葵さん」
呼びかけにこたえる声はない。
「葵さん」
手を握っても、瞳がひらかれることがない。
まっすぐに丙を射貫くあの眼差しが、もう——見られないのではないか。
「——葵さん……!」
丙の胸の奥で不安が翅を広げる。
大切な人を失う恐怖が、抗えないほど大きくなっていく。
いやだ。
だめだ。
そんな現実は、許さない。
「怜士様。手伝ってください。僕は、彼女を救うためなら何でもします。芦屋家の望むまま、権力争いの場に躍り出てやってもいい」
まだ、彼女は温かい。まだ、彼女は息をしている。
溺れる者が一本の縄に縋るように、丙は葵の手を握りしめた。その指の先には、貝殻みたいに可愛らしい爪が形よく艶を放っている。なんて愛しいのだろう。癖のない真っ直ぐな髪も、頬も、唇も。全部、ぜんぶ。
——奪わせて、なるものか。
「あやかしの王などに、僕の花嫁を渡すものか」
僕は耐えられない。
君を失うと思うと、我慢がならないんだ。




